西郷隆盛 読書記録 2017  りょう99@笠原良太(かさはらよしたか)

全14巻 海音寺潮五郎著 朝日新聞社

下から書いています。


■2017年8月27日(日)

「西郷隆盛 14 江戸城受け渡し」 海音寺潮五郎著 朝日新聞社 読破

勝海舟と西郷隆盛の会談で江戸城は総攻撃は回避された。
江戸城は新政府にひきわたされることになった。無血開城。
各所で幕府軍の抵抗もみられた。彰義隊など。
東北などで抵抗もあるのだがこのへんで終わっている。

この本は歴史小説ではなく史伝であると何度も書いてある。
ノンフィクションなのかな。

海音寺さんが西郷隆盛を書いたから司馬遼太郎さんは書かなかったのかな。
それで「翔ぶが如く」を書いたのかな。

   

■2017年8月22日(火)

「西郷隆盛 13 鳥羽・伏見の戦い」 海音寺潮五郎著 朝日新聞社 読破

大政奉還。
慶喜は大政奉還してもやっていけないと思った。
公卿には現実の政治能力はない。
再び幕府に頼んでくるだろう。
徳川家が筆頭となってやっていくだろうと思っていた。
(議会で上院、下院をもうければやっていけると思ったとどこかに書いてあった)
坂本龍馬もこの考えだったと思う。
坂本龍馬と中岡慎太郎は暗殺されてしまった。
後で見廻り組の仕業だとわかったが当時は新撰組の仕業だと思われていた。
土佐藩主の山内容堂は言った。
「ほどんど3百年平和が続いたのは徳川氏のおかげである。
一朝にして故なくその大功ある徳川氏を排斥するとは何たる思情の薄さであろう。」
岩倉具視は言った。
「黒船来航以来、勅命を軽視し欧米諸国と通信条約の約を結び
内は暴威をふるって、憂国の親王、公卿、諸侯を隠居蟄居にし勤王の志士を殺戮しました。
次に無名の師をおこして長州を再征して恨みを民に結び禍を朝廷に及ぼしました。
その罪もまた大きい。
内府(慶喜)が果たして反省自責の心を抱くならばまさに官位を辞退し、土地人民を還納すべきだ。」
慶喜は辞官、納地を認めるわけにはいかなかった。
申請するには時間がかかる。
幕府で暴動が起きかねない。
しかし薩摩、長州は徳川氏を残す気はなかった。
鳥羽伏見の戦いが始まった。
最新式の武装をした薩摩長州が優勢だった。
薩摩長州側で錦の御旗がかかげられた。
薩摩長州側が官軍となり徳川側が賊軍になってしまった。
慶喜は大阪城に退き兵を残し単身で船で江戸へ帰って謹慎してしまった。
薩摩長州軍は江戸に近づいてきた。
ここで幕府から交渉を依頼されたのが勝海舟だった。

   

■2017年8月16日(水)

「西郷隆盛 12 岩倉の策謀」 海音寺潮五郎著 朝日新聞社 読破

長州藩人でも目の見えた人々、
たとえば高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)、井上聞多(馨)、伊藤俊輔(博文)
などは攘夷説を脱して開国説になっていたが
一般藩士や奇兵隊等の諸隊では
皆攘夷論を奉じ、それで藩論をかためていた。
うっかり開国論に転向していることなど口外しては
高杉や井上のような人物でも生命の危険があった。

第二次長州征伐がおこなわれていた。
長州側には海軍に高杉晋作、
陸軍には大村益次郎というすぐれた戦術家がいた。
高杉は蒸気船で幕府の艦隊に夜討ちをかけた。
幕府の艦隊の蒸気船はすぐには動かない。
カマに火がともるころには
高杉は荒らしまくってさっそうとひきあげていった。
九州の戦いでも長州が勝ち各地で幕府軍を押し返した。
長州は薩長同盟により薩摩名義でたくさんの新式銃などを買って配備していたのだ。
そのうち将軍徳川家茂は死んでしまった。
薩摩も参加しないし長州征伐も沙汰止みとなった。
新たな将軍には徳川慶喜がなった。
ここで残念なことに高杉晋作は病気で死んだ。
孝明天皇の死もあった。
ここらで薩摩と土佐の薩土同盟がなった。
乾(板垣)退助がまとめたようだ。
また土佐の後藤象二郎と坂本龍馬の企画によって
薩摩、土佐両藩が運動して
大政を奉還させて王政復古することをすすめた。
西郷としては出来るだけ多数の見方の藩をこしらえて倒幕したかった。
このころ公家の岩倉具視が薩摩に近づき連絡をとるようになったのかな。

