「群雲(むらくも)、関ケ原へ」 読書記録 りょう99@笠原良太(かさはらよしたか)
上下2巻 岳宏一郎(たけこういちろう)著 新潮文庫
下から書いてます。
■2021年8月27日(金)
「群雲、関ケ原へ 下」 岳宏一郎著 新潮文庫 読破
上杉征伐で大阪から東へ向かった家康は
うまいことに豊臣側の武断派武将たちを取り込むことができた。
家康が江戸から栃木あたりまでいったのかな。
そこで西から石田三成が兵をあげた。
大阪城には毛利輝元1万5千が入ってくれた。
毛利は山陰山陽8カ国をもっていて100万国をゆうに越えていた。
毛利輝元の他にも吉川や小早川は毛利の一族かな。
西軍の数は10万を越えたという。
しかし東軍の家康の所領は250万国。家康の領地だけでも3・4万人はいる。
豊臣家の武将たちも味方にしている。
家康は東海道を通って関ケ原を目指したのかな。
家康の息子の秀忠は中山道を通って関ケ原あたりで落ち合う約束だった。
しかし秀忠ら4万を真田昌幸・幸村親子は上田城で何日も足止めした。
秀忠は関ケ原の戦いに間に合わなかった。
真田も西軍が勝ったと思ったに違いない。
上杉も西軍が勝ったと思ったろう。
上杉が家康の留守に江戸まで攻め込めば面白かったけど無理だったかな。
小競り合いもあったが西軍と東軍は関ケ原で雌雄を決した。
突進してくる家康を西軍は鶴翼の陣で取り込もうとしたが、
翼の部分の山の上に陣取った西軍は日和見を決め込んだ。
ついに日和見をしていた小早川秀秋1万5千の裏切りによって東軍の勝利が決まった。
小早川秀秋は秀吉に筑前50万石から越前北の庄15万国に減封されてしまった。
そこへ5大老の家康がとりなして小早川秀秋を筑前にもどしてくれた。
秀秋は豊臣秀吉に恩はなく家康に恩があった。
だから関ケ原の戦いで裏切ったのは当然のことで悪口を言われるゆえんはないのだ。
っというわけで関ケ原の戦いはたった1日で東軍の家康の勝利に終わった。
関ケ原の戦いは半日で終わったと書いてある本も多い。
大阪城にいて戦いに参加しなかった毛利輝元は、本領を安堵するからといわれ
大阪城を立ち退いたが、所領は8カ国から2カ国(山口県・長州)に減俸されてしまった。
この時の長州の恨みが幕末に爆発する。
司馬遼太郎さんの関ケ原も面白いし、城塞まで読むと面白い。
真田太平記も面白いです。
■2021年8月22日(日)
「群雲(むらくも)、関ケ原へ 上」 岳宏一郎(たけこういちろう)著 新潮文庫 読破
670ページくらいあって読むのに時間がかかりました。
司馬遼太郎さんの関ケ原もおもしろかったですが、
この本も結構おもしろいです。
上下2巻ですがページ数が多いので全4巻くらいにして欲しかった。
豊臣秀吉の晩年から書いてありますが
朝鮮出兵のさなか幼い秀頼を残して秀吉は死んでしまった。
五大老、五奉行の制度を整えて秀頼をもりたてて欲しいと
秀吉は願ったが、徳川家康が天下取りに動き出した。
秀吉も織田家から天下を奪った。
家康が豊臣家から天下を奪ってももんくはいわれないであろう。
力が正義の時代だった。
あくまで豊臣家を守ろうとしたのが石田三成であって、
家康は力のある者が天下をとるのが当然だと思っていた。
会津の上杉が戦いの準備をはじめた。
家康は上杉の討伐に東へむかった。
そこを西から石田三成が兵を上げた。
西側の筆頭には毛利がついてくれた。
これで戦いの準備は整った。
関ケ原の戦いがはじまる。
どちらがはめたのかはよくわからない。
どちらも思い道理にことがすすんだんだと思う。
関ケ原の戦いは何度も書いているので
いつも同じようなことしか書けないけど
朝鮮出兵のおりの小西行長のことが書いてあって結構わかった。
小西行長のことが書いてある小説ってあまりないんだよね。
歴史の教科書では石田三成と小西行長がセットで出てましたね。