西郷隆盛 林房雄著 読書記録  りょう99@笠原良太(かさはらよしたか)

全11巻 徳間文庫

下から書いています。


■2017年12月11日(月)

「西郷隆盛 11 雷雲の巻 城山の巻」 林房雄著 徳間文庫 読破

西郷は鹿児島に帰ると有用な人材を育てるためか私学校を作った。
私学校は反乱の拠点ではなく、
他日必ずおこる外寇(特にロシアの南下)にそなえて国を守り
国に殉ずる愛国の正気と人材を養う学校であった。
西郷の帰国と知って後を追った者は6百人に及んだ。
薩摩出身者は四・五千人に達していたから2割くらいに過ぎない。
西南戦争は私学校党の反乱と見ることができる。
西郷吉之助が最初から中央政府打倒を目的として
私学校をつくったと考えることはできない。
しかし明治十年、私学校生徒の火薬庫襲撃によって
反乱の口火が切られ新政厚徳の旗をひるがえした健児一万の
鹿児島進発によって西南の役と呼ばれる悲劇の幕が切って落とされた。
兵力は1万2千。しかし熊本城がぬけない。
そのうち政府軍がやってきた。
徴兵制になって農民兵だとさんざんばかにしていたが
皆、新式のスナイドル銃をもっている。
追い詰められ西郷も最後となった。
西南戦争のさなか木戸孝允は亡くなったが最後の言葉は
「西郷、もういい加減にせんか」だったという。

書かなかったけど西郷の用心棒桐野利明がよく出てくる。
幕末、人斬り半次郎として恐れられた。

西郷は島流しにあったときに八百冊の本を持って行ったそうだ。

西郷隆盛の座右の銘は、敬天愛人。

司馬遼太郎さんの本には福沢諭吉がほとんど出てこないけど
この小説では結構出てくる。

1巻を書いたのが昭和15年(1940年かな)で
書き終わるのに32年かかったようです。
35歳で書き始めて書き終わったのが67歳とのことです。

   

■2017年12月8日(金)

「西郷隆盛 10 火輪の巻 虎豹の巻」 林房雄著 徳間文庫 読破

朝鮮は気の毒な国だ。
今は清国の属国だが、ロシアに狙われ
フランスとアメリカにも狙われている。
日本が出兵したら喜ぶのは西洋諸国だ。
ロシアは清国の弱体を見抜いているから、
保護を名として大軍を出し満州と朝鮮を占領してしまうだろう。
日本は韓国にも国を開くように何度も使者をおくるが
ほうほうのていで追い返された。
西郷は出兵には反対だった。
西郷は自分を大使として丸腰で韓国に行かせてくれと言った。
もし自分が殺されるようなことがあれば兵を挙げろと。
朝鮮の背後にはロシアがある。
この大国と一戦する覚悟がなければ朝鮮に出兵できない。
韓国と戦ってはならない。
固く手を結ぶことが日韓両国を生かす道だ。
日韓が結べば清国とも結ばれる時が来る。
敵は韓国でも清国でもない。
東亜を狙うロシアであり、欧米諸国であるということがわかれば
日本国内の不平の徒も目を開いて真剣に大陸経営を考えるようになる。
もともと征韓論は木戸孝允が主張したのであるが
二年間の外遊が彼を熱心な内治派に変えた。
大久保利通と岩倉具視の胸中にも同じ変化が起こっている。
世界情勢は日本がアジアの一角で武力反撃に出ることを許さない。
今、出て行ったら欧米諸国の袋だたきになる。
現在の日本の民は貧しく、政府は弱く、陸海軍も旧式そのものだ。
とても世界の相手の舞台には立てない。
内治を整えて時期を待たねばならない。
そういうわけで岩倉視察団が外遊から還ってくると
征韓論にやぶれた西郷隆盛、板垣退助、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平は国許へ還った。
江藤新平が佐賀の乱を起こしたが鹿児島に帰った西郷は一緒に立たなかった。
土佐の板垣退助は民選議員論をかかげた。
何故か征台論がおこり台湾を攻め清国から賠償金をもらった。
琉球処分についてはふれられていない。
話が少しさかのぼるが、副島種臣は、
台湾は生蕃(せいばん)の化外の民であり、韓国は清国の領土ではないから
日本が出兵しても清国は干渉しない、っという言質をとってきた。
あんなに征韓論は反対されたのに征台論はあっさりおこなわれた。
征韓論で敗れ皆が国許に帰った意味はあるのか。。

