箱根の坂 読書記録   りょう99@笠原良太(かさはらよしたか)

箱根の坂 全三巻 司馬遼太郎著 講談社文庫

下から書いてます。


■2018年7月11日(水)

「箱根の坂 下」 司馬遼太郎著 講談社文庫 読破

誰もが早雲を慕っていた。
何しろ十の取れ高のうち、早雲は四をとるだけである。
四公六民などという安い税率はどの国にもない。
一向一揆で「百姓の持ちたる国」となってしまった加賀でさえ五公五民なのである。
ついでながら早雲のこの方針は彼の死後も引き継がれた。
小田原北条氏の税の安さと農民への撫育のあつさのながい封建制を通じ
ついに北条氏におよぶ大名はなかった。
しかし財政は四公六民では窮迫した。
もっと領土が必要だと思った。
早雲は伊豆をとりたいと思った。
伊豆では金がとれるところがある。海岸の砂にもまじっている。
金を得れば足軽隊をつくれるであろう。
伊豆の公方はやがて朽ちるだろう。早雲はそれを待つつもりでいる。
早雲が58歳の時に妻が次男を産んだ。後の氏時と呼ばれる人物である。
伊豆の公方で内輪争いがおこった。
この機に伊豆を急襲すれば早雲の行為は天誅となり誰もが容認し人によっては拍手もする。
早雲は伊豆を一朝にして得た。
年来重かった伊豆の年貢を一挙に軽くした。四公六民にした。
早雲が伊豆平定に費やしたのはわずか30日であった。
執権北条氏の名残から早雲は北条殿と呼ばれるようになった。
早雲の妻が三男を産んだ。
のちの長綱、北条幻庵の名で著名。

関東では上杉管領家が二つに分かれ争い合っていた。山内上杉家と扇谷上杉家である。
敵の敵は味方である。伊豆は山内上杉家の領土だったので早雲は扇谷上杉家に味方した。
早雲も戦いを重ねたが扇谷上杉家の当主上杉定正が討たれてしまった。
早雲は箱根の坂を越えようと思った。
早雲はこの頃こんな詩をうたっている。
東路の 秩父の山の 松の葉の 千代に影添う 若緑かな
早雲は鹿狩りをすると称して兵をくり出し小田原を急襲して落とした。早雲64歳であった。
早雲81歳にして三浦氏を滅ぼた。
また関東管領の扇谷上杉の当主朝興の軍勢を玉縄において打ち破った。
早雲という卑賤の成り上がりが、関東における正規の室町体制の軍を破った最初の出来事であった。
早雲は87歳にしてようやく相模全円を得たことになる。
翌年8月、伊豆の韮山で病没した。

すでに長子氏綱は33歳と成熟した年齢にあった。
氏綱一代で、父早雲がかためた基礎の上に壮大な建造物を作ったといえる。
関東八カ国を平定し小田原に城下町を創設し商業と文化を栄えさせた。
そのあとを氏康が継いだ。

孟子は、殷の最後の王である紂を臣であった周の武王が誅したことは当然だという。
王は天下の民を安んずべきものであるのに、殷王紂は、「仁を賊(そこ)ない、義を賊なつ」た。
である以上、すでに王ではなく、一匹夫にすぎない、と孟子ははげしくいう。
周の武王は民のために、この単なる匹夫を誅しただけで、君を弑(しい)したわけではない、というのである。
早雲において、そういう「義」についてのよりどころがなければ、
彼の行動があれほど痛快なものにはならなかったにちがいない。
自分の人生をつらぬいているものを早雲は「義」であるとし、子の氏綱にも言いきかせたにちがいない。

孟子はしきりに義をいったが、しかし書生論ではない部分が多量にある。たとえば、
「大人は、言必ずしも信ならず」
というくだりである。大人−理想的政治家−の言行には時に、
倫理的にどうかとおもわれる点があるにしても、めざすところは義であるために、
しばしば権の方法をとるのだ、と孟子はいう。
義がつらぬかれていさえすれば、小さないかがわしさはかまわない、というのである。
「孟子」のこのくだりを読むと早雲の眼裂のながい両眼から、ときに発する異様な光が、あわせて感じられてくる。

