下から書いてます
■2009年4月27日
「織田信長」 (5) 山岡荘八著 講談社
長篠合戦、織田信長の鉄砲隊が武田勝頼の騎馬隊を破った戦い。
戦国時代の騎馬隊は今のような立派な馬ではなく、ポニーのような子馬だったそうですね。
とにかく武田を弱めると次は上杉謙信である。
上杉謙信の上洛戦をおそれて信長は安土城を築く。たいそう立派な城だったようである。
信長は謙信をたいそう恐れていたが謙信は卒中で死んでしまう。
松永を滅ばし本願寺を大阪からたちのかせ武田勝頼を破った。
秀吉は毛利と戦い、柴田勝家は上杉の遺臣と戦い、滝川一益は関東をまかされた。
これに明智光秀を入れて四天王とよばれるらしいが明智光秀と信長の関係は悪化した。
この小説を読むと明智光秀の被害妄想や魔王信長の意地の悪さが恐ろしいほどに書いてあります。
家康の嫡男の信康を魔王信長は切腹させます。武田と通じたからだということで。
信長は家康をもてなそうと安土によんだけど接待役を光秀がした。
このとき家康と光秀はなにか密談をしたかもしれない。
光秀は接待役をおろされ、毛利と戦っている秀吉を助けにいけと信長から命令をうける。
接待役を途中でかえさせられるのは、とんだことで不名誉なことだったようである。
これで光秀は信長に謀反することを決めた。
この直後に光秀が読んだ詩が「時はいま、あめが下しる五月かな」
信長、本能寺で死す。信長の嫡男信忠も二条城で死す。
■2009年4月25日
「織田信長」 (4) 山岡荘八著 講談社
信長が朝倉を攻めると浅井は反旗をひるがえし信長軍の後ろをおそった。
朝倉、浅井の挟み撃ちにあい信長は京に退却した。生きるか死ぬかの瀬戸際であった。10年逆行したかもしれない。
浅井、朝倉が敵にまわると、三好、松永、毛利、本願寺、比叡山、武田信玄と信長包囲網がつくられた。
室町幕府将軍足利義昭が信長を倒せとみなに密書を送っていたのであった。
信長は浅井、朝倉軍が逃げ込んだ仏教の聖地比叡山を焼き討ちにして皆殺しにした。かなりの反対があった。
つづいて武田信玄が上洛戦をおこしてきたが信玄は流れ弾にあたったのか死んでしまう。
武田信玄が死んだことで信長の一番の恐怖はとりのぞかれた。
浅井、朝倉も滅ぼした信長は足利義昭を追放し室町幕府を滅ぼす。
残る敵は本願寺と上杉謙信だけとなった。三好、松永はどうなったっけな。。
しかし上杉謙信は春になると戦いに出てくるが雪が降る冬になると必ず撤退した。雪深い越後である。
やっと四面楚歌から脱した信長は、武田勝頼と戦っている家康にやっと援軍を送ることができた。
長篠合戦のはじまりである。
話が前後するが伊勢長島の一向一揆も皆殺しにした。叡山のこともあるし信長が魔王とよばれるゆえんである。
上杉は越後ですが秀吉が1598年に上杉を会津に移します。
■2009年4月22日
「織田信長」 (3) 山岡荘八著 講談社
今川義元を破り尾張を統一した信長は松平元康(家康)と同盟し西日本は信長が東日本は家康が治めると約をかわす。
次に攻略するのは美濃である。秀吉が墨俣に城を築いたのを手始めにじわじわ美濃を攻略する。
竹中半兵衛の乱が起こると竹中半兵衛は美濃にいずらくなり秀吉の軍師となる。
稲葉山城を落とし美濃を制圧した信長は天下布武をかかげ美濃を岐阜と名付ける。
伊勢も滝川一益が攻略する。
信長の名は天下に知れ渡った。信長の正室の濃姫のいとこの明智光秀が室町幕府将軍足利義昭をつれて信長に仕官してきた。
北近江の浅井長政に信長の妹の市姫を嫁がすと足利義昭を奉じて圧倒的な力で三好、松永を追い京を制圧する。
京を制圧しても強盗、強姦など一切厳しくとりしまりそれをやらなかった。信長の人気は上がった。
そして室町幕府将軍義昭の館をつくり、天子の館も築いたようだ。
それで信長はというと、管領や副将軍といった役職を断りなんの地位もうけなかった。そして速攻で岐阜に帰ってしまった。
なんの役にもつかなかったのは最初のうちは武田や朝倉などへの遠慮であった。また既存の体制の役職になんの興味ももってなかったのかもしれない。
信長が岐阜に帰るとやはり謀反をたくらむものが出てくる。三好がまた勢いを盛り返し、降参していた松永久秀は謀反した。
信長はまた京に攻め入り三好を追い松永久秀をまた降参させた。
京?で相撲行幸をした。たいへんなお祭りさわぎで有力な力士は皆兵士として雇われた。朝倉責めをするための兵士であった。
越前の朝倉は呼び出しても出てこず反信長であった。
しかし朝倉攻めは浅井との盟約に違反していた。朝倉がなければ浅井は北近江で勢力を築くことはできなかったのだ。
そして織田徳川連合軍は越前の朝倉領に攻め入った。はたして浅井の動きは??