  

■2017年12月5日(火) 24:15

「西郷隆盛 9 猛虎の巻 雪花の巻」 林房雄著 徳間文庫 読破

慶喜が江戸で謹慎して恭順してしまったので
薩長土軍は江戸まで進撃してきた。
西郷と勝海舟の会談によって江戸城は無血開城で官軍に引き渡された。
しかし江戸の治安が乱れ統治は難しい。
彰義隊などが抵抗した。
戦いは東北の方へおよびやっと制圧した。
ここに徳川幕府は滅び、朝廷が日本を統治することになった。
これからが難しいところで版籍奉還をして廃藩置県をしなければならない。
反乱が起こってもおかしくない。

日本でもし内乱におよんだら西洋諸国はその虚に乗じ
皇国の運命も印度と支那の二の舞になる。
何にしてもそうならなくて良かった。

  

■2017年12月3日(日) 晴れ 秩父夜祭

「西郷隆盛 8 丹楓の巻 錦旗の巻」 林房雄著 徳間文庫 読破

土佐の後藤象二郎と坂本龍馬が出した大政奉還案。
これで日本は無用の内乱を回避し、
国内を統一を完成して文明への道を直進することができると思った。
しかしそれは徳川が筆頭となって残るというものだった。
後藤の意見は将軍は新政府の首脳となり、その地位は保証され
同時に必要な改革は全部行われることになっているがそううまくいくのか。
ついに慶喜は大政奉還を宣言した。
しかし薩摩と長州は徳川を滅ぼしてしまうことにこだわった。

坂本龍馬と中岡慎太郎は幕府の手によって殺された。

倒幕にもっていくのに薩摩は3千、長州は5百の兵士しか出せない。
土佐は尊皇佐幕主義だが乾(板垣)退助が3百の兵をやっと出したのかな。。
土佐は徳川家に恩義こそあれ恨みはないのだ。

鳥羽・伏見の戦いが始まった。
なんと幕府の兵は薩長土の兵力の10倍。
薩長にはイギリスがついているが、幕府はフランスがついていてフランス式の軍隊を作っている。
薩長土は負けたと思ったが、この日のために作っておいて錦の御旗がかかげられると戦局が変わった。
苦戦していた薩摩は錦の御旗の効力が効いたのか盛り返した。
幕府軍は賊軍になってしまった。
慶喜は大阪城に入り、単身江戸へ帰って謹慎してしまった。

大阪城は誰が火をつけたのか焼けてしまった。

   

■2017年12月1日(金)

「西郷隆盛 7 飛龍の巻 渦潮の巻」 林房雄著 徳間文庫 読破

長州では高杉晋作が奮起して奇兵隊をはじめとする諸隊の総督として藩政の実権を握った。

長州と薩摩がいつまでもにらみあっていては回天の大業は達成できない。
坂本龍馬と中岡慎太郎の持論ではそれに土佐も加わり、
いずれ雄藩連合して倒幕の軍を起こす。

長州は新式のミネー銃三千挺を買いたい。
蒸気船も二、三隻買いたい。
しかし長州名義では買えない。
そこを薩摩名義で買えるようにした。
そのお返しに長州でとれた米が薩摩に送られた。
にくしみあっていた薩摩と長州だが近づき合おうとしていた。
坂本龍馬と中岡慎太郎が薩長を同盟させようと奔走していたのだ。
薩長同盟をまとめるため桂小五郎(木戸孝允)は京の薩摩屋敷に来た。
ところがごちそうばかり食べていて薩摩の方からも桂の方からも同盟のことは言い出せなかった。
10日もばかり過ぎた頃、坂本龍馬が様子を見に来て、まとめてくれた。

