徳川家康読書記録 山岡荘八著 全26巻 2016年〜 りょう99@笠原良太
下から書いてます。
2009年にも書いてるけどそっちの方がよく書けてるね。頭が退化してるなぁ。。。
読み終わりました。これで3回読みました。
■2016年9月28日(水)
「徳川家康 26」 山岡荘八著 講談社文庫 読破
大坂夏の陣が終わり完全に徳川の世の中になったが
伊達政宗とその婿松平忠輝(家康の子)に謀反の疑いがもちあがった。
家康の寿命もつきようとしていた。
忠輝は深谷に蟄居となり永遠に家康に会うことを禁止された。
伊達正宗は病床の家康を見舞い爆涙した。
これで正宗の謀反の疑いは晴れた。
家康は74歳で死んだ。
信長、秀吉が死ぬと天下が乱れたが家康が死んでも天下が乱れなかったことはすごい。
真田幸村などは世の中から戦争がなくなることはないといっていたが
250年も泰平の世が続いたことはすごい。
■2016年9月26日(月)
「徳川家康 25」 山岡荘八著 講談社文庫 読破
大坂夏の陣がはじまった。
ここで注目を浴びたのは真田幸村である。
幸村の影武者は7人いたという。8人の幸村がいたわけだ。
幸村は家康本陣の前の敵陣を誘導するため影武者に指示をだした。
そして幸村は家康本陣を急襲。
本陣に急襲すること3度。
家康にも影武者がいたらしいがやられたのかすべていなくなり
家康の護衛も一人だけになってしまったという。
一方将軍秀忠の方の本陣も手薄となり豊臣軍が到達してきた。
しかしこちらは護衛に柳生宗矩がいて7人を斬ったという。
秀忠にも家康にもとどめを刺すにはいたらず真田幸村も最後となった。
大坂城も焼け秀頼も淀殿も最後となった。
千姫は大坂城を脱出し秀頼と淀殿の命乞いをしたが認められなかった。
大御所家康は秀頼も淀殿も助けるつもりであったが将軍秀忠はゆるさなかった。
■2016年9月24日(土)
「徳川家康 24」 山岡荘八著 講談社文庫 読破
豊臣家と徳川家の亀裂はもはや修復できない所まで来た。
豊臣家の難攻不落の大坂城に浪人が集まりだした。その数10万。
関ヶ原の戦いに負けて浪人になったものがたくさんいたのだ。
豊臣家が勝てば国持ち大名になれるかもしれない。
徳川方は大坂城を取り囲んだ。その数20万。
将軍家の秀忠は力攻めをしようとしたが、
大御所(家康)は長期戦をとろうとしていた。
大坂城を取り囲んでおいて、
大砲を撃ち込もうとしたり地下を掘っていき大坂城を地下から爆破しようとしたりした。
こうして大坂冬の陣がはじまった。
小競り合いがあったようなことは書かれているが
真田丸のこととかほとんど書かれていなくて残念でした。
そして大坂城に打ち込まれた大砲に驚いた淀殿はすぐ和睦をしてしまった。
和睦の条件として大坂城の堀を埋めてしまうことになった。
外堀だけという条件だったが内堀も全部埋められてしまった。
大坂城は裸の城になってしまった。もう籠城することはできない。
大坂夏の陣が始まろうとしていた。
■2016年9月18日(日)
「徳川家康 23」 山岡荘八著 講談社 読破
鐘名問題がもちあがった。
豊臣家のお寺につるした鐘に「国家安康 君臣豊楽」という文字をつかったのだ。
徳川家は家康という字を切り離して呪っているっともちあげたのだ。
家康はとうとう豊臣家をつぶしてしまおうと思ったようだ。
まだ淀殿を江戸へよこせ、秀頼を江戸によこしてわびよ、他の地へ転封。
この3つのどれかを選択すれば豊臣家は存続できそうだった。
しかしそんなことを豊臣家が聞き入れるわけはない。
徳川家と豊臣家のもつれはもはや取り除くことができないまでにきた。
大坂城に浪人が集まりだした。
真田幸村(信繁)も大坂城に入った。
後半から真田幸村がよく出てくるようになりました。