■2009年4月21日
「織田信長」 (2) 山岡荘八著 講談社
信長の弟信行は自分が家督をつごうと信長暗殺をたくらむ。
信長はうつけと呼ばれていて皆行儀の良い信行が家督をついだほうが良いと考えていた。
ところが信長がただのうつけではないとだんだんわかってきた。
信長は信行を殺すと家中を粛正して織田家をまとめあげる。
今川義元が上洛戦を起こす前に家中をまとめることができたのは幸いだった。
今川義元は2万の兵で尾張にせまった。
信長は籠城するかにみえた。信長の兵は2千あまりしかないのである。
また信長は野武士と連携した。野武士は勤王家で足利氏に敗れた人たちである。
野武士も信長の父信秀が天子にお金をおくったり勤王家であったことを忘れていなかったようである。
そして土地のものが新たな統治者にお礼に酒などを贈ることがあるのだが信長はそれを利用した。
今川義元は桶狭間(田楽狭間かも?)で休んでいた。前衛が信長の砦を落とせばそこに入る予定である。
それを聞いた信長は桶狭間にむかって進発した。目指すは今川義元の首ひとつである。他の首はうちすてである。
信長側の砦は今川によっていくつか落ちたが信長は今川側にきどららないように桶狭間にむかったようである。
今川側では信長は籠城するものと決めてかかったいた。
そこへ信長に天が見方したのかにわか雨が降った。豪雨だったらしい。
見事今川義元の首をとることができた。うつけで終わるか天下をとるか。やはり信長はただのうつけではなかった。
今川の兵は皆逃げ去ってしまった。
岡崎城にいた今川の代官も逃げてしまって松平元康(徳川家康)はやっと自分の城に入ることができた。
長いこと今川の人質になっていたのである。その前に織田の人質にもなったけど。
木下藤吉郎(秀吉)も信長に仕官していて面白い。
■2009年4月19日
「織田信長」 (1) 全5巻 山岡荘八著 講談社
織田家にもいろいろ上下関係があるようで織田信秀が下克上で力をつけてきて尾張をおさめていた。
その子、信長はうつけで有名で身なりも悪く尾張のガキ大将を集めては戦争ごっこばかりしていた。
毎日勉学をさぼり馬を走らせ川を泳ぎ戦争ごっこの毎日だった。
あんなうつけじゃどうしようもない、っとみんながいった。
ところがみんな信長のことはたいそう恐れていた。
信長がいうには、みんなと同じようにしては駄目だ。自分の考えを知られるようでは困る。
泣きたいときに笑い、笑いたいときに泣く。
私も泣きたいときに笑います。
信長の父信秀はいった、うつけで終わるか天下を取るか、だった。
信長のうつけな行動をおもしろくないと思う人たちがいた。柴田勝家たちである。
彼らは行儀のよい信行をたてようとした。
しかし信長は気にもとめなかった。尾張じゅうのガキ大将を集めて自分の力で城を奪ってやると思っているのである。
信長は将来にそなえて、戦争ごっこをしたり、川で泳いだり、馬を走らせたり、恐れられるようにしたりしていたのである。
信長の奇行はすべて将来に備えてのことだったのである。
本文には書いてなくて私の妄想が入っている所があるかも。。。
2005年3月17日
「織田信長」 5巻 山岡荘八著 講談社
長篠の戦いで鉄砲隊で武田勝頼をやぶると一躍安全圏ができたと思われた。
ところが毛利、上杉(謙信)、松永、本願寺とたびたび信長にそむいた。
上杉謙信は信長相手に上洛戦をおこすところだったが卒中で死んでしまった。
今川義元が死に、武田信玄が死に、上杉謙信が死に、暗殺がつかわれたようにも思われる。ただの偶然だったのだろうか?