第二次長州征伐がはじまった。
幕府は薩摩を頼りにしていたが薩摩は薩長同盟のため参加しなかった。
長州が優勢であった。
高杉晋作と坂本龍馬は艦隊をひきいて善戦した。
戦争のさなか将軍家茂が死んだ。
第二次長州征伐は沙汰止みとなった。長州が勝ったといっていい。

新将軍には慶喜がなった。

土佐の後藤象二郎と坂本龍馬は大政奉還案を出す。

幕府にフランスがついたり薩長にイギリスがついたり、
四賢公会議があったりいろいろあったけど
もう書きたいようなことは書いたので省略する。。

  

■2017年11月30日(木)

「西郷隆盛 6 孤島の巻 大鵬の巻」
林房雄著 徳間文庫  読破

徳之島に島流しになった西郷は沖永良部島に移され牢に入れられた。
はじめは吹きさらしの牢だったが後からすごしやすい牢に建て替えてもらえた。
島民たちはサトウキビを作っていたが取り立てが厳しく苦しい生活をしていた。
西郷は島流しに行った先々で交渉にあたり島民の生活を良くしていた。
島々では皆西郷を慕い西郷から勉学をおそわった。

京都の事情は薩摩の不利にはたらいていた。
長州の力がぐんと出て来た。
長州の久坂玄瑞とか高杉晋作など松下村塾系の檄派が
土佐の武市半平太の一派と結んでさかんに斬りまくっていた。
久光公が江戸に行っているすきに、長州が京都に乗り込み
久光公の公武一和の御大策に対し、攘夷即行論をもって朝廷を動かし
岩倉具視一派の公卿を側近から遠ざけ
つまり久光公の裏をかいて京都における実権を握ってしまった。

生麦事件がおきた。
イギリス人が乗馬のまま久光公の行列を横切ろうとしたのを
薩摩志士が無礼討ちに討ち果たした。
イギリス艦隊が薩摩湾に乗り込んできて、
アームストロング砲が火を噴き、城下は焼き払われた。
士族屋敷と民家五百戸あまりと数カ所の寺が焼失した。
ただ死者は数名ですんだ。
薩摩は考え直しひるがえってイギリスと結んで軍備の増強をはかった。

薩摩が攘夷中止論に傾いたことは、久光をとりまく公武合体派の活動を容易ならしめ
ただちに京都の政局に影響した。
当時、朝廷の実権を握っていたのは、長州藩の実力を背景とした久坂玄瑞などの
急進攘夷派の有志及び、三条実美以下の少壮公卿であった。
久光と京都守護職松平容保は政局の転換をのぞまれていたので
薩摩と会津の連合はただちに成り、
薩摩と会津の兵力をもってする一大クーデターが決行された。
いわゆる八月十八日の政変である。
長州及び急進攘夷派の勢力は一掃されて
三条実美以下の「七卿」は長州に逃れ
天下は薩摩と会津の手中に帰して、久光の「大策」は実現したようにみえたが
それは表面のことで歴史の底流はもっと複雑であった。

大和では天誅組の乱がおこったり、
どこからともなく「薩賊会奸」という声があがってきた。
因州、阿波、備前、津山、広島、津など攘夷派の藩主は袂をつらてね帰国。
長州は強力な兵力と七卿を擁し、天下の与望を担って西の関門に盤踞している。
島津久光は1万5千の兵を率いて京都に入り、
松平慶永、伊達宗城、山内容堂、一橋慶喜など公武合体派の大諸侯と会して
いよいよその「大策」に着手したが、事態は険悪、政局は複雑、
この難局を乗り切るためには、彼の好むと好まざるにかかわらず、
西郷吉之助を南海から呼び返さざるを得ない立場に追い込まれた。

久光は西郷がきらいである。
できれば殺してしまいたいほどまで憎んでいる。
だが複雑化した京都の政情は久光の公武合体策ではどうにもならない土壇場にきていた。
西郷の着京と同時に久光は国許に引き上げてしまった。
西郷の顔を見るのもいやだと言わぬばかりの態度だった。
京都の薩摩藩邸の実権は新軍錻役の西郷吉之助のにぎるところとなった。