そういえば真田昌幸が武藤喜兵衛という名前を使ってたのは本当だったんだね。
テレビの作り話だとばかり思ってました。
真田昌幸は寿命でなくなりました。
■2016年9月12日(月)
「徳川家康 22」 山岡荘八著 講談社 読破
マルコポーロが日本を黄金の国とふれてから、
日本をめざしてカトリックやプロテスタントの国の船がやってくるようになった。
カトリックとプロテスタントは仲が悪く戦争ばかりしていた。
家康がプロテスタントに近づくと、カトリックは大坂方(豊臣家)に近づいた。
カトリックは伊達政宗にも近づいた。
伊達政宗はかなりの力を持っていて台風の目になりそうだった。
あやしい連判状なども出てきてそろそろ豊富家と徳川家も対立が深まりそうだ。
■2016年9月7日(水)
「徳川家康 21」 山岡荘八著 講談社 読破
いつから鎖国状態になるかはよくわからないけど
家康は世界中と貿易をしようとしていた。
カトリックとプロテスタントは互いに戦争ばかりしていたが
家康は対等に貿易をしようとしていた。
カトリックはプロテスタントを海賊だといい、プロテスタントはカトリックを国泥棒といった。
室町時代から百数十年と戦いが続いたが太平の世になった。
槍働きしかできないものたちが大勢いて
太平の世にどうやって暮らしをたてていくか迷うものも多かった。
また大坂方(豊臣家)と家康が戦いとなることを望んでいるものも多かった。
豊臣7武将などもそうだ。加藤清正、福島正則ら。
また関ヶ原の戦いに敗れ浪人となったものたち。
家康も歳をとった。70歳くらいになった。
不穏な動きをみせてくる人たちもいた。伊達政宗、松平忠輝ら。
家康が死んだらどうなるのか?
■2016年8月26日(木)
「徳川家康 20」 山岡荘八著 講談社 読破
旧勢力のイスパニア、ポルトガルは南蛮人といいカトリックだった。
新興勢力のイギリス、オランダは紅毛人といいプロテスタントだった。
カトリックは植民地を広げることを目的としていた。
その手段は、まず宣教師を入り込ませ切支丹(キリシタン)ををひろめて土人を手なずけ
しかるのちに軍隊を送り信徒と相呼応してその国を征服するというものだった。
また日本人を奴隷として国外で売買していたようだ。
その点、プロテスタントはそういうてんでは寛容だった。
家康は新教のウイリアムアダムスを重宝していろいろな知識を吸収しようとした。船も作らせた。
しかしプロテスタントとカトリックは仲が悪く他国で戦争ばかりしていた。
日本でもアダムスに対抗して大坂方にカトリックがつくとかつかないとか。。
伊達政宗にカトリックが金髪女性を世話したとかしないとか。。
家康は元気なうちに将軍職を秀忠にゆずり、また秀頼を右大臣にしようとした。
右大臣は信長の最後の職で、いずれ関白となり公家をまかせるつもりだった。
徳川家は武家の棟梁、豊臣家は公家の棟梁としようとしたのだ。
家康も秀吉の七回忌で豊国祭をとりおこなったり豊臣家と仲良くしていこうとしていた。したたかだった。
秀忠は16万の兵力で上洛して将軍職を受けようとした。
秀頼にも右大臣になり公家の棟梁として秀忠と一緒に諸侯の賀を受けさせようとしたが
淀殿が強く反対した。何故、秀頼が秀忠に挨拶に行かなくてはならないのかと。秀忠が大坂に挨拶に来るべきだと。
徳川家と豊臣家はなかなかうまくいかないようだ。
そして日本国で乱を望んでいた者もまだ多かった。伊達、上杉、毛利、黒田、島津など。
伊達正宗は生まれてくるのが遅かったと大変残念がっていたようだ。
そこで16万の大軍で力を見せつけてみたのだ。頼朝の上洛をならったものらしいが。
日本は統一されたんだから戦いをなくさなくてはならない。
儒学を広め、道徳を確立しようとしたようだ。