鎌倉新仏教であったり孟子の話が面白かったです。
他の本にはないなぁ。なんか新鮮だった。

 

■2018年7月9日(月)

「箱根の坂 中」 司馬遼太郎著 講談社文庫 読破

伊勢の津から船出した早雲以下7人、小次郎もいる。
駿河についた。
茅萱(ちがや)は今はどうみても駿河の守護職の世継ぎたるべき童の母として
犯しがたい威と気品でもって座っている。
茅萱は言う。
「若殿にとって、新九郎どのはおじ君にあたらせられます。
竜王丸どのの世が立つようお力添えねがえますか?」
「手を砕き、わが命に代えて護りつかまつる」っと新九郎(早雲)は心から言った。
早雲の家芸である伊勢流には馬術と弓術がふくまれていて家元側近としてそれに達していた。
「伊勢どのは孫子、呉子、六韜三略に通じておらるるとか」というものまでいたが
「学問の上だけじゃ、軍勢を動かしてこともござらぬ」っと新九郎は打ち消し、つづける
「今川家は大切です。
この国の今の段階では今川家が守護であればこそ国中がまとまっている。
今川家が存在せねば国中が乱れ、西方は尾張の斯波氏に斬りとられ、
東方は関東の上杉管領家に食いとられるであろう。
他国の植民地になってしまえば難渋するのは地下だ。
御譜代衆をふくめた地下衆は一村一郷がたがいに仲が悪く、
一国に一人尊貴なる御人を戴かねばまとまりませぬ。
尊貴ということは節目でございます。
節目は竜王丸様をおいておわさず、このお一人のみを擁し奉れば
駿河一国の士気は大いに奮いましょう。」っと言った。
しかし竜王丸様はまだ幼く、故人の従兄弟の新五郎範満どのに
一時的に駿河の成敗を任せることになった。
新五郎範満の母の実家は上杉家である。うしろだてもある。
早雲は竜王丸様のご家来衆の一人に加わることになった。
駿河の東の端の興国寺城をあずかることになった。
奉公人は250人くらいで12郷をすべることになった。
早雲どのも新参ゆえ、ご遠慮なされてものよっと気の毒がる者もいたが
興国寺城は重要な拠点であった。こんにちの沼津付近であり
箱根越えの根元の野にある。
うまく守ればおちがたい城だ。
付近は沼沢地であるため攻城軍は大人数を展開できない。
それに関東から来て西にすすむ軍勢は根本街道を一列縦隊になってすすまざるをえず、
それを高所の興国寺城から横撃すれば蛇を寸断するように潰すことができる。

年があけて早雲は京の乱がおさまったことをきいた。
1467年〜1477年までであった。

早雲は変わった男であった。
城主でありながら百姓のような笠をかぶり
素足同然の足ごしらえで、あきもせず領内12郷をまわっていた。
早雲は農事の面倒をよくみた。
若い寡婦がいれば、よき夫をさがしてめあわせてやり、
郷々の利害の争いにはじかに首をつっこんで調停し
排水のできそうな土地をみると村々から次男三男をつのり
銭を貸して工事をさせ新田をひらいて住まわせた。
また式目(法規)というものを好んだ。
扶持をあたえている侍にはかれらのための式目をつくり
また百姓には百姓の式目を作った。
また百姓にも侍にも読み書きを勧めた。
租税は安かった。
農業技術は近畿が先進国であったために
早雲も駿河においてさまざまな助言をすることができた。
二毛作はおろか三毛作もやりだしたようだ。
早雲どのは室町殿(京の将軍家)にもお仕えあそばされていたのだ。
今川のために悪いようなことはなされまい、っとい人もいた。

早雲はもう54歳であったが、
小笠原家の息女(23歳)が亭主に死なれて実家に帰っている。
早雲さえ良ければ駿河にくだってもよいとのことだった。
早雲は嫁にもらい、早雲55歳で子ができた。
子供には新九郎の名を与え、元服のときにつけるいみなも用意した。
氏親(竜王丸)に忠誠をつくすように氏の字をもらい氏綱とした。
のちの北条氏綱こそこの嬰児である。
氏綱の子が北条氏康である。

