新史太閤記 読書記録 2025   りょう99@笠原良太

新史太閤記 上下2巻 司馬遼太郎著 新潮文庫 読破 

2025年11月29日(土)

下から書いてます


■2025年11月29日(土)

「新史太閤記 下」 司馬遼太郎著 新潮文庫 読破

信長が明智光秀の謀反によって倒れた。
何故、明智光秀が謀反を起こしたかはこの本には書いてなかった。
その時、秀吉はどうしたかっということが書いてあったのみだ。
秀吉は毛利の備中高松城を水攻めにしていた。
秀吉は訃報を聞き、すぐ毛利と和睦して中国大返しをおこなった。
誰も明智光秀も毛利と戦っていた秀吉が戻ってくるとは思わなかった。
柴田勝家は北陸で上杉と戦っていて、
滝川一益は群馬あたりを拠点にして北条と戦っていた。
秀吉は四国に渡ろうとしていた丹羽長秀と織田信孝と合流して、
天王山あるいは山崎の合戦で明智光秀に勝った。
秀吉が明智光秀に勝ったからといって簡単に天下は秀吉のものにはならなかった。
織田家相続争いで清須会議が開かれた。
織田家では長男の信忠も亡くなってしまったので
織田家継承者には信孝、信雄、信忠の長男の3才の三法師などがいた。
織田家筆頭家老の柴田勝家は織田信孝を推した。
一方、明智光秀を破り天下を自分のものにしたい秀吉は三法師を推した。
光秀を破った功績の大きい秀吉の意見が通り三法師が織田家を継ぐことになった。
三法師を抱いた秀吉が出てきて三法師あるいは秀吉に皆が頭を下げることになった。
皆、居城に帰っていった。
柴田勝家は信孝のすすめで市姫を妻にもらった。
秀吉は悔しかっただろうが市姫の娘の茶々(淀君)を自分のものにして満足しただろう。
秀吉は柴田勝家を賤ケ岳の戦いで破り勝家は自分の城で市姫とともに自害した。
前田利家の娘と市姫の三人の娘は助け出された。
柴田勝家も人質をころすようなことはしなかったのはさすがに筆頭家老だと思った。
賤ケ岳の戦いで柴田勝家派の前田利家は退却してしまい戦闘には参加しなかった。
前田利家と秀吉は美濃時代から長屋が隣同士だったりして仲が良く、
利家の妻まつと秀吉の妻ねねも仲が良かった。
利家はこれで秀吉から加賀100万石をもらった。
加賀では一向一揆が激しく100年間くらい百姓の持ちたる国になっていたかな。
利家も苦労したんじゃないかと思う。苦労したのは柴田勝家かもしれないが。
その後、織田信雄は信孝を追い込んで切腹させ、家康に助けを求めた。
ここに秀吉vs家康の小牧、長久手の戦いが始まる。
秀吉は中入りといって敵の本拠を奇襲する作戦に出たが、
小牧山を密かに出た家康は中入りした秀吉軍を全滅させてしまった。
秀吉が気づいた時には家康は小牧山に戻っていた。
完全に秀吉は家康に負けた。
ところが織田信雄は秀吉に本拠の伊勢を攻められ和睦してしまった。
家康は戦う意義を失い退却した。
ひと悶着あったが秀吉は家康に官位を贈ったりした。
家康は於義丸を人質に送ったが上洛はしてくれなかった。
於義丸はのちの結城秀康である。
秀吉は妹の44歳の朝日姫を離縁させて家康の元に妻として送ったが
それでも家康は上洛してくれない。
秀吉は自分の母を家康の元に送り、やっと家康が上洛してくれた。
秀吉は会見の前の日に家康の元に行き、
明日は尊大な態度をとるが慇懃な礼をしてもらいたいと頼んだ。
家康ほどのものも秀吉に頭をさげれば皆も秀吉に心腹するというものだ。
家康もここまででてきた以上は承知した。
その会見で家康は秀吉にその陣羽織を賜りたいと申し出た。
もう戦いは私に任せて下さい。秀吉様にもう苦労をさせませんと。
これも秀吉がしくんでおいた演技だったのだが。
家康が上洛してくれたところでこの本も終わっています。

    

■2025年11月23日(日)

