史記 武帝紀 読書記録 りょう99@笠原良太(かさはらよしたか)
北方謙三著 小学館文庫 全7巻
「史記 武帝紀」全7巻は結構前にブックオフで全巻108円で買えたのでラッキーでした。
2巻まで読んで挫折しました。後で読むことがあるかもしれません。
■2021年2月26日(金)
「史記 武帝紀 一」 北方謙三著 小学館文庫 読破
漢の武帝、劉徹(りゅうてつ)の時代の物語。
衛青(えいせい)の姉は帝(劉徹 武帝)の寵愛を受けていた。
低い身分の衛青はそしりをうけ縛られて
殺されそうになるいやがらせを受けたが
帝の信頼を受けて兵を指揮できるようになった。
はじめは五百だったが頭角を表し千の兵を持てるようになった。
衛青は少年の頃、一人で羊の群れを狼から守らなければならなかった。
何度となく狼は襲ってきた。
狼が現れたら羊の群れをどこへ追い込んで行くか、そして狼とどう対するか。
狼は群れを組み狡猾に動く。
その狡猾さのもう一つ上を衛青はいつも考えていた。
父の実家にいた数年間、衛青は一頭の羊も失わなかった
衛青の羊の群れを守ることが兵の指揮をとるスキルになったのかもしれない。
馬の乗り方も覚えていた。
千の兵で2千の匈奴を破った衛青は将軍にするといわれる。
帝の劉徹(武帝)は古い人物が死んでいくとやっと自分で命令できるようになっていく。
衛青のように家臣に取り立てることができるようになっていく。
張騫(ちょうけん)は西の大月氏と結び匈奴を挟み撃ちにしようとつかわされた。
しかし張騫は匈奴にとらわれてしまう。
張騫は匈奴の妻をもらい家庭を持つにいたっていた。
匈奴の国境侵犯はしきりである。
衛青の部隊は思った以上の成果を上げていた。
千騎から五千騎を率いる軍人となった。
奴僕であった身が信じがたいほどの栄光だった。ただし、勝てばである。
帝は衛青ら四名にそれぞれ1万の兵で遠征の準備を命じた。
国境を越えて匈奴の地に攻め込むのだ。
「戦いをすれば軍費はかかる。
匈奴を銭で飼いならせた方が得だっという考えを認める気はない」
っと劉徹は言った。
衛青は匈奴を討つため一万の兵を率いて国境を越えた。
五千は騎馬隊であとの五千は輜重を曳いた歩兵だった。
匈奴は動きの遅い歩兵を当然ねらってくる。
「歩兵は円陣を組め
輜重を防壁のように丸く並べ、
兵は戟を構えて騎馬の突入を止めろ
円陣の中に決して敵を入れるなよ」
っと衛青は命じた。
歩兵を囮に使い五千の騎馬隊を三つにわけ匈奴を蹴散らした。
衛青はもっと深く匈奴に入っていった。
四人の内三人の隊は匈奴に敗れた。
衛青からなんの連絡もないのは全滅したからだろうと思われた。
ところが衛青はリョウ城を奇襲して勝利して凱旋した。
リョウ城は単于庭の南であり、祭祀を執り行うし
匈奴にとっては最も重要な地点の一つである。
上谷から二千五百里もあるだろう。(百里が約40q)
歩兵を補給部隊として使い千里余りを進んだ所に基地を築いた。
それから騎馬隊だけでリョウ城を駆け
大きな戦果をあげて基地へ戻り、
襲ってくる匈奴軍を騎馬隊で翻弄しながら
悠々と国境を越えていた。
本当は単于庭を狙っていたが
五千騎では兵力が足りなかったとこともなげに言ったという。
今後の匈奴との戦いに大きな展望が開けたことになるのだと劉徹は思った。
たったひとりの将軍が自分の夢を実現可能なものとした。
早く皇太子が欲しい。
匈奴との戦いに勝ち抜きたい。
河水の工事を完成させ洪水を防ぎ水運を盛んにしたい。
西にも南にもそして海へも人をやり新しいものを長安に運びこませたい。
自分が帝であることを劉徹はたのしめるようになっていた。
さまざまな抑圧の中にいた数年間がまるで嘘のようだ。
そして衛子夫(衛青の姉)は男子(皇太子)を産み皇后となった。
だから衛青は皇后の弟になるが
いままでとなにかが変わったということはなかった。
衛青は三万ほどを率いて匈奴に侵攻してみろっと言われる。
騎馬五千に歩兵一万という部隊を二つ作る。
漢軍三万は匈奴軍五万に鮮やかに勝った。
(もう書く気力がない。。。)
匈奴につかまっていた張騫は匈奴を抜けて
やっと大月氏につくことができた。
匈奴で17人で脱出したが
大月氏についた時は7人になっていた。
沙漠や山越えが非常に困難だったのだ。
匈奴に見つからないように一番大変な道を通ってしまったようだ。
匈奴を挟み撃ちにしようと漢から派遣された張騫だったが
大月氏は匈奴と戦う意思はもってなかった。
戦いの気配はどこにもなく平和に暮らしていた。
ただ大月氏の王は漢との交誼を望んでいる。
張騫は二人を残し漢へ帰ろうとする。
張騫が漢を出て10年以上経ったであろうか。