島津久光は自分は倒幕などということを考えたことはない。
あれは西郷と大久保が勝手にやったことだなどと折りにふれては言っていたという。

  

■2017年7月27日(木)

「西郷隆盛 11 薩長連合成る」 海音寺潮五郎著 朝日新聞社 読破

高杉晋作がクーデターをおこして長州の体制は変わった。
それをみて第二次長州征伐がおこなわれることになった。

長州と薩摩が一緒になれば幕府は倒れるんじゃないか。
坂本龍馬と中岡慎太郎は話し合ってやってみようかっということになった。
長州名義では何も買えないので薩摩名義で蒸気船や銃器を買ってやろうということになった。
海援隊の坂本龍馬がとりもったのかな。
ミネー銃とゲペール銃の4千3百挺と蒸気船ユニオン号はすぐ買えた。
後からもっと買えたようで蒸気船は3隻買ったようだ。
長州はお返しに薩摩で不足していた米を送ったようだ。
いろいろあったが坂本龍馬の調停で薩長同盟は成った。
木戸孝允(桂小五郎)が京の薩摩藩邸に行ってやっと話がまとまった。
木戸孝允から同盟のことは言い出せず、西郷隆盛からも同盟のことは言い出せず、
10日ばかり過ぎたが、そこへ現れた坂本龍馬がまとめてくれた。
この頃、坂本龍馬は寺田屋で捕縛されそうになり怪我をして薩摩藩邸にかくまってもらった。
京では新撰組などが長州人や浪人を斬りまくっていた。

第二次長州征伐がおこなわれることになったが薩摩はもう幕府に協力しないことになった。
長州征伐をおこなうのに大義名分がないといって。

話が前後するがその頃外国艦隊が兵庫を開港しろと大阪湾に乗り込んできた。
神奈川、箱館、長崎は開港するから兵庫はかんべんしてくれということになったんだったかな?
兵庫を開港すると京まで近く一大事であった。
幕府側にはフランスがつき、薩摩長州側にイギリスがついている。
フランスではロッシュ、イギリスではパークスの名がよく出てくる。
アメリカはまだ南北戦争があったせいかあまり出てこない。

  

■2017年7月25日(火)

「西郷隆盛 10 高杉挙兵」 海音寺潮五郎著 朝日新聞社 読破

八月十八日の政変
長州藩を中心とする尊王攘夷派が朝廷を動かし、挙兵倒幕をすすめていた。
そこへ公武合体派の薩摩藩と京都守護職の松平容保らとはかって
八月十八日未明、機先を制して御所を警護して朝議を一変し急進派の公家の参内を禁じた。
長州藩は御所警護の任を解かれ三条実美ら尊王攘夷派の公家は長州藩へのがれた。(七卿落ち)
尊皇攘夷勢力は一時衰退した。

禁門の変 蛤御門の変
八月十八日の政変で京都を追われた長州藩は勢力回復のため藩主父子の無実を訴え
尊王攘夷派七卿の赦免を願ったが許されず、さらに池田屋事件がおこったため出兵。
薩摩、会津と蛤御門付近で交戦したが敗北。長州征討の発端となった。

八月十八日の政変で京から追い落とされた長州は再び京へ向かった。
会津松平容保を討ち取って君側を清めるのがよいっと。
会津容保一人に憎悪を集中した。
松平容保が八月十八日の政変で主役をつとめたことである。
長州は蛤御門のあたりで会津と衝突した。
長州は会津を敗ったが薩摩が出て来た。
長州の大将来島又兵衛は鉄砲で撃たれ重傷を負った。
薩摩の西郷隆盛も足に鉄砲の弾があたったが軽傷だった。
西郷はすぐ立ち上がって足踏みしてみせた。
「わしは大丈夫でござるぞ!皆々手をゆるめなさるな!」っと呼ばわった。
西郷は軽傷、来島は重傷であったことがこの戦闘の分かれ目となった。
長州勢は総崩れになった。公家門は助かった。
薩摩武士の勁烈勇敢は世界の常識になっていた。
しかし、それを人々はこれまで現実には見なかった。
この戦争ではじめてそれを見たのだ。
諸藩人も京の市民等も驚嘆し新しい目で薩摩人を見直すようになったのである。
やがて西郷が倒幕を唱道するようになった時、
諸藩がこれに応じたのは、西郷の人間的魅力とともに諸藩のこの心理も計上すべきであろう。
長州軍が国許から運んで所蔵していた兵糧米が五百俵あった。
当時、京都には焼け出されて困窮している者が多かったので、
西郷はこれを町役人に通じて全部施米した。
民の艱苦を黙視出来ないのは彼の天性である。
これまでも随所に我々は見て来た。
この熱い愛情とともに彼には最も強烈な正義感である。
この二つが結びついて世の不正を正し民を救わんとの志が生まれる。
されに彼は最もたくましい勇気の人である。
断じて志しを貫き遂げんとして決して恐れず決して屈しないのである。
彼こそは天が日本に降した革命の人だったのである。
彼は今壇上に上がって最初の仕事をしたのである。

