良太の人生U  りょう99@笠原良太(かさはらよしたか) 2014年5月作成

行間を直しました。2021/08/25


幼稚園の時に視力検査をしたら1番上しか見えませんでした。視力0.1です。
親に通知されあわてて眼医者にいくと白内障だとわかりました。
そこではじめて眼が悪かったことに気づいたのです。4歳だったと思います。
家族がよく言っていました。「こんなバカが生まれるとは思わなかった」と。
親は私にメガネをかけさせましたがただの凸レンズで何も見えませんでした。
久那小学校時代はあまり眼が悪くてもそれほどひどいいじめには会いませんでしたが
影森中学に入ると結構いじめられるようになりました。
しかしがんばって勉強して中一の三学期には学年で1番をとりました。
1番をとった頃にはよく女の子も話しかけてきてくれました。
しかしいつ頃だったかよく覚えてないのですが白内障が進行して
一番前の席でも黒板が見えなくてノートもとれませんでした。
中3の時にはもう黒板が見えなかったことを覚えています。
白内障は明るいと視力が落ちますが室内だと結構見えたので
中学で室内競技の卓球部に入りレギュラーに入り秩父郡で優勝することができました(団体戦)。
秩父高校に入ると教室が明るくて黒板は見えないし教科書もろくに見えませんでした。
影森中学の時は旧校舎で古い木造の暗い教室でした。
高校でも部活は卓球部に入ったのですがやはり眼が悪かったので
やめさせようとされてOBや先輩からひどいいじめにあいました。
秩父高校の卓球場には暗幕があったのが唯一の救いでした。結構見えました。
高校2年にあがる春休みに眼の手術を決意し卓球部をやめました。
しかし予約がとれなくて高校2年の夏休みに手術をしました。
先天性白内障の場合、弱視になっていて視力が出るかわからなかったのでためしに左眼だけ手術をしました。
コンタクトをすれば0.7くらい見えるようになりました。
眼内レンズは若いと入れてもらえないのでコンタクトをはずすと何も見えませんでした。
近くはコンタクトの上からメガネをかけないと見えなかったのですがよく見えませんでした。
コンタクトは運動したりするとすぐはずれるものだと思っていましたが意外に大丈夫でした。
修学旅行前に手術をして眼がよくなったのは良かったです。友達もできました。
しかし眼の手術をした頃にはもう勉強は落ちこぼれていました。
高校3年の12月に親父が山の急斜面で木を切っていて落ちて死にました。
そのため私は1浪しましたが夜学の大学に行きました。芝浦工業大学U部電気工学科です。
(高校を卒業してすぐ右眼の手術をしました)
親父が死んだときに保険がおりたのでなんとかやっていけそうでした。
パソコンの専門校に行きたかったのですがゲームの学校だと思われて行かせてもらえず
神奈川工科大学の情報工学科にも受かったのですが(補欠から)パソコンは絶対買ってくれないと
いわれていたのであきらめました。金もかかるし。。
神奈川工科大学に名前が変わり2年目で20倍とか30倍とか言われていました。
情報工学科もできて2年目でした。大学で情報工学ができはじめた時代でした。人気でした。
今考えると眼が悪かったので情報工学へ行ってもダメだったと思います。
パソコンを持ってなくていきなり情報工学へ入ってもついていけなかったでしょう。
電気工学科に入ったのですがそこもやはり眼が悪くて厳しかったです。
昼間はパソコンの専門校に行って夜は大学に行きたかったのですがそんなことは許してもらえず
昼間働き夜は大学へ通いました。
しかし朝何も食べないで仕事へ行き、お昼に会社の弁当を食べて
はずかしくて大学の学食へは行けず、夜10時半にアパートへ帰ってきてコンビニの弁当を食べる毎日でした。
その頃は土曜は休みじゃなくて。
いろいろなことがありましたがストレスもたまり2年で会社と大学をやめて秩父に帰ってきました。
挫折して秩父へ帰ってきたので寝込んで何も食べる気もしませんでした。
餓死しようと思ったのです。友達にもバカにされてリストカットもしました。
私は精神病院に入院しました。はじめに独房に入れられたのはかなりショックでした。
精神病院を退院して、読書をはげみ農業を手伝いました。家からはほとんど出ずひきこもりでした。
とても働ける状態ではなかったけど、母に「いつから仕事にいくんだい」っとよくイヤミをいわれました。
2年がたちました。大学を卒業する同級生が秩父で就職活動をはじめました。
それで私も働く気になって秩父の工場で働きはじめました。
しかし東京で働いていたっとか東京の大学に通っていたとかいっても頭がおかしいと思われるだけでした。
大学を中退したと言ったのがいつのまにか高校を中退したと思われてずっと中卒扱いを受けた気がします。
大学の成績表を見せた人がいるのですがABCDが成績だとわかってもらえず
単位なのですが成績が1と2ばっかりといいふらされる始末でした。
そんなわけで不遇な待遇を受けて失意のうちに会社をやめました。
しかし会社にいってるウチに視力も結構あがり車の免許もとれたし女の子とドライブもできました。
会社をやめたのも精神障害がひどくなったからもあります。不安障害がひどくなって。
薬をたくさん飲んで仕事をしていました。
それからも薬を飲みながらがんばって働こうとしましたがどこへいっても不安障害が出て短期間に仕事を変えました。
そんな時に雇用保険をもらっている最中に専門校に行けば勉強しながら雇用保険ももらえるという話を聞きました。
それで秩父高等技術専門校の2年制の機械テクノ科に入りました。いわゆる職業訓練校なのですが。
新校舎になり一期生でした。冷暖房完備のきれいな学校でした。不安障害もどこかへ行ってしまいました。
しかし校舎は良かったのですが人がイマイチでした。
秩父高校では悪い人はいませんでしたがやはり職業訓練校です。悪い人がいます。
私はまっさきに眼をつけられる方です。しかしなんとか卒業までがまんしました。
大学を中退したので専門校まで中退するとシャレにならなかったのでがんばりました。
不安障害も薬でなんとかしのぎました。資格とか結構とれたので良かったです。CADの資格とか。
しかしまた工場に就職したのですが毎日不安障害が出て薬をたくさん飲んでがんばっていましたが
結局工場をやめました。
薬をたくさん飲んでいたせいか急性緑内障になり防衛医大でレーザーでなおしてもらいました。
失明するかと思いました。処置が少し遅れていたらやばかったかもしれません。
白内障の手術をしたのも防衛医大ですがすごいですね。感謝しています。
そこでもう働けないなと思い精神障害者をとりました。
しかし精神障害者をとると悪い人だと思われてまた精神病院に入院しました。
退院するといっそう読書や農業にはげむようになりました。晴耕雨読を実践してみようかなと。
障害年金を月6万5千円くらいもらってます。2ヶ月おきに13万円くらいお金がおりるものです。
感謝の気持ちをこめてホームページで秩父の紹介とかしていたつもりでしたが好評ではなかったようです。。
40歳頃(2010年頃)に後から眼内レンズを入れる手術が出来て少し楽になりました。
それまでコンタクトを入れっぱなしというのもかなり厳しかったです。
眼が悪かったので同級生や近所の人や親戚の人の顔がわからずあいさつもできず孤独です。
失顔症になっていて人の顔が覚えられない。もう街へ出かけても知り合いはいないものだと思っています。
あまり障害者をいじめないで下さい。私が飲んでいる薬は精神安定剤です。。。