翔ぶが如く 読書記録 2018  りょう99@笠原良太(かさはらよしたか)

全10巻 司馬遼太郎著 文春文庫 

下から書いてます。

6巻まで読みました。挫折しそうです。。。


■2018年1月15日(月)

「翔ぶが如く 6」 司馬遼太郎著 文春文庫 読破

メモをとりながら読みましたがイマイチ理解できていません。
メモをそのままつなげると次のようになります。。

大久保は独立国の実質を強めつつある鹿児島県の実情をどうにもできないでいる。
薩摩の私学校の大小の幹部が県の行政をにぎっている。
鹿児島県は島津久光と西郷隆盛と私学校の上に成り立っている。
それを危険視して島津久光を左大臣にして従二位内閣顧問として東京へ呼んだ。

また民選議員設立の意見が高まっていた。板垣退助が有名だ。
民会はいまだ開くべからず、いまもし民会を開けばおそらく民主主義の弊害を被り
人民もおそらくは共和主義を主張するにいたるであろう。
国民の主権は人民にある。
地方官会議が内務省官吏である府知事や県令によって構成されているとはいえ
地方官会議がゆくゆく議員へ発展するということが詔勅で明示されている以上
議員(地方官)は人民の代表であるべきであった。
旧幕のころの大名や旗本ではないのである。
詔勅には地方官会議をゆくゆく民選議員にすることが明記されている。
詔勅にはまず地方の長官を召集し人民に代わって協同公議せしむ。
板垣の影響によって土佐では自由民権運動の炎がどの地域よりもさかんである。
民権は人民が天賦のものとして持っているものでただ奪われているだけです。
それを回復するのが人民です。太政官ではありません。

幕末、列強がアジアに対し帝国主義的伸張をしてきた。
それに対する大反撥が攘夷論であった。
その澎湃(ほうはい)として天下に満ちた攘夷エネルギーが明治維新を成立させたが
ところが薩長が政治的にそれを代表し政権を独占してしまった。
同時にその政権は攘夷をすてた。
攘夷エネルギーは野に置き去りにされた。
置き去りのエネルギーのなかから征韓論がうまれ変質して自由民権運動がうまれる。
自由民権運動のなかに当然ながら「素朴な帝国主義的青年」が多数いる。

士族がなくなり廃刀令がでて熊本の士族が蜂起した。
神風連の乱である。
長州の前原一誠は同調しそうだが薩摩は同調しそうになかった。  

    

■2018年1月5日(金) 晴れのち曇り

「翔ぶが如く 五」 司馬遼太郎著 文春文庫 読破

大久保利通は征台を行い清国に乗り込んで談判に及んだ。
日本が台湾の蕃民を懲らすために使った経費は莫大で
清国はこれを償う義務がある。
談判が決裂するまでに清国が固執したのは、清国側が提示した四つの条件である。
第一条 日本が台湾の蕃境に兵を入れたことは清国はそれを不是とはいわない。
     なぜなら日本は台湾が清国領であることを知らなかったからである。
第二条 将来も清国は日本の派兵を問題にしない。
第三条 この問題がおこったのは台湾の生蕃が漂流者を傷害したからだが
     貴国が撤兵してから清国がよく査弁したい。
第四条 貴国民でさきに生蕃の害にあった者については
     この先これを調査して事実をあきらかにしたい。
     しかるのち、清国大皇帝の恩典をもって酌量撫恤(しゃくりょうぶじゅつ)する。
遭難したのは琉球民で琉球は日清いずれに所属するのか公式にあきらかにされていない。
日本政府は当然日本国民だという基礎の上にこの交渉を積み重ねているのであった。
この点清国側は不覚であった。
この基礎の当否を論議しようとせず、日本側のいうがままに日本国民であることを黙認した。
この一言で琉球もまた日本の属地であることが明白になった。
大久保は50万両の賠償を受け取った。
日本政府は「わが琉球の人民を台湾の生蕃が殺傷した」と抗議したのに対し清国政府は賠償金を支払った。
支払うことによって清国政府は琉球が日本の領土であることを公然と認めてしまったことになる。

かつての外務卿副島種臣が北京で清国の大官たちと語り確認したところでは、
台湾は清国の主権の及ばない土地だということであった。
この言葉は無主の地であるとも拡大解釈できる。
台湾の生蕃の地は清国領ではありえないと大久保は思っている。
台湾は大久保のいうように清国の統治力がおよびがたく
清国がここを台湾省にするのはこの時期より十三年後である。
これらのことが先に書いてあるのだけどこんがらがってよくわからない。。