この時、長州が大不幸に転落したのだが災厄はまだ続く。
この直後、四国艦隊と交戦、大惨敗するのである。
長州はこの2度の業火をくぐり
さらに第一次長州征伐という業火をくぐり
高杉晋作によって生まれ変わるのである。
四国艦隊への賠償金は300万ドルであった。
長州は幕府の命令で攘夷をおこなったと幕府が賠償することになった。

長州藩のような乱暴な議論を主張し無責任な浪士らをあおり立て
過激なことばかりしていては日本を亡国の淵にたたき込む恐れがある。
しかも、彼らは兵を動かして朝廷をおびやかしたばかりでなく、
禁裡にたいして発砲攻撃までした。
かんかしては大義名分が立たず恐るべき事態となる。
っというわけで第一次長州征伐がおこなわれることになる。

坂本龍馬は勝海舟に紹介状を書いてもらって西郷に会った。
龍馬はいった。
「西郷という男は大太鼓のような男でありますな。
小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく響きます。
もし馬鹿なら大馬鹿、利口なら大利口ですな。」

中岡慎太郎は第一次長州征伐の交渉の折、西郷に会った。
中岡が西郷に最も深い尊敬をもち、故郷の板垣退助に西郷のことを、
「当時洛西(京都以西)の人物を論じ候へば、薩摩には西郷吉之助、
人となり肥大にして御免(土佐の地名)の要石(相撲取りの名)に劣らず、
古の安倍貞任もかくの如き者かと思いやられ候。
この人学識あり、胆略あり、常に寡言にして最も思慮勇断に長じ、
たまたま一言出せば、確然人の腸を貫く。
且つ徳高くして人を服し、しばしば艱難を経てすこぶる事に老練す。
その誠実、武市半平太に似て、学識あることは実に知行合一の人物なり。
これすなわち当世洛西第一の英雄にござ候。」
っと最大級の賛辞を連ねて書き送ったのはこれより少し後のことになるが、
この時が中岡と西郷との最初の出会いである。
これが機縁となり、やがて最も親しくなりついに薩長連合に挺身尽力するのである。
坂本龍馬が海援隊隊長、中岡慎太郎が陸援隊隊長である。

第一次長州征伐の交渉がまとまりかけていた時、
行方をくらませていた高杉晋作がクーデターを起こした。

一番発言力のある西郷は、
「この度の御征討は大義名分をお正しになるためでごわす。
しからば、長州藩が前非を悔い、罪を謝し、恭順の意を表し、
出来るだけの実を見せた以上事は済んだのでごわす。
毛利父子は謝罪して寺にこもって謹慎し、三家老を切腹させ、四参謀を誅し、
命に応じて山口の白をこぼったのでごわす。
五卿移転のこともかしこまりを申して、その実行は今や確実になっていもす。
国内鎮静のことも、藩政府は大いに努力しています。
もはや大義名分は立ったのでごわす。」
ということで長州征伐軍は解兵となった。

この頃、西郷は結婚した。
家老座書役の岩山八太郎の娘絲(いと)とである。
岩山家は鹿児島城下では有名な美人系の家系であったと鹿児島では言い伝えられている。

五卿も長州を出てからいろいろ不遜な目にあったが、
九州の太宰府天満宮の別当寺廷寿王院を五卿の宿許として落ち着いた。
とりわけ廷寿王院主信全は、京の公家梅小路貞肖(さだのり)の次男で、
三条実美の母方のいとこであった。
皆大安心、大喜びであった。