家康が一度は淀のお方に手をつけたと書いてあり興味深い。
私は2003年頃に精神病院に入院したのだけど、病室でこの徳川家康を読んでいました。
その時、室長の入院歴20年のおじさんが「人生は重き荷を背負うて遠き道を行くが如し」といいました。
徳川家康の有名な言葉だったようですが私はその言葉を知らなくてすごく感銘を受けました。
本に書いてあるとおり書いておきます。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとしじゃ、急ぐべからず。
不自由を常と思えば、さして不足はないものよ、こころに望みがおこらば困窮したときを思い出すべし」
■2016年8月24日(水)
「徳川家康 19」 山岡荘八著 講談社 読破
家康が勝った1600年の関ヶ原の戦いで、秀頼と淀の君にはなんのとがめも受けなかった。
そらから3年の1603年に家康は征夷大将軍になった。
家康は関白、公家は望まず将軍になりたかったのだ。
武家が天下をおさめるのが良いと思ったようだ。
(家康は源頼朝を尊敬していたようである)
秀頼が16歳になったら政権を返してくれると約束してあったが
そんなことが守られるはずがなかった。
秀吉も織田家から天下を奪ったので誰ももんくはいわないであろう。
豊臣家は60万石の大名になっただけだった。
しかし難攻不落の大坂城に大量の黄金があった。
石田三成憎さのあまり関ヶ原の戦いで東軍(家康側)についた豊臣の武将たちは秀頼を大切にしていた。
加藤清正や福島正則らである。
1603年、秀吉との約束通り、家康の孫、秀忠の娘、また淀殿の妹於江与(江)の娘千姫が7歳で秀頼に嫁いできた。
秀頼はたぶん13歳だったと思う。
これで徳川家と豊臣家の仲が好くなればと思ったのだが。。
秀頼はもう女を知っていた。千姫の侍女にまで手をつけてしまう。妊娠してしまった。。
淀殿はというと酒浸りで男遊びばかりしていた。大野治長といい仲らしかった。
大阪城は魔の城とかしていた。
■2016年6月1日(水)
「徳川家康 18」 山岡荘八著 講談社 読破
徳川家康ら東軍七万五千、石田三成ら西軍十万八千。
なんと西軍の兵力の方が上回った。
中山道をやってくる徳川軍の秀忠率いる別働隊3万は真田にはばまれて関ヶ原の戦いには間に合わなかったのだ。
東軍家康は魚鱗の陣をしいた。全軍一丸となって特攻する形である。
石田三成自身の兵力は少なくそこを突撃されたらたまらないのだ。
西軍石田三成は鶴翼の陣をしいた。まわりから家康軍を包囲する形である。
外人の軍事専門家は西軍の勝ちだといったそうだが、
山の上に陣取った西軍は日和見を決め込んで戦いには参加しなかった。
また小早川秀秋八千にいたっては裏切って西軍におそいかかった。
これで東軍の勝ちは決まった。
戦わなかった毛利は家康に大阪城をあけわたしたが120万石から35万石に減らされてしまった。あとのまつり。
この時の恨みが明治維新の時に爆発する。長州である。
家康は大阪城に入ったが、淀殿と秀頼は何の責めも受けなかった。
■2016年5月29日(日)
「徳川家康 17」 山岡荘八著 講談社 読破
秀吉が死んだ頃、政治をあつかっていたのが五大老と五奉行であった。
五大老 徳川家康、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元、前田利家
五奉行 浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以
前田利家が死ぬと徳川家康が天下人に近づいた。
前田家はまつを江戸に人質に出し完全に家康に屈した。
上杉家は越後から会津120万石に転封になったばかりで国元でやらなければならないことがたくさんあった。