長州は勢力回復のため蛤御門の変をおこした。
しかし西郷ひきいる薩摩軍にはばまれ敗北した。
長州の久坂玄瑞が死んだ。
長州が薩摩を憎んだことはひととおりではなかった。

また攘夷派の長州は関門海峡を通る外国船を砲撃したことから
四カ国連合艦隊の襲撃を受ける。
長州の砲台は全部壊され、陸戦隊を上げられて手も足も出ず
講話の一礼を取らされてしまった。

長州征伐もはじまった。
長州は三人の家老と四人の参謀を処刑して恭順の意を示した。
西郷が長州に乗り込んで山県有朋と交渉をまとめた。

勝海舟は言った。
私はアメリカに行って見て来たよ。
あちらは共和政治で諸州から選出された人材が公議会を作り
衆知を集めて国是を定める仕掛けになっている。
これは学ぶべき制度だね。
西郷さん、あんたはまず雄藩連合をつくる、
その力で長州を謝罪させ、返す刀で幕政を改革する。
家柄身分などにかかわりなく天下の人材を挙げて
公議会をつくり、公論によって国是を定める。
このほかに難局打開の道はないね。

そうそう西郷はまた薩摩の人と結婚したようだ。

  

■2017年11月28日(火) 晴れ

「西郷隆盛 5 風の巻 雲の巻」 林房雄著 徳間文庫 読破

一時に多数の精兵を繰り出せるのは薩摩だけ。
斉彬公は3千の精兵を率いて上京する大計画を有し、
久光公がその志を継いで実行の準備に着手しているという噂は
すでに京都と江戸に流布している。
薩摩の実力をもって中央に乗り出し皇国未曾有の難局を
打開することは絶対の必要事だ。
久光は自ら精兵を率いて上京し、公武の間を周旋しようとかたく決意していた。
薩摩の旧勢力の日置組が根こそぎやめさせられ、
若い大久保など誠忠組が採用された。

斉彬公の御決策は一言で言えば開国進取だ。
まさに開国進取以上の御大策であって、国内の改革が成った暁は、
清国及び南洋諸島へ進撃して、英、仏、米の東漸を食い止め
日本が中心となって東洋を保全するという大雄図を有しておられた。
将来の大攘夷を目標とした進取開国策であった。
国内統一が先か攘夷が先か、
国内統一が先決問題だ。
幕閣にも諸藩の有志にも朝廷の公卿にも
斉彬公の御大策の真意を理解している者は絶無といっていい。
大勢は攘夷論者にかたむいている。
薩摩藩が斉彬公の開国進取政策をとると天下に声明したら
理解されるどころか、たちまち大混乱し、朝敵扱いにされてしまう。
ここ当分は表向きだけでも諸藩有志の攘夷論と歩調を合わせておくより方法はない。
攘夷か開港かの問題には当分ふれず、もっぱら公武の調和をはかるという建前で
進んだ方がいいのではないか。
攘夷を標榜したら幕府と正面衝突だし、
開国を標榜したら朝廷の御不興をこうむる。
公然と開国を唱えたら、われわれは井伊大老の二の舞で
藩外の浪士に狙われるのみか藩内でも命があぶない。
わが藩の大方針は、まず大義名分を明らかにし、
皇室を尊び、幕府を強化し、国内の人心を調和作興して
国家百年の基礎をかため然る後に外国の事に及ぶ。
開国か攘夷かの問題は国内がかたまった後に天下の興論に従うといっておけば
自他をあざむくことなく、この難局を乗り切れるのではないか。
他藩に対してそれでもいいかもしれないが藩内はそれでは治まらないのではないか。
頑迷な攘夷派はかえって藩内にいる。
藩内を治める方法は、西郷を一刻も早く召還することだ。
それで万事が解決する。外国問題の鍵は西郷が握っている。