琉球諸島は古くから倭人の住むところだったが、
外交上、日本にも中国にも貢船を送って両属の関係であった。
日本は明治5年、あらたに琉球藩を立て琉球王尚泰を蕃主とし華族に列した。
これについて清国は抗議をしなかった。
さらにいま「大日本琉球蕃民」という大文字の碑を清国領である台湾の一角に建てた。
これについても清国は異議をとなえなかった。
国際法的にいえば清国は琉球が日本国の一部であることを黙認したといっていい。

沖縄のことについては「琉球処分」で検索してみて下さい。

   

■2018年1月3日(水)

「翔ぶが如く 四」 司馬遼太郎著 文春文庫 読破

征韓論に敗れた西郷が中央を去ると
土佐の板垣退助や佐賀の江藤新平も中央から去った。
江藤新平は佐賀の乱をおこした。
たれも江藤には旗揚げしてくれとは頼まなかったし
さらには佐賀側から一緒に兵をあげようと打診の使者がきたとき
桐野利秋は「機は熟していない」
と、はっきり連携することはことわったはずなのである。
桐野は西郷の構想を懸命にまもっているつもりだった。
あと十年も待つつもりならば、政府は怨嗟のまとになって自壊せざるをえない。
そのとき満天下はわれわれに対し首をあげて待ち望む、
機会というのはそのときである。
いたずらに武装蜂起しては逆に政府を強くするのみで成るものも成らない、
と思うようになっている。
佐賀の乱は農民兵だとバカにされていた鎮台兵にあっさり鎮圧されてしまった。
そんなおり、琉球の船が暴風のため漂着した台湾で
琉球の民が虐殺されるという事件が起きた。
この時期、琉球は日本と清国の両属の関係にあった。
報復のため、出兵すべきだっと征台論がもちあがった。
征韓論は取りやめになったが征台論は実行されることになった。
薩摩では帰還した人を中心に私学校ができた。
西郷は野にかくれ農業をしたり猟をしたりしている。

   


■2017年12月29日(金)

「翔ぶが如く 三」 司馬遼太郎著 文春文庫 読破

征韓論はこの時期の現実からいっても端的にいって愚論でしかない。
しかし、その論において西郷はこの時期の全国50万人の士族の
不満と動揺というものを集約し、その解決を兼ねて
すでに樺太まできているロシアの東漸運動を
最終ぎりぎりの時期において未然にふせごうとした。
ロシアの極東侵略を満鮮で食い止めようというその政策案は
西郷が去るとともに消えた。
外遊組に反対されて征韓論に敗れた西郷は薩摩に帰ったのである。
桐野をはじめ薩摩のものの多くは西郷を追って薩摩に帰った。    

    

■2017年12月23日(土) 晴れ

「翔ぶが如く 二」 司馬遼太郎著 文春文庫 読破

西郷隆盛の弟従道の外遊は早かった。山県有朋も一緒だった。
欧州の文明というものがいかに巨大で、その陸海軍がいかに盛大であるかに驚いただけではなかった。
世界のすう勢は合衆政(共和政治)にむかいつつある。
日本はようやく王政復古したというのに、パリではもはや帝政を倒し、さらにブルジュアジーを倒し、
労働者による共和政権をつくろうという気分が横溢(おういつ)していた。
攘夷どころではない、王政そのものがあぶない。
「日本国皇帝」というものを意気揚々と成立せしめた志士のひとりである西郷従道としては
この世界のすう勢には狼狽せざるを得なかった。
いったい天子を擁し奉ってあれでよかったのであろうか。
しかし天子を擁立しなければ倒幕も維新も成立しえなかった。
また山県有朋を襲いつづけていた衝撃は、ヨーロッパ人民は王を愛さなくなっている。
むしろ国家や議会を愛そうとしている。この思想はやがて日本にも来る。
せっかく成立したばかりの日本の天皇制は累卵のあやうきにあるという恐怖だった。
日本のような忠君の道徳や感情は必ずしも普遍的でないことも知った。
山県ほど天皇の権威的装飾に熱中した男はなく、日本史上における天皇のたたずまいが
明治20年代から異様な重厚さを加えてくるのは山県ひとりの創作に負うところが多い。
天皇の権威的装飾が一変するのは、明治29年(1896年)、侯爵山県有朋が、
ロシア皇帝ニコライ二世の戴冠式に日本代表として参列してからである。
(なるほど、皇帝の座とはこれほど荘厳なものか)
とかつて欧州で見たのとは逆の衝撃を受けた。
日本の天皇がミカドである位置から明治憲法による天皇になられたのは
この憲法が発布された明治22年からである。
起草者の筆頭は伊藤博文であった。
山県よりも開明的傾向のつよい伊藤は「日本国皇帝」のあり方のモデルをロシア皇帝に求めず
ドイツ皇帝にもとめ、しかも皇帝から専制性を抜いたものとして考えた。
この新しい「日本国皇帝」に対し山県が明治29年にロシアから帰って皇帝の粉飾を取り入れた。
かつて江戸期の終了まで御所様として日本的陰翳(いんえい)の世界で
神聖視されていた天皇はこのあたりで栄光の伝統を変える。
ドイツ風の威権の象徴になり、ロシア風の重厚さを加えることになった。
山県は軍を握った後、内務官僚組織をにぎり、ついには明治国家の国権を確立してしまった。
「フランスの民権主義は、せっかく国家を誕生せしめた日本に害がある」
という意味のことを山県は滞欧中たえず言ったに相違なく、民権よりも国権である。
そのためには国権主義のプロシャを範とすべきであるとした。

