真田太平記 読書記録 2  りょう99@笠原良太

2016年のNHK大河ドラマが真田丸なので読みました。

下から書いてます。


真田太平記の12巻はとてもつまらないので読みません。。
後で読むかもしれない。。

■2015年2月13日(金)
「真田太平記(11)」 池波正太郎 新潮文庫 読破

大阪冬の陣で和議がなったが大阪城の堀は埋められてしまった。
大阪城は裸城になってしまった。
大阪夏の陣がはじまった。
大阪城には6万の浪人たちがまた集まっていた。
関東方は20万人。
真田幸村は家康本陣にせまった。
家康は半里一里も逃げ、一時切腹を覚悟した。
しかし関東軍はあつみがありとどめを刺すまではいたらなかった。
幸村も最後となった。
秀頼が出馬すれば士気もあがるとさんざん献策したがきいてもらえなかった。
私が思うに秀頼が出馬していたら秀頼めがけて敵が殺到していたと思うのだが。。
大阪城は焼け落ち、秀頼も淀殿も最後となった。

  

■2015年2月11日(水) 休日 建国記念日
「真田太平記(10)」 池波正太郎 新潮文庫 読破

家康は豊臣家を滅ぼしてしまおうと大阪城にせまった。その数30万。東軍。
大阪城には浪人が集まりだした。その数10万。西軍。
関ヶ原の戦いのおり西軍について改易された浪人がたくさんいたのだ。
真田幸村も大阪城に入った。
真田幸村が大阪城に築いた出城が真田丸である。
小競り合いがはじまった。
退却とみせかけて真田丸はなりをひそめた。
東軍は真田丸にせまった。幸村はこの時を待っていた。
東軍を引きつけておいて真田丸から鉄砲がいっせいに火を噴いた。
東軍の死者数千。幸村の名は一躍上がった。士気もあがった。
ところが大阪城に打ち込まれた大砲に驚いた淀殿は東軍とすぐ和睦(わぼく)してしまった。
大阪城の掘りは東軍によって埋められてしまった。
真田丸も取り壊されてしまった。

 

■2015年2月9日(月)
「真田太平記(9)」 池波正太郎 新潮文庫 読破

1600年の関ヶ原の戦いで天下をとった家康。
しかし大阪城の豊臣秀頼をめぐって確執は深まっていく。
1611年家康は上洛し、加藤清正が秀頼をまもり対面はなった。
秀頼は19歳くらいになっていて背も高く威厳もあり家康の不満は高まった。
家康も歳をとった。自分の眼の黒いうちに秀頼をなんとかしなければならない。
まず豊臣恩顧の武将加藤清正を毒殺してしまった。正史はわからないが。
そして豊臣家が建てた寺の鐘銘に難癖をつけた。
「国家安康」「君臣豊楽」という文字だ。
「国家が平穏で」「君臣が豊かに楽しく・・・」という文言だが
家康の名を安の一字で切断しており、徳川家にのろいをかけているっと
いちゃもんをつけたのだ。
家康は、大阪城をわたせ、他国へ移れ、淀君を江戸に人質によこせっと要求した。
もう戦いはさけられない。
大阪城には浪人が集まりだした。
真田昌幸はもう死んでいる。幸村の元へ大阪城に入ってくれるよう密使がきた。

   

■2015年2月7日(土)
「真田太平記(8)」 池波正太郎 新潮文庫 読破

家康にたてついた真田昌幸、幸村親子は
高野山のふもと紀州久度山に蟄居(ちっきょ)することになった。
部下は20名ほど一緒に住むことができた。
家康は征夷大将軍となり、それを秀忠にゆずり
家康は大御所といわれた。
豊臣家は65万石くらいの大名となったが
淀殿と秀頼は家康とはうまくいってなかった。
天下は豊臣家のものと思いこみ家康に頭を下げることはなかった。
真田昌幸、幸村は戦いを望んでいた。
また関ヶ原のような戦いで徳川を破りたかった。
前の関ヶ原の戦いで関ヶ原にいなかったことを後悔した。
今度こそ徳川との一大決戦で勝ちたい。
家康はいつまで生きるのか。
真田昌幸の天命はつきようとしていた。。

