下から書いてます
■2007年2月12日
「城塞」 下巻 司馬遼太郎著 新潮文庫
大阪冬の陣で和議となったが、大阪城にはまたすぐ浪人が集まりだす。
家康もいろいろな屁理屈をこねて秀頼を滅ぼそうとする。
そして大阪夏の陣がはじまった。
大阪側5万に対し家康側は30万。
大阪城は堀をうめられてもう籠城することはできない。
大阪側は家康本陣をねらう作戦をたてる。
真田幸村が家康本陣を2度急襲するも家康が逃げてとどめをさすことはできなかった。
このとき家康は死んだという噂が流れたらしいが、次ぎの年あたり正式に死んでいるので私的にはありかなっと思っています。
はじめは強かった大阪側だが家康軍は圧倒的に人数が多くだんだんおいつめられていく。
大阪城炎上、秀頼、淀殿は亡くなりました。
司馬遼太郎さんは家康が嫌いだったみたいですね。家康のことはあまりよく書いてないです。
「関ヶ原」も石田三成を主人公にして書いているし。
■2007年2月7日
「城塞」 中巻 司馬遼太郎著 新潮文庫
家康は70歳をこえ、豊臣秀頼は20歳をこえた。
家康が先に死ねば豊臣家の世がもどってくるかもしれない。
そこで家康は鐘名問題をもちあげ豊臣家を滅ぼすため戦争をおこした。
秀吉が作った大阪城では浪人があつまり10万人くらい集まったんでしょうか。
その中に真田幸村や後藤又兵衛や長曾我部や明石全登などがいました。
いずれも関ヶ原で負けて浪人していた人たちのようです。
大阪側が勝てば一躍国持ち大名となるでしょう。
明石全登はキリシタンで大阪側が勝てばキリスト教をゆるすなどとなっていたようです。
キリシタンが結構大阪城に入ったようです。
しかし大阪城を包囲した家康軍は40万人くらいでした。
城攻めには通常10倍の兵力が必要だといわれていますがどうでしょうか。
大阪冬の陣がはじまりました。
大阪側に残念なことは戦争がはじまっても大阪側につく大名は現れませんでした。
真田幸村は大阪城の城外に出城を築き真田丸となずけ家康軍をさんざんやぶりました。
しかし援軍がこない籠城はつらいです。
大阪城に大砲が撃ち込まれるや豊臣秀頼の母、淀殿はすぐ家康と和議を結びました。
和議を結ぶと大阪城の堀は全部埋められ難攻不落だった大阪城は丸裸となってしまいました。
もう籠城することはできません。
私が思うに大阪冬の陣がすぐ和議になったのは
前にも書いたんだけど冬の寒さがつらかったからだと思います。
大阪城を囲んだ40万人の兵は夜はちゃんと眠る場所はあったのでしょうか。
布団などはなかったんじゃないかと思いますし。ワラに入って寝たのかな。
民家に入って寝たとしても40万人が寝れるところはなかったんじゃないかと思います。
とにかく冬は寒いです。戦争どころじゃないです。。
うまくまとまった文章が書けない。。。
■2007年2月1日
「城塞」 上巻(全3巻) 司馬遼太郎著 新潮文庫
この本は家康と豊臣家でおこった大阪の陣の話なんだけど
こないだ読んだ「風神の門」と同じ時期の話で書くことが同じネタしかないんだけどどうしませう。。。
関ヶ原で勝った家康は征夷大将軍となり江戸幕府を開いたんだけど、
すぐ隠居して将軍を徳川秀忠にゆずりました。
これは天下を豊臣家にゆずる気がないことを示したものでした。
それまで家康の後は豊臣秀頼に政権をゆずってくれるものと思われていたのでした。
秀忠の子、千姫を秀頼に嫁がせるなどしたたかにやっていたんだけど家康は人がかわりました。
家康は、今川に使え、織田に使え、秀吉に使え、すごく従順にやっていたんだけど、
秀吉が死ぬや人が変わったように天下に執着しました。
やはり自分の眼の黒いうちに秀頼を滅ぼしてしまわなければならなかったのです。
そこで難癖をつけたのが鐘名問題でした。
豊臣家で作ったお寺の鐘にきざんだ文章のことです。
国家安康 君臣豊楽
これは家康の名を分断してのろったものだともちあげたのである。
しかしよく考えてみると家康という字を名指しで使ったのがよくなかったようです。
徳川という字ならまだよかったのかもしれません。
豊臣なんか逆さになってるのにねっとも思うのですが。
豊臣を君として楽しもうっみたいな意味もありそれもちょっと問題だったのかな。
大阪城内では家康の調略によりてんやわんやとなっております。
千姫は秀忠の子であってるかな?