「翔ぶが如く」は話が前後します。
外遊組が帰ってきてどうやって韓国に使者にいこうとする西郷を止めようかっとずっと書いてあります。

     

■2017年12月20日(水)

「翔ぶが如く 一」 司馬遼太郎著 文春文庫 読破

はじめ川路利良が出て来て主人公かなと思うのだがそうでもないらしい。
主人公がはっきりしてないのが翔ぶが如くの難点である。
司馬遼太郎さんの本は脱糞するシーンや放尿するシーンが出て来てよくない。。
西郷隆盛は薩摩出身の川路利良と桐野利秋(中村半次郎)をかわいがって
川路を警察のトップにして桐野を陸軍のトップにした。
西郷の用心棒の桐野は人斬り半次郎と言われ恐れられた。
また西郷と大久保利通は幼なじみである。
一巻から征韓論ではじまる。メモをとったので文章にしてみよう。
朝鮮に日本は開国の使者を何度も送るがほうほうのていで追い返された。
勝海舟は旧幕時代から日本と朝鮮と中国の三国同盟の提唱者であり、
とくに朝鮮に対しては強い連帯意識と親近感をもっていたから
明治政府が朝鮮に修交を求めたのは勝海舟流の善意の行動であったに違いない。
が、朝鮮はそれを蹴った。
そのあと海舟流の三国同盟論が薄くなりかわって征韓論が登場した。
西郷は「あくまで修交である。その国使として自分がゆく、
     彼の地で殺されるかもしれないが、その結果として武をもちいればよい」
としていた。
明治4年に日本を出発して欧米諸国の国家見学に出かけた公卿の岩倉具視、
薩摩の大久保利通、長州の木戸孝允らやその随行者たちは、
帰国後ことごとく征韓論の非であることを唱え、征韓論がもし政策にされるならば
日本国は滅びるという悲痛な危機感をもった。
朝鮮に兵を送ればどうなるか。
世界の列強は朝鮮に義侠的加担をする名目を見い出してえたりや応と
日本を軍事的につぶしにかかるだろう。
たしかに日本そのものが滅びる。
列強とはそういうものです。
征韓策は純戦略的にも成功不可能であった。
朝鮮はその宗主国の清国に泣きつく。
清国は怨恨の部分で関係の濃厚な英国に救援を頼むだろう。
英国は上海港に東洋艦隊を常駐させているのである。
たとえば桐野らが二個大隊で釜山か仁川に上陸したとき、
ただちに艦隊をもって朝鮮海峡を封鎖してしまう。
日本は増援軍も弾薬も送れず、桐野らは餓死してしまうだけのことであり、
これをみて分け前を欲するフランスその他の国がだまっているはずがなく
立ち後れながらも陸兵を朝鮮に送って桐野らを殲滅するにちがいない。

外遊組は公卿の岩倉具視、薩摩の大久保利通、長州の木戸孝允や伊藤博文、
留守内閣は、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、大隈重信、後藤象二郎らでみな征韓論派であった。
(大隈重信は征韓論派ではなかったかな)
外国を見て来た外遊組はみな征韓論に反対だった。
しかし明治維新で士族がなくなって士族の不満がたまっていた、また
徴兵制になり農民の不満もたかまり、その不満を外国に向けようと征韓論はおこったのだと思う。
今も昔も国内の不満を外征に向けるのはよく使われる手である。
しかし征韓論を実施すればただちに朝鮮の宗主国である清国とロシアが攻めてくるであろう。
ロシアの脅威は大きかった。

ちなみに西郷隆盛は、参議、陸軍大将、近衛都督。
西郷と幼なじみの大久保利通は外遊してきて征韓論に反対で仲の好かった西郷と袂を分かつことになる。