読書記録 2026年1月から りょう99@笠原良太(かさはらよしたか)
NHK大河ドラマ豊臣兄弟をおもしろく見るために秀吉の本を読んでいます。
■2026年3月16日(月)
「織田信長 2 桶狭間の巻」 山岡荘八著 講談社 読破
うつけと呼ばれた信長ではどうしようもない。
弟の信行に家督を継がせたい柴田勝家らは信長に謀反を起こした。
ところが信長は柴田勝家をさんざんなめに会わせこてんぱんにした。
信長が川遊びを良くしていたのもガキ大将たちと戦争ごっごばかりしていたのも遠乗りをよくしていたのも
今日のような実践に備えたものだったのだ。
柴田勝家はさんざんやられて信長の真価を知った。
うつけなどではなかった。神だ。柴田勝家は頭をそり坊主姿になって猛反省して信長にわびた。
しかし信行は反省もせず信長暗殺のことばかりを考えていた。
そのうち信長が病気だか怪我をして寝たきりだと伝わってきた。
信行は信長の元に病気見舞いに行った。もちろん刺すために。
しかし信長は仮病で信行をころしてしまった。
これで織田家相続争いは治まった。信長が家督を継いだ。
そのうち駿府の今川義元が上洛戦を起こしてきた。
尾張の信長はうつけと聞いて余裕ぶっこいて4万の兵で攻めてきた。
信長の兵は4千あまりだが砦に兵を出しているので動けるのは2千くらいか。
信長は籠城と見せかけるために台所奉行の秀吉に三河の方まで味噌買いに走らせた。
また信長と秀吉は祭りがあると踊りに繰り出した。
踊りのうまいものに布を与え、蜂須賀小六の野武士などに協力を求めた。
尾張の砦に今川勢が攻めてきた、松平元康(家康)も大高城を攻めて落としたのかな。
今夜は今川義元が大高城に泊まると聞いた信長はほら貝を吹かせて出陣した。
秀吉が信長の馬のくつわを取り熱田神宮に走った。
2千人くらい集まっただろうか。
そこへ今川義元が桶狭間で休んでいると情報が入った。
土地のものが新たな制圧者に米、食料、酒などをもってきたのだ。
蜂須賀小六の野武士がうまくやったものだろうか。
信長は狙うは義元の首一つと桶狭間を奇襲した。
服部子平太が一番槍をつけ毛利伸介が今川義元の首をあげた。
義元が倒されると今川軍は皆逃げて退いてしまった。
いたるところで祭りの踊りの時に渡した布が織田の旗として上がっていたのかもしれない。
この時岡崎城にいた今川の武将も逃げてしまい家康がやっと自分の岡崎の城に入れた。
この後、信長と家康は同盟を結び協力していくことになる。
一番手柄は桶狭間で義元が休んでいると知らせた梁田政綱で、
二番目が一番槍をつけた服部子平太で三番目が義元の首をあげた毛利伸介だった。
その後、信長は京に上り禁裏を訪ね、室町幕府将軍足利義輝に会った。
京はシ臭が漂いシ体が放置されているようなところだった。
公家や帝が貧しい生活をしていることを知った。
信長は天下を統一して京をキレイにして帝の生活も良くする目標を立てる。
秀吉は堺で400丁の鉄砲を買い付ける。
■2026年3月14日(土)
「織田信長 1 無門三略の巻」 山岡荘八著 講談社 読破
うつけと呼ばれた信長がうつけでないとわかってくる様子がおもしろいです。
少女たちに相撲をとらせ、子分たちと畑の瓜を食い散らかしていく信長だった。
うつけなどなんとでも言え、自分の力で城一つくらい取れると思っている信長だった。
ただのうつけで終わるか天下を取るか。
信長の父信秀は結構若くしてしんでしまった。信長が家督を継いだ。
信秀の葬式の時、信長は信秀の位牌に香を投げつけ出て行った。
織田の家臣たちはあんなうつけではどうしようもない、弟の信行を立てるべきだと言った。
信長の守役の平手政秀は信長を諫め自刃してしまった。
平手政秀は信長に味方してくれていた唯一の人だった。
また信長は美濃のマムシの斉藤道三の娘を嫁にもらっていた。濃姫だ。
マムシの道三も信長の人物を認め美濃を信長にくれてやることになるだろうと言った。
しかし道三もせがれの義龍の謀反にあいしんでしまった。
信長も美濃に兵を出すが道三を助けることはできなかった。
道三がしに濃姫の価値もなくなり子供も生まなかったので、
信長は子供が欲しいと一度に妾を三人持った。
市場の針売り(秀吉)から竹千代に今川の嫁をもらって子供ができたことを聞いたのだった。
竹千代(家康)は尾張の人質になっていて捕まった信長の兄信広と捕虜交換をしたのだった。
