項羽と劉邦 読破 2023年10月17日(火) りょう99@笠原良太(かさはらよしたか)
「項羽ご劉邦」 全三巻 司馬遼太郎著 新潮文庫
下から書いてます
■2023年10月17日(火)
「項羽と劉邦 下」 司馬遼太郎著 新潮文庫 読破
劉邦は関中から出て項羽と戦った。
劉邦は秦の国が作った穀物を入れて保存していた穴倉を
占拠して籠城のような感じで戦っていた。
劉邦を攻撃する項羽たちは飢えてきた。
彭越(ほうえつ)という者が項羽の補給線をゲリラ活動で断ち切っていたのだ。
韓信はというと別行動で北方で次々と勝ち勢力を拡大していた。
韓信の背水の陣とか前に書いたので省略する。
韓信も凄かったと思うのだが項羽とは最後の戦いまで戦っていない。
劉邦は負けても負けても項羽と戦っていた。
何度か関中に帰り、北方の韓信の所まで逃げて韓信から兵をもらったりした。
そう、項羽は飢えてきた。
劉邦と項羽は和睦してお互い退却することになった。
しかし劉邦は退却する項羽を追った。
張良がこの機会を逃すと二度と項羽には勝てないと献策したのだ。
しかし飢えても項羽は強かった。
劉邦は負けて小城に籠城した。
しかし項羽も飢えには勝てず彭城まで退却しようとした。
そこへ三十万の韓信軍がやってきた。
黥布や彭越もやってきた。
項羽の兵は十万くらいいたのだけどどんどん減っていった。
項羽は垓下という所で陣地を造り戦っていた。
ある夜、四方から楚の歌が聴こえてきた。
項羽はこうも我が兵がおびただしく漢に味方をしたかっと最後を悟った。
項羽は虞美人を刺し、韓信の軍を突破して逃げた。
船がある。渡れば楚の国だ。
だが項羽は楚の国の人に合わせる顔がないとここで最後となった。
天が我を滅ぼそうとしているのだ。
■2023年10月16日(月)
「項羽と劉邦 中」 司馬遼太郎著 新潮文庫 読破
秦の本拠、関中。
劉邦は項羽より先に関中に入った。
劉邦は張良のいさめによって略奪とかしなかった。
関中の人たちは皆が劉邦に関中王になって欲しいといった。
項羽は秦の兵に勝った時に20万の秦兵を穴埋めにしてしまったのだった。
そういうこともあり劉邦は函谷関を閉ざして項羽をはばんだ。
項羽は函谷関を破り関中に入ってきた。
劉邦は項羽と戦ってもとても勝てない。
劉邦はコウ門の会で項羽にわびて蜀の国に送られることになった。
蜀の国は道が険阻で罪人が送られる所で
もう劉邦は蜀の国で一生を終えることになるだろうと思われた。
項羽は首都を関中におかず略奪をすませると彭城(楚の国かな)に帰っていった。
勝った者の兵士たちがその国で略奪をするのは当時は当たり前だったかもしれない。
それが楽しみであり士気もあがる。
しかし項羽は秦、関中の人たちに恨まれた。
皆、劉邦がまた出てくることを望み劉邦は蜀から関中に出てきた。
そして劉邦は関中から討って出てきた。
彭城についた時、劉邦の兵はふくれあがり五十数万になっていた。
しかし斉の国だったかに制圧に出ていた項羽は三万の兵で彭城を奪い返した。
劉邦は逃げた。
劉邦についた五十数万の者たちもだいたいが項羽に降伏してしまった。
劉邦は弱く、項羽は強い。
しかし劉邦には関中で後方支援をして新兵を送ってくれる蕭何(しょうか)がいる、
あの張良もいる、はじめは項羽についていたあの韓信や黥布や陳平がいる。
戦えば必ず負けていた劉邦も最後の垓下の戦いで勝って項羽を破り、
漢帝国を建国することになるのだ。
こうご期待。
■2023年10月10日(火)
「項羽と劉邦 上」 司馬遼太郎著 新潮文庫 読破
秦の始皇帝は始めて皇帝を名乗った。
始皇帝は皇帝の威厳を見せるために各地を巡行した。
始皇帝を見た劉邦は言った。
「大丈夫、マサニカクノ如クナルベキナリ」(男はこうなきゃだめだ)
始皇帝を見た項羽は言った。
「彼取ッテ代ルベキナリ」
始皇帝は過酷な労働を民に強いた。
そのため始皇帝が亡くなると各地で暴動がおきた。
陳勝・呉広の乱が大きかった。
劉邦や項羽も兵を挙げたが
陳勝・呉広の乱は秦の軍に鎮圧されてしまった。
項羽とおじが立てた楚王の血筋の懐王は言った。
「最初に関中に入った者を関中王にするであろう」っと
項羽は秦軍と戦いながら正面から関中を目指し、
劉邦は別動隊として関中を目指した。