西郷は太宰府で五卿に拝謁した。
この謁見で西郷は三条実美の人がらに深く好意を持ち、
その赦免と復位とに大いに骨を折ろうと決心したことも事実である。

  

■2017年7月17日(月)

「西郷隆盛 9 奉勅始末記」 海音寺潮五郎著 朝日新聞社 読破

長州が京から追い落とされた八月十八日の政変は、
薩摩と会津の合作であったので
長州人の薩摩を恨む事一通りではなく
「薩賊会奸」という言葉を作って両藩を罵倒し世間に宣伝していた。
長州は草履の裏に薩摩と書いて履いていたっと何かの本で読んだ。
そうとう恨んでいたらしい。
その頃薩摩で皆が西郷召還の嘆願をしてくれ西郷隆盛は復帰した。
柵の中で暮らしていたので復帰したときには足が弱っていて歩くのもままならなかったようだ。
西郷は赦免されるとすぐに島民の暮らしがよくなるように建白書を書いている。。
西郷の革命の哲学として「敬天愛人」とよくいわれている。
西郷は様子を見て次々と役目を進めて軍錻役と諸藩士との応接掛とに任命された。
軍錻役とは軍事司令官である。
西郷は主に京だか大坂に滞在していたようだ。
そんなおり長州の兵が京に向かってやってきていた。

  

■2017年7月12日(水)

「西郷隆盛 8 薩英戦争」 海音寺潮五郎著 朝日新聞社 読破

生麦事件の仕返しにイギリスは薩摩に艦隊を派遣した。
薩英戦争がはじまった。
イギリスはアームストロング砲を使ったようだ。
薩摩も砲台から英国船に砲撃してだいぶ抵抗したようだ。
どのくらいの被害がでたのか詳しく書いてないのでよくわからない。
京では蛤御門の変や八月十八日の政変などが起き、
幕府は気力を回復し、七卿落ちがあり長州は京から消え、
新撰組、見廻り組の武力警察団が威を振るうようになる。
会津と薩摩が京都政界を主導することになった。
急激攘夷派は京では勢いを失った。
多くは七卿に追随して長州へ落ちた。
土佐の山之内容堂はこのときとばかりに土佐勤王党を取り締まった。
一網打尽にされ武市半平太も切腹させられた。
天誅組とやらも壊滅した。
西郷隆盛はそろそろ政界に復帰するのかなぁ??

   

■2017年7月5日(水)

「西郷隆盛 7 大政奉還の初声」 海音寺潮五郎著 朝日新聞社 読破

尊王攘夷論が沸騰し開国派は口を閉ざした。
幕府も攘夷を決めた。
長州は馬関海峡を通る外国船を砲撃した。
その仕返しに米仏の艦隊などが長州に反撃を加えた。
長州の砲台はあっという間に沈黙させられ壊滅した。
この巻でも西郷隆盛がでてきませんでした。。

    

■2017年6月30日(金)

「西郷隆盛 6 公使館焼打ち」 海音寺潮五郎著 朝日新聞社 読破

日本は開国しないと清国のように外国の植民地にされてしまうであろう。
しかし尊皇攘夷論が沸騰した。
長州の志士たちはイギリス公使館を焼き討ちにし、
また京では土佐の武市半平太の土佐勤王党が
佐幕開国派に天誅をくりかえしていた。
長州は公家にとりいって尊皇攘夷論を大きくしていた。
各国との条約を破棄し港を閉鎖するという論が幕府でも
容認されることになるようなところまできた。
会津の松平容保が京都守護職についた。新撰組ができるんだっけ。
5巻で生麦事件が起こったがまだイギリスは薩摩に報復にきていない。
長州の外国船への砲撃もそろそろかな。   
大久保利通はよく出てくるけど西郷隆盛は島流しにあっていて
まったく出てこないなぁ。。    

  

■2017年6月26日(月)