家康は上杉景勝に上洛するように何度も訴えたが上杉景勝はききいれなかった。
この時上杉の軍師の直江兼続が書いた書状が直江状である。
家康は「こんな無礼な手紙はいままで見たことがない」っと怒り会津征伐をおこなうことになった。
家康軍が東へ向かうと西から石田三成が兵を挙げた。
西軍の総大将には毛利輝元になってもらい形はととのった。
どっちがはめたのか、どっちがはめられたのか。
関ヶ原の戦いがはじまる。
■2016年5月26日(木)
「徳川家康 16」 山岡荘八著 講談社 読破
朝鮮出兵あたりから、秀吉子飼いの加藤清正や福島正則ら武断派武将たちと
石田三成ら文治派武将たちはそりが会わなくなっていた。
朝鮮の第一線で戦っていた加藤清正らを国元でぬくぬくしていた石田三成が秀吉に讒訴(ざんそ)したりしたのだ。
負け戦のせいもあったか秀吉も石田三成を信じてしまった。
加藤清正らは石田三成をたいそう恨んだ。
ちなみに熊本城を築いたのが加藤清正である。
淀殿と秀頼に忠誠をつくす石田三成ら文治派武将らと、
家康よりの秀吉の妻ねねこと北の政所を慕っている加藤清正ら武断派武将とに分かれていった。
秀頼の守り役前田利家が死ぬと徳川家康が天下人に近づいた。
天下は天下の人の天下である。
秀吉も織田家から天下を奪った。
家康が豊臣家から天下を奪っても誰ももんくはいわないだろう。
いや、そこに石田三成がいた。
石田三成は秀頼に忠誠をつくしどうにか家康の天下をはばもうとしたが
家康には武断派武将たちがついていた。
また家康は関東三百万石である。動員人数は7万5千にもなった。
1万石で250人の兵力といわれていた。10万石で2500人、百万石で2万5000人。
石田三成は24万石だったかな。家康にかなうはずがない。
しかしそれでも関ヶ原で西軍の指揮をとった石田三成は結構すごいと思います。
負けちゃったからいろいろ悪いように書かれているけどすごいと思う。
石田三成が加藤清正ら7将にねらわれ家康に助けを求めたところで16巻は終わり。
石田三成は佐和山城(滋賀かな)へ隠居することになる。
この本と司馬遼太郎の「関ヶ原」はどちらが最初に書いたのか気になる。ほとんど同じような感じ。
■2016年5月22日(日)
「徳川家康 15」 山岡荘八著 講談社 読破
第一次朝鮮出兵は終わったが、「汝を日本国王に封ず」という言葉に怒った秀吉は
第二次朝鮮出兵に向かう。
足利義満はそれで喜んだのだが。。
秀吉は日本が明の属国扱いされたことに怒ったようだ。
淀殿はまた男児を産んだ。秀頼である。
秀頼が誕生すると、秀吉の姉の子の関白秀次は窮地にたたされた。
前の子が死んだ時にもう子供は生まれないと秀次に関白をゆずり後継者としていたのだ。
秀吉と秀次の仲は悪くなり秀次の悪い噂も広まり秀次は切腹した。
秀次の30人あまりの子供や側室は皆河原で公開処刑された。
それがたたったのか秀吉の健康状態も悪くなった。
政治は徳川家康に、秀頼の守り役は前田利家に頼んで秀吉は死んだ。
家康の後継者秀忠と淀殿の妹(江)の娘と、秀頼をいいなずけとしてあった。
■2016年5月14日(土)
「徳川家康 14」 山岡荘八著 講談社 読破
鶴松丸が死んだ。
秀吉はたいそう悲しんだがその悲しみを朝鮮出兵に向けた。
秀吉は朝鮮は明まで案内をしてくれると思い簡単に明を制圧できると思っていた。
そんなわけはない。
朝鮮は日本に抵抗して李舜臣によって日本の船は沈められていった。
補給もとどこおり明の援軍も来て敗色がこくなり和議を結ぶしかなくなった。
大政所、秀吉の母が亡くなり秀吉もまたたいそう悲しんだが、
茶々、淀殿がまた妊娠したという。
本当に秀吉の子なのか。
実際に疑う人が多かったようである。
■2016年5月6日(木)