ちなみに氏親(竜王丸)の子が今川義元である。

新五郎範満は早雲を暗殺しようとしたり、竜王丸のいる丸子城を襲ったりしたので
早雲は今川新五郎範満を討ち取った。
丸子城の氏親(竜王丸)を駿府に迎えた。

   

■2018年7月8日(日)

「箱根の坂 上」 司馬遼太郎著 講談社文庫 読破

次男坊の山中小次郎は若厄介と呼ばれ厄介者扱いされている。
小次郎は二十二になるのにいずれとも身の振り方も決めずに
兄の主計の厄介になっていた。
ある日、新九郎の元へ妹分の茅萱(ちがや)が訪ねてきた。
小次郎が背負って連れてきた。
小次郎が主人公だと思っていたら違うのかよ。。新九郎かよ。
新九郎は鞍づくりをしていたが足利義視の申次衆(もうしつぎしゅう)だった。
茅萱は足利義視の腰元となった。
そんな茅萱の許へ今川義忠がしのんで来ていた。。
今川義忠がひきいてきた駿河・遠州のおもな在郷勢力は、
遠州の笠原郷の笠原氏、遠州馬伏塚の小笠原氏〜〜。。と続くんだがさておき、
すでにのちの世でいうところの応仁の乱が進行している。
いつ始まり、いつ終わったかということもないこの大乱には主役がない。
正義も名文もない。意味もなかった。
しいていえば、生物の群れが地方地方の巣から京へ這い上ってきて
無目的に自己減殺しあうようにして、たがいに争闘し、殺し合い、
古くから続いてきた権威の象徴である寺社を焼き尽くすという生態そのものに
意味があったかのようである。
(ばけもの同士のたたかいだ)と渦中にある新九郎は思っていたが、
そのばけものとは何かということになるとかれにもよくわからない。
今川義忠は東軍で駿河・遠江の足下があぶなくなってきた。
尾張の斯波氏は西軍(山名宗全派)であるが、
駿遠の国人どもに今川氏から離反するようにしきりに働きかけていた。
今川義忠ははやく帰らなければ本国があぶない、とみて大いに動揺していた。
今川義忠は茅萱(ちがや)を連れて本国(駿河、遠江)に帰ったようである。

将軍は足利義政、管領は細川勝元、
将軍足利義政の弟の足利義視は足利義政に命ぜられて東軍の総大将になった。
足利義視と申次衆の新九郎は孟子を論じた。
(民を貴しと為し、社稷これに次、君を軽しと為す)
人民が最も重く貴い、という。
その次は国家である。君主が最も軽い。
とする「孟子」第十四巻「尽心章句」のなかにあるこの句は、
当時の足利義視がもっとも昂奮していたくだりであった。
「わしはこの文章を読む度に、そのつど涙があふれる」
と目をうるわせた。
「自分が将軍になればそういう君主でありたい」ともいった。
さらに孟子はいう。
君主とは、衆民に推されてなるものだ。
その君主が諸侯を選ぶ。諸侯は大夫を選ぶ。
もし諸侯が国家を危うくすれば、退位させられるべきである。
国家を守る神(社稷)も同じだ。
平素、人々が超えた食肉獣を神にお供えしているのは
民の患い(干害や水害)を無くしてもらうためだ。
であるのに、干害、水害があればその神は必要ない。
他の神に代えてしまう。
神すら民衆の役に立たないならとって代えてしまえばいいといっている。
暗に、神と君主を同じ意味としてかさねている。
君主に租税を払ってかれを養っているのは善政を布かせるためで
悪性を布くようならとっ代えろ、といっているのである。

