「真田三代 上下」 読書記録 りょう99@笠原良太
下から書いてます。
長文になるから書かなかったけれど真田幸村には兄信幸がいます。
真田昌幸、幸村親子が西軍についたのに対し信幸は東軍、徳川軍につきます。
信幸は徳川の一番強いといわれる武将本多平八郎忠勝の娘を嫁にもらっています。
どちらに転んでも真田家は生き残るようとりはからった結果です。
西軍が敗れたけど真田昌幸、幸村親子が高野山に蟄居ですんだのは
信幸の嘆願と本多忠勝が強く命乞いをしてくれたおかげです。
もう一度天下分け目の戦いがあると信じていた昌幸にとっては残念な結果となった。
今度こそその舞台に立ちたかったが寿命で死んだ。
■2015年10月13日(火)
「真田三代 下」 火坂雅志 文春文庫 読破
2014年11月10日文庫本発行 2011年11月単行本発行
信長が死に織田家相続争いを制した豊臣秀吉が天下を統一した。
秀吉が死ぬと家康が天下取りに動き出した。
天下は天下の人の天下である。
誰もが次は家康の天下だと思っていた。
ところが石田三成たちは幼い秀頼をもりたて豊臣家を守ろうとした。
会津の上杉は家康に向けて兵をあげた。
家康軍は東北へ進み、そこで石田三成軍は西から兵をあげた。
どちらがはめたのか、どちらがはめられたかは歴史を見て判断したい。
長野の真田昌幸、幸村親子は中山道を行く徳川秀忠軍と戦い、
秀忠軍を何日も足止めして関ヶ原の戦いに遅れさせた。
真田昌幸、幸村はこれで西軍(石田三成側)が勝ったと思ったにちがいない。
しかし家康は秀忠軍がいなくても関ヶ原の戦いで勝った。
真田昌幸と幸村は紀州の高野山で蟄居(ちっきょ)することになった。
家康は天下人となったがまだ大阪城の豊臣秀頼は健在だった。
家康は自分の眼の黒いうちに秀頼を滅ぼそうと思った。
真田昌幸は寿命で死に幸村は大阪城へ入った。
大阪冬の陣、夏の陣がはじまった。
冬の陣で幸村が大阪城の前に作ったのが真田丸である。
幸村は真田丸で家康軍をおおいにやぶってみせた。
しかし大阪城に打ち込まれた大砲に驚いた淀殿はすぐ家康と和睦(わぼく)してしまう。
和睦の条件で大阪城の堀は埋められてしまった。
もう大阪城で籠城することはできない。
夏の陣が始まると幸村は家康の本陣に殺到した。
しかし家康にとどめをさすまでにはいたらなかった。
幸村は死に、秀頼も死に豊臣家は滅んだ。
■2015年10月9日(金)
「真田三代 上」 火坂雅志 文春文庫 読破
2014年11月10日発行 2011年10月単行本発行
真田三代、
真田昌幸、真田幸村親子は有名だけど
その前の真田幸隆から扱っている。
幸隆−昌幸−幸村である。
真田の領地は長野と群馬の一部であり
まわりを上杉、武田、北条、今川などに囲まれている。
武田信玄、上杉謙信が死に、
武田勝頼が織田信長と徳川家康に滅ぼされと
滝川一益が関東にまわされてきた。
真田昌幸は滝川一益の支配下に入る。
しかし織田信長が明智光秀の謀反にたおれると
滝川一益は伊勢(三重県かな)へ戻って行き、
真田の領地は返された。
真田領は上杉、北条、徳川と接触するようになった。
戦乱は昌幸の望んでいたことであり
下巻はとても楽しみになってきました。