「徳川家康 13」 山岡荘八著 講談社 読破
家康は秀吉の天下統一を助けるために秀吉についた。
平和を望むために。
家康と秀吉が戦えばまた天下は乱れるだろう。
家康が秀吉に勝っても明智光秀のような状態になり
四面楚歌におちいり皆に目の敵にされるだろう。
誰もが天下をとりたいのだ。
九州まで統一した秀吉は次は東の北条を討つことにした。
北条の小田原城は上杉謙信が10万人で囲んでも落ちなかった城である。
北条は籠城すれば秀吉軍の食料がなくなりいずれ撤退するだろうと思っていた。
しかし秀吉は船でどんどん食料を運び入れていた。
北条は降伏した。
北条の後地の関東8州250万石には徳川家康が東海甲信5州からまわされてきた。
1590年のことだった。秩父神社を家康が再建したのが1592年である。
東へ国替えをさせられた家康だが良かったのは朝鮮出兵にいかなくてすんだことである。
また秀吉が家康を東へ追いやったのはそれだけ家康を恐れていたからである。
一方、茶々、淀殿に子供が生まれた。鶴松丸である。
秀吉のやった女の人は何十人、何百人といるのに淀殿にしか
子供ができなかったのだから秀吉の子供かどうかは私は疑っている。
■2016年4月26日(火)
「徳川家康 12」 山岡荘八著 講談社 読破
茶々に秀吉の手がついた。
好きだった市姫の娘を手に入れた秀吉は感慨無量なものがあったろう。
それはさておき、家康は秀吉の妹朝日姫をおくっても上洛してくれないので
今度は秀吉の母を朝日姫に会ってこいと家康のもとへおくった。
これでやっと家康は上洛してくれた。
家康との和議がなり家康が家臣の礼をとってくれたので秀吉は西は九州まで統一してしまった。
九州まで行って秀吉は驚いた。
キリシタンが神社を壊していたのだ。
九州はキリスト教国の植民地になろうとしていた。
日本人が奴隷として売り買いもされていたようだ。
秀吉はキリシタン追放令を出した。
宣教師たちを国外退去にしたのだ。
前はポルトガルとスペインが来ていたが最近はイギリスやオランダが来るようになっていたようだ。
■2016年4月16日(土)
「徳川家康 11」 山岡荘八著 講談社 読破
関白となって豊臣の姓をもらった秀吉はどうにかして家康に大阪城まで上洛してもらいたいと思った。
家康は長男の於義丸(秀康)を秀吉の養子として差し出したが家康はどうやっても上洛してくれない。
秀吉は妹の結婚している40過ぎの朝日姫を離婚させて家康の妻にしてもらおうと思った。
そうすれば家康とは義兄弟ということになり上洛してくれると思ったのだ。
そういうことになり朝日姫の夫は切腹してしまった。
40過ぎの朝日姫をもらっても家康はうれしくもないだろう、しかし人質にとるつもりで妻にもらうことにしたようだ。
現在の道徳でも理解できない。。。
家康は真田の上田城へ7千の兵を出したが敗れている。真田の兵は2千。
城攻めには10倍の兵力が必要だといわれていますね。
■2016年4月10日(日)
「徳川家康 10」 山岡荘八著 講談社 読破
秀吉は大阪城を築く。
秀吉は織田の天下を奪ってしまったといわれても仕方がない。
信長の子、織田信雄は家康に助けを求めた。
家康はこれに応じ秀吉に立ち向かう。
秀吉は大軍団で家康にあたったが小牧山に陣取った家康は不動であった。
秀吉は中入りをいわれる家康の本拠、三河をつく作戦を実行するが
はやくも家康の知るところとなり中入りをした部隊は殲滅された。
この間に秀吉は小牧山をとってしまえば良かったとか、
小牧山を離れた家康を攻撃できなかったのかと思うのだがダメでした。
小牧長久手の戦いで秀吉は家康に敗れた。
家康は野戦が得意で、秀吉は城攻めが得意だ。
■2016年4月3日(日)
「徳川家康 9」 山岡荘八著 講談社 読破