良太はレベルが3上がった。
■2021年2月28日(日)
「史記 武帝紀 二」 北方謙三著 小学館文庫 読破
河水の南側、つまり朔方郡(さくほうぐん)を匈奴に抑えれれているゆえに
西への交通が遮断されている。
そこさえ奪還すれば西域との交易も難しくなくなる。
朔方郡にかなりの守備隊を置けば、河南の支配は取り戻せる。
いままでは匈奴を破る戦いだった。
今度の戦いは河南を奪るというはじめて明確な目的を持ったものだった。
遭遇戦ではない。
攻撃のあと、すぐに防御に徹しなければならなくなる。
制圧戦なのだ。
衛青軍三万だけで戦う。
勝ったあとのことは国境の軍がやる。砦を築くのだ。
衛青は三万の兵で数か月で河南を奪回した。
河南が匈奴の手にあったために西へむかうことができなかった。
思うさま翼を拡げられないだけでなく、
この長安のわずか八百里のところに匈奴の大軍がいたのだ。
剣を突きつけられているような気分が常につきまとっていた。
劉徹は河南の隴西(ろうせい)までの道の整備を命じた。
せっかくの衛青の勝利を確実なものとするために
劉徹は自分の脚で隴西に巡行して立ちたいのだ。
すべての民に河南をわが物にしたことを知らせたい。
長城の崩された部分の補修もはじまっている。
単于庭には十万の匈奴がいたが河南の奪回には動いてこなかった。
どうも単于(ぜんう 匈奴の頭)の体調が悪いようだ。
そして単于は死んだ。
どさくさにまぎれて再び匈奴に捕まっていた張騫は脱出して
十数年ぶりに漢に帰ってきた。
百名ほどの使節を西に送ったが十数年かかって帰ってきたのは二人だった。
大苑に二人を残してきた。大苑は漢との交易を望んでいるようだ。
大苑には漢人も結構いた。毎年数名くらい訪れているらしい。
大苑は大月氏だと思っていたのだけどどうもちがうのか?
張騫は大苑、康居、大月氏、大夏とまわってきたようだ。
劉徹はちゃんと張騫のことを覚えていて西の国の話を聞きたがった。
匈奴では新しい単于が立ったようだ。
新しい単于は言った。
{戦いをつづけるぞ。漢からすべてを奪い尽くしてやる。
匈奴の地を、南に拡げるのだ」っと。
以上166ページまで 167ページから司馬遷が出てくる。
二年くらいが過ぎたかもしれない。
衛青大勝利の第一報が入ったのは三公九卿の会議の最中だった。
王族十数名を捕え、男女一万数千を俘虜
衛青は大将軍に任命されて長安に凱旋した。
これで計画通りに河南に人を移住させることができる。
大将軍となった衛青は10万の兵で北へ向かった。
将軍が6人つく。
衛青は麾下3万と売り出し中の18歳の霍去病(かくきょへい)2千騎で
縦横に駆け回る闘いがしたかった。霍去病は衛青の甥(おい)だ。
霍去病の2千騎が囮となり、匈奴1万数千騎をかき回した。
そこへ衛青5千騎が駆けつけるが敵は3万に増えていた。
また味方の5千騎が駆けつけて敵を背後から襲った。
大勝利ではなかったが匈奴の首級を4千近くあげ損害はあまりなかった。
北の脅威の呪縛が解かれると自ずからそれが見えてきた。西だ。
帝は衛青に新しい任務を与えた。
西には様々な国があるが、そこへの道は依然匈奴にふさがれたままだ。
西へ版図を拡げる。西の匈奴もまた北へ追いやる。
一方匈奴側では、
単于が死んでも次に強い者が出て単于となり国は滅びない。
なにがあろうと匈奴の軍が半分に減ろうと
衛青ひとり討てば勝ちだ。
匈奴は一万の単于の直轄軍を作った。
また衛青は10万の兵で匈奴に攻め込んで行く。
麾下の1万騎と、霍去病の2千騎が頼りだ。
前方に3万の敵、単于がいる。
他の1万騎を追いかけていったが追いきれなかった。どこかにいる。
単于は囮ではないのか。衛青はイヤな予感がした。
衛青は後退した。
しかし霍去病は敵にのまれた。例の1万だ。
衛青は霍去病の救出に向かう。
その時に衛青は肩を斬られた。
相手は17歳くらいだ。
衛青と霍去病は退却したが霍去病も2千のうち5百騎を失っていた。
追って追いきれなかった1万の軍は
夜の闇に消え、いつのまにか丘と原野の方々に潜んでいた。
そして衛青の首だけを狙っていた。
1万の兵を指揮していたのは呴犁湖(こうりこ)。単于の直轄軍だ。
衛青に斬りつけたのは17歳の頭屠(とと)だった。
匈奴にも有能な人物が現れてきている。
対峙している匈奴は十四、五万に増えていた。
霍去病の千五百騎は敵の後方に迂回した。
それが図に当たり衛青は勝利した。
ただ味方の損害も大きかった。
いずれまた闘うことになるだろう。
あの軍をどうやって相手にするか霍去病は考え続けていた。
そして霍去病にだけ恩賞が出た。
霍去病は5千の軍の将軍となった。