「西郷隆盛 5 血風の季節」 海音寺潮五郎著 朝日新聞社 読破

西郷隆盛が全くでてこないのですが。。。
薩摩の島津久光は長州がきらいだった。
長州の方も薩摩はきらいだった。
両藩、尊皇攘夷、幕府否定と思想は同じであったが、
長州は長州、薩摩は薩摩と協調性がない。
薩摩と長州の話ばかりかと思っていたがやっと土佐が出て来た。
話が逆戻りしたりなかなか前に進んでいかない。
土佐藩主は山内容堂で山内家は関ヶ原の戦いの勝ち組で土佐をもらった恩があり佐幕主義だった。
その点長州と薩摩は関ヶ原の戦いで負け組で幕府に恨みこそあれ恩はなかった。
その土佐藩では武市半平太が土佐勤王党を作り長州、薩摩と共同歩調を取り始めた。
薩長土肥とよくいわれるが。
土佐勤王党では佐幕派に天誅を加えていった。
土佐勤王党では関ヶ原で負けた長宗我部の子孫のク士が多かったのである。
恨みこそすれ幕府に恩はない。
坂本竜馬は土佐のク士で、ク士の身分では政治にかかわれないから脱藩して土佐を飛び出した。
薩摩の大名行列が生麦村にさしかかったときに馬ですれちがったイギリス人を斬ったのだけど
攘夷の朝廷はたいそう喜んだね。島津久光は朝廷からお礼の言葉をいただく。
イギリスは薩摩に艦隊をくりだして報復するのだが。

  

■2017年6月21日(水)

「西郷隆盛 4 寺田屋の惨劇」 海音寺潮五郎著 朝日新聞社 読破

西郷は罪人として沖永良部島におくられることになった。
屋根があるだけの雨ざらしの牢に入れられたが
後から柵はあるが家を建ててもらえた。
また20人くらいの子供が慕ってきて寺子屋みたいなことをしていた。

一方、島津久光の考えは幕府はまず朝廷の命を奉じて尊崇の実を上げ
朝廷が幕府の従来の罪をおゆるしになることによって公武合体する、
っというものである。
それを実現するため千人の志士をひきいて上洛した。
長州などの志士たちも上洛してきた。
志士たちは久光を倒幕運動の大将軍にかつぎあげることが
できさえすれば良いのである。
長州はラジカルな尊皇攘夷論を藩是として
ほぼ1年間京都政界の人気を一つに集めていた。
なぜならこれは吉田松陰の門下生等が松蔭から伝えられたことであり
門下生等はこれをずっとまもり続けてきた。
そんなおり寺田屋事件が起きた。
寺田屋で急進派の薩摩の志士だちが何をたくらんだのだか久光の怒りをかい
同じ薩摩の志士たちによって斬り殺されてしまった。
誠忠組が誠忠組を斬るというような仲間割れであった。
久光が上洛したのは討幕運動のためだと勘違いして起こったものかもしれなかった。
みんな久光をかいかぶりすぎていた。
久光の幕府に対する建白書に慶喜を後見人に大老に越前の松平春嶽にというのがあった。
そのせいか関係ないか松平春嶽が大老になった。
西郷の考えも書いておく、西郷の考えは幕府を打倒して政権を朝廷に回収し
天子様を中心とした本来の日本の政治形態にかえるべきである、
天下の有志等もこれを望んでいるはずである。

       