織田家相続争いを制したのは光秀を破った秀吉だった。
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破った秀吉。
柴田勝家は人質を皆解放して籠城するが妻お市とともに自害する。
お市の子、茶々、お高(初)、お達(江)は解放された。
家康は甲州を手に入れた。
■2016年3月31日(木)
「徳川家康 8」 山岡荘八著 講談社 読破
武田勝頼を滅ぼした信長は関東の厩橋.(前橋)へ滝川一益を送り込んできた。
家康も東海3国を領することになった。三河、遠江(とおとうみ)、駿河かな。
そんなおり信長は毛利と戦っている秀吉の応援にいこうとしてわずかな供回りと本能寺に泊まっていた。
明智光秀は1万5千の兵で秀吉の応援に行けと信長から支持を受けたが
その兵を本能寺に向けたのだ。信長は本能寺とともに燃え尽きてしまった。
信長に招待されて京見物をしていた家康は伊賀越えをしてやっとのことで本国に帰ってきた。
本能寺の変を聞いた毛利と戦っていた秀吉は速攻で毛利と和睦して京へもどってきた。
秀吉vs光秀の山崎の合戦だが秀吉が勝ち、坂本城へ退却しようとしていた光秀は野武士に討たれてしまった。
この山崎の合戦の舞台に天王山があり、それから天下分け目の戦いを天王山というようになったのだと思う。
家康も本国で戦備をととのへ光秀を討とうと上洛してきたが秀吉がもう光秀を討ったからといわれ本国に帰った。
家康は甲州、信州に眼を向けた。
■2016年3月27日(日)
「徳川家康 7」 山岡荘八著 講談社 読破
信長は長篠の合戦で鉄砲3千で武田騎馬軍団をやぶった。
この戦いから鉄砲が重視されるようになった。信長の着眼点は良かった。
信長は家康の正室築山殿が武田軍を岡崎城に導き入れようとしたかどで殺し、
築山殿の子信康に切腹を命じた。
やはり今川の血が流れていたからだと思う。
信長が安土城を建てたのもこの頃かな。
上杉謙信も死に信長もだいぶ楽になってきた。
そして信長と家康は長野、山梨に侵攻して武田勝頼を滅ぼした。
真田昌幸は沼田へ落ちてくるようにと武田勝頼に言ったが
勝頼は正室の実家北条領の方へ落ちていこうとして最後になった。
沼田は遠かった。。
■2016年3月24日(木)
「徳川家康 6」 山岡荘八著 講談社 読破
信長は朝倉、浅井を滅ぼした。
一方家康は武田と戦っていた。浜松城にいたのかな。
岡崎城にいる家康の正室築山殿は家康が側室をもったのが気に入らなくて嫉妬に狂い
岡崎城に武田軍を導き入れようとした。
また岡崎城には家康の嫡男信康がいた。
信康とその正室徳姫(信長の娘)はうまくいっておらず信康は徳姫の召使いの口に刀を入れ引き裂いたりした。
やはり築山殿と信康には今川の血が流れているからだろうか。うまくいくはずがなかった。
そして築山殿と不倫をしていて武田軍を岡崎城に導きいれる作戦をたてた者はそのくわだてが露見しつかまった。
その者はのこぎり引きの刑にされた。いちみものこらず捕まった。
■2016年3月21日(月)
「徳川家康 5」 山岡荘八著 講談社 読破
市姫を近江の浅井にとつがせた信長は京への道筋をつけあっというまに京都を制圧してしまった。
信長のおかげで室町幕府将軍、征夷大将軍に返り咲いた足利義昭だったが
信長が自分のおもうようにならないので各地の大名に信長征伐を呼びかけた。
そこでやっと重い腰を上げたのは武田信玄であった。
武田信玄が上洛戦をおこしてきた。
家康は三方原で武田信玄に真っ向勝負した。しかし大敗北を喫した。
信玄は家康の領土を通り過ぎていく。ところが武田信玄は途中で死んでしまった。武田軍は退却した。
家康も信長の最大の危機を脱出した。
家康がいるのは浜松かな?駿府かな?