   

■2015年2月4日(水)
「真田太平記(7)」 池波正太郎 新潮文庫 読破

家康に叛旗を翻した会津の上杉を討つため東へ向かった家康軍。
この機に西から兵を挙げた石田三成軍(西軍)。
西へとって返すことになった家康軍(東軍)。
関ヶ原の戦いの始まりである。
東海道を行く家康本軍。
中山道を行く秀忠軍3万。
ところが中山道を行く秀忠軍は真田昌幸、幸村のこもる上田城で
足止めされほんろうされ関ヶ原の戦いに遅参して参加できなかった。
これで真田昌幸も幸村も西軍が勝ったと思ったろう。
ところが秀忠軍ぬきでも家康は関ヶ原の戦いに勝った。
昌幸、幸村も三成は何をやっていたんだと思ったことであろう。
真田昌幸、幸村も家康は死罪にしようと思ったが
真田信幸(兄)の舅(しゅうと)の本多忠勝が強烈に抵抗して
真田昌幸と幸村は高野山に追放されただけですんだ。
関ヶ原の戦いの様子が詳しく書かれていて興味深い7巻でした。

   

■2015年1月31日(土)
「真田太平記(6)」 池波正太郎 新潮文庫 読破

秀吉が死ぬと家康が天下をねらいだした。
織田家から天下を奪った秀吉、
家康が豊臣家から天下を奪ってももんくはいわれないであろう。
前田家は利家が死んだものの加賀100万石である。
しかし前田家はまつを江戸に人質に出し完全に家康に屈した。
ここに家康に屈しない大名があった。
会津120万石の上杉家だった。上杉家は戦いの準備をはじめた。
家康は秀頼様のためと称して上杉討伐で東に向かう。
そこで西から兵をあげたのが石田三成だった。
西軍旗頭には毛利家になってもらった。毛利家は大阪城に入った。
三成の盟友大谷吉継も西軍についた。
大谷吉継の娘が真田幸村の嫁になっている。
そして真田昌幸(父)は真田が苦しかった時に上杉が同盟してくれた恩を忘れてなかった。
真田昌幸と幸村は西軍についた。
中山道を通って関ヶ原に向かう徳川秀忠軍4万を上田城で足止めするつもりである。
真田信幸は家康の武将本多忠勝の娘を嫁にもらっていたため家康についた。
親子兄弟が戦うハメになったが片方が勝てば真田は滅びない。
関ヶ原の戦いがはじまろうとしていた。
家康は福島正則などの豊臣家武断派武将をうまくとりこんでしまった。
石田三成にくさのあまり家康についてしまったのだ。あとのまつり。

真田太平記のオープニングで出てくる向井佐平次は、
真田の忍者をたばねている壺井又五郎の子供です。

 

■2015年1月28日(水)
「真田太平記(5)」 池波正太郎 新潮文庫 読破  

淀殿が秀頼を産んだ。
朝鮮出兵は2度に渡り行われたが秀吉が死んで終わった。
秀頼はまだ小さい。
守り役の前田利家もすぐ亡くなってしまった。
一躍徳川家康が脚光をあびるようになった。
豊臣家も文治派の石田三成たちと武断派の武将たちの間で
確執が深まってきた。
家康は武断派武将たちを取り込んで天下人に近づいていく。

  

■2015年1月25日(日)
「真田太平記(4)」 池波正太郎 新潮文庫 読破

日本を統一した秀吉は朝鮮に出兵した。
はじめは調子が良かったが
朝鮮の水軍に補給船はほとんど沈められてしまった。
誰もがこれはおかしいぞっと思ったが秀吉には何も言えない。
真田幸村は秀吉のそばにつかえ、
真田昌幸(父)は1000人、真田信幸(兄)は500人ひきつれていたが
3人とも朝鮮には渡らずにすんでいる。

真田の女忍びのお江は甲賀の忍びとやりあっている。
武田信玄は甲賀の忍びを使っていたが
信玄が死んだ頃に袂を分かちお江は真田の忍びになった。
それが争いのもとだった。
お江は甲賀に乗り込んだが深く傷つき昔の仲間のもとにかくまわれた。
傷が治るとやっとのことで甲賀から抜け出した。
昔の仲間は死んだ。おじいさんなのだけど。。