■2017年6月18日(日) 午前3時

「西郷隆盛 3 大弾圧」 海音寺潮五郎著 朝日新聞社 読破

井伊直弼による安政の大獄がはじまった。
西郷隆盛もねらわれている。
また朝廷方面への運動をして一緒に活動してきた僧、月照もねらわれた。
西郷と月照は船から海に飛び込み心中をはかるが、
助けられた西郷は息を吹き返した。月照は亡くなった。
西郷は死んだことにして三助と名を変えた。
また菊池源吾と改名して大島本島へ蟄居ということになった。
罪人として大島に流されるのではなく
幕府の目からかくすために大島移住を命ぜられた。
西郷が流された奄美大島では住民は貧しい生活をしていた。
不作で税が重いときには西郷がかけあって減税にしてくれた。
また悪い風習をなくしたり、寺子屋の先生みたいなこともしていた。
住民は西郷の徳になついた。
結婚して子供もできた。
島津斉彬が死んだ後、しばらくして島津久光が後見人となった。
大久保利通は久光にとりいった。
そのうち桜田門外の変で大老井伊直弼は暗殺された。
欧州の制度を採用し進歩改良にとりかかっていたのに井伊大老の時代になると次々にそれをやめた。
洋学なども蘭、英、仏の書をさかんに講習したのに喜ばないのでそれも自然衰微した。
井伊は開国主義者で進歩主義者であったと考える人もいたがそうではなかった。
井伊はその政治手段が拙劣(せつれつ)であっただけでなく
その強い我意に根ざす恐怖政治によって国民の憂国心を弾圧し
国民中の優秀分子を虐殺した非難ををまぬがれることはできない。
橋本左内と吉田松陰と西郷が健在なら日本は完全体になっていたはずで返す返すも残念である。
人々は白昼に井伊大老の首が切られたことにより幕府に軽蔑感を抱き始めた。
なんとかして幕府の権威を高めたい。
降嫁誓願運動がはじまった。
同時に朝廷を懐柔し、うるさい横槍を封じ込める気があったろう。
朝廷の和宮を幕府の家茂の嫁にもらうことになった。
公武合体の条件として、実行する気のない条約破棄、鎖国攘夷を約束した。
誠忠組は公武合体に反対だった。
幕府打倒、朝権回復、そしての国論統一、挙国一致体制をかかげていた。
西郷が奄美大島から帰ってきた。
嫁はつれてくることはできず田一反と畑一反を買って与えた。子供はのちに京都市長になっている。
島津久光は公武合体派であった。
西郷は久光が斉彬を毒殺したのだと思っていて久光が嫌いだった。
西郷と久光の仲はあまり良くなかった。
久光は上洛することになった。各地の志士は蠢動(しゅんどう)した。
西郷は久光に下関で待っているようにいわれたが志士たちをおさえるため大坂だか京へ行ってしまった。
久光は激怒した。
西郷は薩摩に送り返された。罰が待っている。

   

■2017年6月16日(金)

「西郷隆盛 2 井伊大老登場」 海音寺潮五郎著 朝日新聞社 読破

島津斉彬は将軍家定に島津家の篤姫を輿入れさせた。
家定は精神薄弱だったが、これによって
薩摩と幕府の親しみをかたくし大いに斉彬の見識と薩摩の実力を利用したいと思った。
次期将軍には水戸慶喜がなるよう篤姫には密命が下っていたようだ。
有力藩は皆慶喜を押していたようだが紀州慶福(家茂)に決まってしまうことになる。
鎖国をしていた日本はアメリカのペリーが来たことより通商条約を結ぶことになった。
そんな時に大老に井伊直弼がなった。
井伊直弼は勝手に各国と次の通商条約も結んでしまった。
非難囂々(ひなんごうごう)であった。
朝廷は外国との通称は認めず外国船は打ち払えといっていた。
日本中で尊王攘夷論が吹き荒れた。。
しかし開国しようとした井伊直弼ははたして悪だったろうか。
中国ではイギリスにアヘン戦争で負けアロー戦争もはじまっていた。
中国は外国の植民地になろうとしていた。
日本は開国して外国と大いに貿易をして国力をつけて外国からなめられないようにしなければならなかった。
そうしなれば日本も中国のように外国の植民地にされてしまうだろう。
後の話になるが、長州や薩摩は外国艦隊の襲撃を受けて簡単に惨敗してしまった。
長州や薩摩は考えを改め開国しなければと思うようになる。
まあ井伊直弼の安政の大獄はむごかったね。
島津斉彬死す。
2巻は西郷隆盛があまり出て来ませんでした。。

 

■2017年6月15日(木)

「西郷隆盛 1 島津斉彬」 海音寺潮五郎著 朝日新聞社 読破

西郷隆盛は士の家格の低い家の出だった。
隆盛の下に弟妹がたくさんいて家は貧乏だった。
15歳?くらいの時だかにいざこざで片腕を斬られ
腕がうまくつかえなくなった。
剣の道はあきらめ学問にはげんだようだ。
よく西郷を囲んで古書を学んだり討論会をしたりしていたようである。
誠忠組といったかな。西郷が一番年長だったようだ。
西郷は土地の検地を扱う職につき百姓思いになっていったようである。
農政に関するものなど建白書を何度も書いたりした。
その建白書を藩主島津斉彬(なりあきら)はいつも見ていたようである。
その話を聞き西郷も感激した。
西郷は参勤交代に行く人に選ばれ江戸に行くことになった。
島津斉彬は西郷にいろんな志士とまじわるように手配してくれた。
島津に西郷ありといわれるようになっていった。
あと西郷は島津斉彬のお庭番になった。
藩主の居間の近くの庭に出入りすることができ斉彬ともすぐ話ができる機会にめぐまれた。

そんな中、ペリーの黒船の来航があった。