「新史太閤記 上」 司馬遼太郎著 新潮文庫 読破

秀吉の名前は日吉、木下藤吉郎、羽柴秀吉、豊臣秀吉などあるのだが
統一して秀吉で書こうと思う。尾張の生まれだ。
秀吉の父は織田に使える足軽だったが若くして死んでしまい、
秀吉の母は竹阿弥(ちくあみ)と再婚し弟、秀長を生んだ。妹は誰の子だったかな?
秀吉は竹阿弥とはうまくいかず寺にあずけられた。
寺では読み書きそろばんを習ったのかもしれない。
秀吉は寺ともうまくいかなかったのか、
父が残してくれたお金を針にかえ針売りなどをして
美濃や東海などをまわったらしい。
秀吉は尾張の信長がうつけと聞いて、
その頃評判が良かった今川家の松下嘉兵衛(かへえ)という人の屋敷に仕えた。
でも秀吉は仕事ができすぎるのでいやがらせを受け尾張に帰る。
尾張に戻ると信長に士官した。っといっても父の後を次いで足軽になった。
でも秀吉は信長様に仕えたいと信長の草履取りなどをしたようだ。
その頃に今川義元が上洛戦をしかけてきたのだろうか。
尾張の砦を次々に落とし破竹の勢いだった。
だが今川義元は太っていたり足が短かったため馬にはのれす駕籠を使った。
駕籠にもずっと乗っていることはできず休みも多かった。
今川義元は桶狭間で休んでいるという。
信長は城を飛び出した。一気に桶狭間を急襲し今川義元を討ち取った。
ちょうど雷雨があったと伝える本もある。
第一の手柄になったのは今川義元を討ち取った者ではなく、
今川義元が桶狭間で休んでいると伝えた人だった。
この時、家康は今川の人質にされていたが今川の武将が退却してしまったので自分の岡崎城に入れた。
信長と家康はこの時同盟を結んだ。
秀吉がねねと結婚したのもこの頃だろうか。ねねはまだ13歳だった。
ねねは浅野家の養女で秀吉はよく浅野家の世話になっていたようだ。
秀吉はメシの煮炊きをする木材の奉行を勤め成果を上げたり、
城の石垣が崩れたので秀吉が奉行をまかされ成果を上げたりした。
秀吉が弟の秀長を呼び寄せたのもこの頃かもしれない。いつ頃だろう?
信長は美濃を取ろうとするがいつも撃退されてしまっていた。
川向うの墨俣に城を築こうとするが誰もできなかった。
ここで秀吉に出番がまわってきた。
秀吉は墨俣に城を築くことに成功した。
秀吉は放浪していた頃に知り合ったのか蜂須賀小六などの野武士を
うまく使ったといわれている。
それから秀吉は美濃の武将の調略に成果を上げたとされている。
竹中半兵衛なども秀吉の軍師となった。
ついに信長は美濃を取った。美濃を岐阜と改めた。
その頃、落ちぶれた室町幕府将軍足利義昭が信長を頼ってきた。
明智光秀が仲を取り持ったといわれている。
近江の浅井家に妹のお市を嫁がせた信長は一気に京を占領してしまった。
足利義昭は信長に副将軍になってほしいと頼むが断られる。
信長は何の官位も望まなかったが堺などの街の支配権をもらった。
信長は越前の朝倉領に攻め込んだが浅井にそむかれ退却した。
しんがりを秀吉が勤めた。家康の退却も遅かったので一緒にしんがりを勤めたようだ。
姉川の戦いでは信長家康が浅井朝倉を破った。
秀吉は浅井の攻略をまかされついに浅井の城を落としお市と茶々など3人の娘を救出した。
信長は近江20万石を秀吉にまかせた。
武田信玄が亡くなったのはいつ頃だったかな。
信長は長篠の合戦で武田勝頼の騎馬隊を鉄砲の力で勝利しました。
脅威だった上杉謙信なども卒中で亡くなってしまった。
秀吉は毛利攻めをまかされていて、黒田官兵衛を軍師に迎えた。
黒田官兵衛は大変苦労したようだ。敵城の地下牢に1年間くらい入れられたり。
信長は黒田官兵衛が裏切ったと思い子供を殺す命令を出したが、
竹中半兵衛は殺したといつわって保護した。
竹中半兵衛も病気がちで亡くなってしまった。