  

■2015年1月24日(土)
「真田太平記(3)」 池波正太郎 新潮文庫 読破

信長が死に東海から山梨、長野に勢力を伸ばしてきた家康は
当然長野の上田で真田と衝突した。
これを予想して上田城を築いていた真田昌幸は徳川軍に大勝する。
真田昌幸(幸村の父)の名もあがった。
そして上杉が秀吉の傘下に入り家康も秀吉の傘下に入ると
上杉のもとにいた真田幸村は秀吉のもと(大阪)に行くことになり
幸村の兄真田信幸は家康の武将本多平八郎忠勝の娘稲姫をもらうことになった。
本多平八郎は家康の配下では一番強いんじゃないだろうか。
大阪城を築き四国、九州を制圧した秀吉は大名同士の争いを禁じた。
真田領だった沼田(群馬)は北条に渡されることになった。
しかし北条は沼田以外の土地まで戦闘で奪ってしまった。
秀吉は怒り北条征伐がはじまった。
北条の小田原城は10万の上杉勢に囲まれたこともあったが落ちなかった。
しかし秀吉は城攻めの名人だ。小田原城は落ちた。
この時、伊達政宗も遅ればせながら秀吉の傘下に入った。
秀吉は会津まで行き日本を統一した。
沼田は真田領にもどり真田信幸(幸村の兄)が城主になった。
真田昌幸(幸村の父)は大変喜んだ。上田とあわせ6万石くらいだが。
真田幸村は大谷吉継の娘をもらうことになった。
そしてこれで日本が平和になれば良かった。
ところが秀吉は朝鮮に出兵し明まで攻めるということまで考えていた。
秀吉は発言力が増してきた千利休ともそりが合わなくなり殺してしまった。
もう秀吉をいさめる人はいない。
家康は秀吉の命令で東海から北条がおさめていた関東に移ってきた。
家康も大変だね。この頃に秩父神社を再建してくれました。

   

■2015年1月22日(木)
「真田太平記(2)」 池波正太郎 新潮文庫 読破

織田信長は明智光秀の謀反によってたおれた。
真田昌幸(幸村の父)は滝川一益を沼田(群馬)から追い出した。
北条にも敗れた滝川一益は近畿(伊勢)の方へ退いていった。
明智光秀を討った秀吉が織田家相続争いにも勝利し天下をとった。
徳川家康は甲州(山梨)を手に入れ信濃(長野)の真田領にせまってきていた。
真田昌幸は上田城(長野)を築城する。
そして今まで争っていた上杉景勝との同盟もなった。
上杉と同盟しないと徳川、北条に対抗できなかった。
上杉景勝との同盟の時に真田昌幸と幸村は上杉領の越後(新潟)の春日山城におもむいた。
真田昌幸と幸村は殺されるかもしれないと思っていたが
殺されないばかりか人質としておもむいた幸村を
徳川との戦いが終わってからでいいと言ってくれた。感動ものでした。
秀吉と家康は小牧長久手の戦いで一度争ったが家康が勝っている。

   

■2015年1月20日(火)
「真田太平記(1)」 池波正太郎 新潮文庫 読破

2016年のNHK大河ドラマが「真田丸」なので読み始めました。
真田丸は大阪城に真田幸村が築いた出城ですね。vs徳川家康

戦国時代、武田信玄と上杉謙信と北条にはさまれた信州と上州(長野と群馬)で
真田家はあっちについたりこっちへついたりとかろうじて独立を保っていた。
そのうち武田信玄も上杉謙信も死んでしまった。
武田家につき賤ヶ岳の戦いで2人の兄を失った真田昌幸(幸村の父)は一躍頭首となった。
そのうち武田勝頼も織田・徳川連合軍に滅ぼされてしまった。
真田昌幸は武田勝頼に真田領へ落ちてくれば助けてやるといったが
勝頼は天目山で最後となり武田家は滅んだ。
真田家は織田の配下に入り滝川一益の支配下に入った。
そんなおり本能寺で織田信長は明智光秀の謀反によりたおれた。