岡崎城にいる家康の妻築山殿は今川の血を引いているため信長をきらい武田につこうとしていた。
岡崎城を武田軍に明け渡そうとしたのである。
家康はたびたび信長の援軍におもむいた。
朝倉討伐では浅井にそむかれ秀吉とともにしんがりをまかされ苦労した。
また浅井・朝倉との姉川の戦いでは家康のおかげで戦いを有利に導いた。
しかし家康と武田との戦いでは信長は3千の援軍しか出してくれなかった。
武田軍は3万である。家康軍は6千人くらいかな。信長は四面楚歌だったこともあるのだけど。
■2016年3月13日(日)
「徳川家康 4」 山岡荘八著 講談社 読破
竹千代→松平元信→松平元康→徳川家康
上洛しようとしていた今川義元は信長によって討たれた。
岡崎城の今川の武将は退去してしまったので家康はやっと自分の城の岡崎城に入れた。
そして家康は信長のもとへ訪れ同盟を結んだ。西は信長、東は家康がおさめようとするものである。
家康の嫡男信康と信長の娘徳姫との婚姻もなった。
しかし家康の妻は今川義元の姪であり、信長の娘徳姫とはイマイチうまくいかなかった。
嫡男信康も今川の血が流れている。
信長に仇討ちをするつもりのない今川義元の嫡男氏真にあいそをつかして家康は信長についた。
そして家康は東へむけて今川の領土を制圧していった。
信長は美濃を手に入れ岐阜とあらためた。
■2016年3月10日(木)
「徳川家康 3」 山岡荘八著 講談社 読破
織田家相続争いを制した信長。そして木ノ下藤吉郎(秀吉)は信長に士官をはたした。
一方、今川のいわゆる人質の松平元康(家康)は今川義元の姪、鶴姫こと瀬名姫を妻として一男一女の子供もできた。
家康の城である岡崎城には今川の武将が入り、いつも最前線で戦わされるのは松平党であった。
そしてついに今川義元の上洛戦がはじまった。その数3万。家康は最前線で松平党(岡崎勢)を指揮した。
上洛戦はもちろん織田領を通っていく。信長は籠城とみせかけ今川義元を油断させた。
義元が尾張に近づくと信長は打って出た。その数3千。
信長は今川の他の武将や家康には眼もくれず今川本陣をめざした。
今川義元は田楽狭間で休んでいるという。土地の者が食料を献上したのだ。これも信長の作戦の一つだと思う。
うまい具合に雨も降ってきて信長の近づくのも気づかなかったようだ。
今川義元が討たれたところで3巻は終わり。
■2016年3月6日(日)
「徳川家康 2」 山岡荘八著 講談社 読破
竹千代(家康)は今川の本拠駿府へ人質として送られることになったがどう間違えたのか織田家にさらわれてしまった。
竹千代の母於大が織田の領内にいたため信長の口利きもあって竹千代は殺されずにすんだ。
信長が三河の弟とかわいがってくれたのだ。
そんなおり竹千代の父広忠は織田との戦いで戦死して岡崎城へは今川家から代官?がおくられてきて松平党は今川の植民地みたいになってしまった。
今川と織田が戦いとなり今川は織田信秀(信長の父)の長子信広をとりこにした。
これで竹千代と織田信広の人質交換が実現した。
竹千代は岡崎へ帰ってきて松平党は大変喜んだが、喜んだのもつかの間、今度は今川の人質で駿府へおくられていった。
今川への人質といってもそれほど窮屈(きゅうくつ)な思いはしなかったようだ。
今川の姫たちにもかわいがられていたし、今川の軍師雪斎が学問を教えてくれた。
一方尾張では織田信秀が死にその後を信長が継ぐことになるのだが行儀の良い弟の信行を押す声が強かった。
信長はうつけと呼ばれ評判が悪かったのだ。
■2016年3月3日(木)
「徳川家康 1」 山岡荘八著 講談社 読破
全26巻です。読み切れれば3回目。
岡崎の松平広忠の元へ、西の刈谷の水野於大が嫁に来た。
広忠は17歳で於大は14歳であった。
その二人に子供が生まれた。寅の年の寅の刻の生まれであった。1542年のこと。
その子が竹千代、のちの徳川家康である。
家康が1592年に再建した秩父神社の前面に寅の彫刻があるのは今や有名な話となった。
岡崎は微妙な位置にあった。東は今川義元、西は織田信秀(信長の父)にはさまれていたのである。
岡崎は今川義元の支配下に入っていたが、刈谷の水野家は織田信秀につくことになってしまった。
刈谷からきた於大は離縁することになり実家の水野家に帰った。
竹千代は母と引き離され早くも苦難な道を歩むことになったのかもしれない。
ちょくちょくでてくる吉法師(きっぽうし)は信長のことです。
のちの天海といわれる随風なども出てきて注意して読むとおもしろいかもしれない。