西郷が5年(3年かも)ぶりに薩摩に帰ってきた。
西郷吉之助(隆盛)ははじめに薩摩で蟄居になったときに西郷三助となり、
奄美大島に島流しになった時に菊池源吾になり
この薩摩に帰ってきたときに大島三右衛門に名前が変わった。
天下のお尋ね者になっていたので西郷吉之助の名前は使えなかったのだ。
薩摩の政治は4人組がみていた。
大久保利通(31才)、小松帯刀(25才)、中山尚之介(27才) 堀次郎(?)
皆西郷より若い。

久光公の御大策は、一橋慶喜と松平春嶽の罪をといて重職に任じ、
幕府の根本改革を行うこと。
これは斉彬公の御遺策でもある。

和宮御降嫁は幕府の奸策であって、決して公武一和の聖旨にそい奉る道ではない。
これに賛同ある者は、幕吏たると公卿たるとを問わずまさに乱国の賊である。
奸賊の奸策を打破する唯一の方法は、薩摩の兵力をもって禁門を守護し奉り
実力をもって幕府に命令するほかはない。
大久保は語った。

西郷は言った。
御大策決行のためにはぜひ大藩とご相談なさる必要があります。
雄藩の連合を実現して然る後に京都に上り勅定を奉戴したならば、
事はかならず成功するでありましょうが、
わが藩が独力をたのみ功を急ぎ勅命を笠に着て諸藩に号令しようなどと考えたら
いたずらに天下の反感と嫉視を買い事は必ず破れまする。

とうとう久光が兵を率いて上京することになった。
西郷は下関で待てという内命を受けたが、
この機におおじる各藩の浪士たちの突発をおさえるために
勝手に大坂だか京まで行ってしまう。
久光は激怒した。
西郷はまた島流しになってしまった。今度は徳之島へ。

久光は勅使を警護して江戸へ向かった。
彼の京都経営は一応成功を示した。
幕府は思い切った譲歩政策に出て
越前、尾張、一橋、土佐の諸侯の謹慎を許すなど
久光の政策の大半を容れた。
久光は得意の絶頂にあるらしい。

寺田屋事件などもあったのだが。。

     

■2017年11月25日(土) 25時読破

「西郷隆盛 4 不知火の巻 黒潮の巻」 
林房雄著 徳間文庫  読破

外には夷狄の皇国をうかがうあり、内においては大義は乱れ、
幕府は朝廷をないがしろにし、皇室は衰微し、
国民の困窮は尽くるところがない。
これが今の時勢です。(本文より)

島津斉彬の御遺志とは、何事も天朝の御為、この一語だという。
相手は清国、いな英仏である。米露である。
この決戦のためには急速なる国内の統一と軍備の充実が必要である。
国内の統一のためには皇権を挾し、
天皇御親政の古えに還ることのみが唯一の道であり、
軍備の充実のためには、幕府をはじめ諸藩の上層にわだかまる保守退嬰の
旧勢力を一掃しなければならぬ。
(この大見地よりすれば、攘夷だ、開国だ、と派をたてて
争っているのは、まるで子供の喧嘩にすぎない)

井伊大老の大弾圧は激しくなってきていた。
橋本左内も捕まった。
ついに僧、月照とともに西郷にも逮捕の命令がくだった。
西郷は薩摩に帰り、月照も薩摩に落ちてきた。
薩摩藩は月照を受け入れず西郷とともに薩摩外へ追い出すことにした。
西郷と月照は船から海に飛び込み自殺を図る。
月照は死に、西郷は息を吹き返した。
西郷が元気になると奄美大島へ島流しの命がくだった。
流民あつかいではなく檻にいれられることもなかった。
西郷は島で嫁をもらい、釣りをしたりイノシシ狩りをしたりしていた。
寺子屋みたいに子供たちに学問を教えたりしていたようだ。
本土では橋本左内、梅田雲浜、吉田松陰などが斬られた。
その反動か、ついに井伊大老は桜田門外で水戸浪士たちに斬られた。
それを手紙で知った西郷はたいそう喜んだようだ。
薩摩では久光が藩主忠義の後見役になった。
久光は斉彬の弟だけあって英邁だったようだ。勤王派でもある。
大久保(利通)は久光に西郷召還を願い出る。
久光は、若い大久保、西郷などの誠忠組をとりこんでいこうと考えていたようだ。