足利義視も新九郎も暗黙のうちに足利義政を悪玉に仕立てているほど非礼ではなかった。
それに義政は不思議な王であった。
義政だけでなく、歴代の足利将軍家がそういう基礎に立ってきたのだが、
この王家はほとんど領地をもたず、従って民から搾る租税で食っているわけではなかった。
古今東西の歴史の中で異例のことに将軍家の私経済のほとんどは
対明貿易の現金収入でまかなわれてきた。
従って狭隘(きょうあい)な議論を立てるとすれば
将軍足利義政には民の面倒を見る義務はないとすらいえる。
足利義視も新九郎も足利義政の無責任については論じなかった。
ただ義視は
「わしがその位につけば、孟子が将軍になったつもりで政治をする」
と言い、新九郎もそのことを論じた。
そんな2人は今、逃亡していた。
細川の兵が追っているらしい。
「されば敵ではない、細川勝元はわしが逃げたによってうろたえているのだ。
勝元はわしを担がねば山名宗全に勝てぬ」
貴族というものは、そういう操作の上での自分の価値だけは知っている。
「いい気味だ。勝元もすこしはわしの有り難みがわかったろう」
明け方に山中越にたどりついた。
新九郎は蘇生のおもいがしたのは、ここから叡山延暦寺領で、
京のまちで戦っている両軍も叡山の守護不入権をはばかってやってくることは決してない。
新九郎はずっと義視を背負ってきていたのだ。

京の人間関係といえば、たとえばこうである。
東軍の総帥の細川勝元の妻は西軍の総帥の山名宗全の娘であり、両人は婿と舅の関係になる。
また将軍足利義政の御台所日野富子と、彼女が仇敵以上に憎んでいる足利義視の北ノ方とは姉妹であった。
婿同士が弟妹で妻女同士も姉妹であると言うほど親密なものはないのだが、
しかし将軍職が一つしかない以上、日野富子としては足利義視を憎みつづけるほかはない。
といって義視を殺せば一大事となる。殺さずに義視の病死を願うしかなく
病死しそうにもないともなれば極端な手はおどしである。
足利義視はおどしに屈して逃げ出したのだ。

八年の歳月がすぎた。
乱がつづくうちに、西軍総帥山名宗全は老衰して死に、
2ヶ月たって東軍総帥細川勝元も四十四というのと宗全の死にひきこまれるようにして死んだ。
無名の新九郎については、世上、たれもうわさしない。
かれは、京をのがれた足利義視の共をして近江の坂本まで行った。
そのあと、義視が伊勢の北畠を頼ってくだったときもつき従ったが、
義視が京へ戻ろうとしたところ仕えをやめて牢人した。

伊勢新九郎長氏は、のちは北条早雲として知られる人物になる。

伊勢新九郎が将軍の養子である足利義視の申次衆になったとき、
このひとが将軍になれば、世が変わるのではないか。っと期待した。
が、ほどなく義視の人物に失望した。が、それ以上に、
義視一個がいかに理想を強くもっていようとも歴史はそれだけでは動かないとみた。
ときに、農民が力を得、その中の有力な者が国人・地侍として大地を揺るがしはじめている。
諸国の守護といっても、都の将軍と同様、権威という威のある装飾物に過ぎず
つねにあたらしい地下勢力にあおられ、それらを味方に引き入れて
ようやく権力をたもつ存在にすぎない。
将軍の場合、まことに孤独であった。
そういう新興の国人・地侍を配下に引き入れることもできない。

たとえ義視が将軍になっても、民のために何もすることが出来ず
有力な守護たちに弄せられておよそ政治らしい政治は些事もできなかったろう。

将軍・守護の時代はいずれ去るに相違ない。
その後は、いまでこそ賤(いや)しまれている国人・地侍が力を得、かれらが国々をおさめる。
でなければ、民は兵火と飢餓で死に絶えるに違いない。
というのが、のちの早雲の政治思想につながる。
伊勢新九郎の痛いばかりの感想だったにちがいない。
が、新九郎は一介の牢人にすぎない。

茅萱(ちがや)はすでに今川義忠の子を産み、竜王丸とよばれて五つになっていた。
義忠には他に子がなかったために茅萱は嫡子生母ということで重んぜられ
「北山殿」と尊称され平凡な日々を送っていた。

新九郎は相変わらず鞍をつくっていたが駿府の今川義忠が討ち死にしたと聞いた。
新九郎はどうするのか。

中巻に続く。