武田勝頼も滅ぼした信長は、毛利と戦っていた秀吉の救援にいく途中、本能寺に泊まった所を明智光秀の謀反に会い最後となった。
明智光秀は何故信長に謀反したのか? 考えるときりがないです。永遠のテーマですね。
私的には室町幕府将軍足利義昭がなぁーと思うところです。
2003年3月14日
「織田信長」 4巻 山岡荘八著 講談社
一躍天下に躍り出た信長だったが味方は家康のみ、四面楚歌におちいった。
武田、朝倉、浅井、三好、松永などの大名や本願寺や比叡山などことごとく信長にそむいた。
信長が室町幕府将軍にしてやった足利義昭が信長を討てっと各々に密書を送っていたのだった。
ついに武田信玄が上洛してくることになり窮地にたたされたが武田信玄は途中で死んでしまった。
そして信長は浅井、朝倉を滅ぼし、将軍足利義昭を追放し、比叡山を焼き討ちし、長島本願寺も焼き討ちした。
叡山を滅ぼすものは叡山なり! となんかインパクトに残っています。
武田信玄の嫡男、武田勝頼が出てきて長篠の合戦が始まる。
2003年3月12日
「織田信長」 3巻 山岡荘八著 講談社
今川義元を敗った信長は美濃を攻略し岐阜と名付ける。
信長の本城は岐阜城となる。
そこへ信長の妻、濃姫のいとこ(たぶん)の明智光秀が、
流浪していた室町幕府将軍、足利義昭をひきつれて仕官してきた。
それから京へ向かう志も大きくなった。
信長の妹、市姫を近江の浅井長政に嫁がせて京へ上る道筋をつけた。
信長は圧倒的な強さで京を占領して室町幕府征夷大将軍足利義昭の館をたて
また天子の御所の館もたてたようだ。
織田信長を読むのもこれで6回目くらいです。
2005年3月9日
「織田信長」 2巻 山岡荘八著 講談社
ただのうつけで終わるか天下を取るか。
織田信長は愛知(尾張)で今川義元は静岡にいる。
今川義元は4万の兵をあげて上洛戦をおこした。京へむかう。
むろん織田信長の尾張を通っていく。
信長の兵は今川の10分の1くらいしかない。3千くらい。
万にひとつも勝ち目はない。
しかし信長は今川義元が休んでいた桶狭間(田楽狭間)を奇襲した。
奇襲は成功して今川義元の首をとった。
小説にどのように奇襲が成功したか詳しく表現されているのでおもしろいです。
今川義元は敗れてみな静岡に逃げ帰ってしまったので
いままで今川義元に人質にとられていた徳川家康(松平元康、竹千代)はやっと自分の城、岡崎城に入場することができた。のちに信長と家康は同盟することになる。
豊臣秀吉(木下籐吉郎)も信長に見いだされて登用されていく様子もおもしろいです。
小説「徳川家康」はちょっと長すぎだけど「織田信長」はちょうどよいくらいにまとまってておもしろいです。
2005年3月6日
「織田信長」 1巻 (全5巻) 山岡荘八著 講談社
幼少の頃から「うつけ」っと呼ばれた信長。
しかし「うつけ」どころではなかった。
着々と地元尾張を支配していく。
「うつけ」だと思われていた信長が
「うつけ」ではなかったとだんだんわかっていく様子とかがおもしろいです。