   

■2017年11月23日(木 休日) 雨のち晴れ

「西郷隆盛 3 月魄(つきしろ)の巻 彗星の巻」
林房雄著 徳間文庫  読破

西郷は島津斉彬の名代としてまた江戸に出て来た。
朝廷などとも接触するようになり京などにも足を運ぶようになった。
そんなおり井伊直弼が大老になった。
西郷などは慶喜を次期将軍となるように運動していたのだが
次期将軍は慶福に決まった。
薩摩では斉彬が病気で死んでしまった。
西郷も後を追おうとしたが斉彬の志を継ごうと思いとどまった。
斉彬は薩摩から京へ兵を出してみかたの藩と連携して主張を通そうとしたのだが。
勤王藩である水戸藩では井伊大老によって家老は隠居させられたり左遷されたりした。
水戸藩はつぶされたといっていい。
梅田雲浜なども捕らえられた。
追っ手は西郷の身辺にもおよんできた。
薩摩、西郷と朝廷の仲立ちをしていた僧、月照も捕縛されそうになり
西郷は月照をかくまおうとするが。
日本では外国から入ってきたコロリ(コレラ)がはやってきていた。
間部なんとかという幕府の偉い人が千人の兵をつれ上京してくるそうで
西郷は各藩と連携して間部を倒そうと計画していたが。

   

■2017年11月17日(金)

「西郷隆盛 2 青葉の巻 而立の巻」 林房雄著 徳間文庫 読破

島津斉彬が島津家の後継者となると西郷隆盛は農政に関する意見書を出したりした。
斉彬もそれを読んだようで西郷は参勤交代で江戸へ行くことになった。
しかも江戸の薩摩屋敷のお庭方になった。
斉彬と直接話ができる役だ。
斉彬は西郷を育てようと思ったようだ。
西郷は江戸に来ると水戸の藤田東湖に師事した。
水戸は国学が盛んでここから西郷に尊皇の思想が入ったようだ。
橋本左内などにも会っていたようだ。
藤田東湖は残念なことに地震で死んでしまうのだが。
そしてまたまたペリーの黒船がやってきたのもこのころか少し前か。
斉彬は島津でも15隻の帆船と3隻の蒸気船を買うか作るかしたようだ。
1隻は幕府に献上したようだ。
(メモをしながら読まなかったのでよくわからない)
しかし斉彬は病弱で子供も皆早死にした。世継ぎがいない。
毒をもられていたのか悪い祈祷をされていたとか思われていたらしい。
側室のお由良の子の久光派に。久光は斉彬の弟。
西郷や仲間たち(大久保利通とか)は久光派の人たちの暗殺をひそかに計画するが
斉彬はそんなことは望まなかった。
斉彬は久光の長男を後継者にしようとしていた。
また斉彬は島津家の篤姫を将軍家定と婚姻させた。
それだけ島津家は期待されていたし力があった。
また斉彬は次の将軍に慶喜を擁立しようとしていた。
ペリーの次にハリスが来たようで外交問題も緊迫していく。
西郷は結婚したが江戸に行っている間に妻は実家に帰ってしまった。

   

■2017年11月13日(月)

「西郷隆盛 1 早春の巻 落花の巻」 林房雄著 徳間文庫 読破

西郷隆盛は成人して土地の検地や年貢を扱う役についていた。
結婚もした。年下の弟妹が多く家は貧乏だった。
西郷は正室の子島津斉彬が薩摩をおさめてくれれば良いと思っていたが
薩摩で斉彬を藩主にしようと運動していた人たちは、
皆、切腹させられたり島流しにあったりした。
これも斉彬の父斉興の側室のお由良が自分の息子の久光を藩主にしたかったからだ。
西郷隆盛は斉彬が藩主になるようにひそかに運動していた。
そしてついに斉彬が藩主につくことになった。