家康は今度は今川の人質になってしまっていた。
信長は尾張を統一するのに苦労していた。
信長と行儀の良い弟の信行との対立が大きくなっていった。
柴田勝家などが信行側についていた。
■2026年3月13日(金)
「秀吉 夢を超えた男 下」 堺屋太一著 NHK出版 読破
秀吉は信長が本能寺で明智光秀の謀反にあったことを知り、
毛利にばれる前に和議を結び明智光秀を討つために近畿に戻ってきた。
織田家はばらばらになっていたが秀吉の元へ集まってきた。
四国に渡ろうとしていた丹羽長秀と織田信孝とも合流できて光秀と戦って勝てた。
光秀は落ち武者刈りにあってしんだといわれている。
柴田勝家は上杉と戦っていて、滝川一益は群馬で北条と戦っていて、
甲信では一揆がおこって無法地帯となっていた。
徳川家康はこの機に甲信を手に入れた。
織田家相続争いで秀吉は柴田勝家に賤ケ岳の戦いで勝って有利になった。
しかし織田信雄は家康に援護を求めて小牧長久手の戦いで秀吉は家康に敗れる。
ここで秀吉は伊勢の織田信雄を攻め和議を結んだ。
家康は秀吉と戦う名分がなくなり手を引いた。
なんとか家康を服従させたい秀吉は結婚していた朝日を離縁させて家康の妻にした。
それから母も家康の元におくりやっと家康に上洛してもらった。
家康は臣下の礼をとってくれた。
これで秀吉は九州まで制圧して関東の北条も滅ぼし会津まで行き東北も制圧下に置いた。
1590年に秀吉は家康を東海甲信から関東に移した。
三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の5か国1
1569年に武田信玄に焼かれた秩父神社を1592年に家康が再建してくれた。
この頃に弟の秀長がしんでしまった。
秀吉は千利休も切腹させた。
シンプルなわびさびに徹した千利休の茶道と組み立て式の黄金の茶室を作った秀吉は合わなかった。
日本を統一した秀吉だがもう家臣に褒美で渡す土地がない。
平和になり士族もいらなくなりその不満を外征に向けるため朝鮮に出兵した。
明治維新の時も徴兵制ができて士族の不満を外征に向けるために征韓論がおこった。
秀吉は朝鮮は明まで道案内してくれて簡単に明を制圧できると思っていた。
大きな間違いだった。
秀吉とお市の娘淀殿(茶々)に子供が生まれ一人目は2歳でしんだが二人目も生まれた。秀頼である。
秀吉は何度も五大老の徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家に誓紙を書かせ
秀頼を頼むといって亡くなった。
秀吉が織田家を立てなかったように秀頼にも天下がまわってくることはなかった。
秀吉に商売の仕方や帳簿のつけ方を教えてくれたがんまくこと石川五右衛門はつかまり釜茹での刑になった。
■2026年3月6日(金)
「秀吉 夢を超えた男 中」 堺屋太一著 NHK出版 読破
朝倉の元にいた足利義昭が信長を頼ってくると、
信長はあっという間に上洛して京を占領してしまった。
近江の浅井長政にお市を嫁がせていたこともうまくいった。
京では足利義昭のために二条城を作ってやったのかな。
朝廷の方にも献金してやったり館を作ってやったようだ。
室町幕府将軍に返り咲いた足利義昭は信長のことを父のように思うと言った。
義昭は信長に副将軍についてもらいたいと言ったが信長は受けなかった。
信長は堺などの支配権だけもらった。
商業に眼をつけていたのは信長だけだった。
それから信長は越前の朝倉に攻め込んだが、
近江の浅井長政に背かれ信長は退却した。
この時秀吉はしんがりをつとめが無事京に帰れた。
秀吉の株は上がった。
浅井朝倉と姉川の戦いとなるが徳川家康のおかげで勝てた。
そして武田信玄が上洛戦をしかけてきた。
徳川家康の領地を通っていく、家康は果敢にも信玄を攻めたが惨敗してしまった。
信長も3千の兵しか送ってくれなかった。
しかし武田信玄は病気で亡くなってしまい武田軍は退却した。
信長は信玄や浅井朝倉に信長を討てと手紙を書いていた足利義昭を追放した。
ここに足利幕府は終わった。
信長は浅井朝倉軍が逃げ込む比叡山を焼いた。
そして朝倉を滅ぼし浅井も滅ぼした。
浅井長政に嫁いでいたお市と3人の娘たちは保護された。
秀吉は北近江12万石をもらって大名へと出世した。
琵琶湖の東の今浜を長浜と改め城を築いた。
その城には琵琶湖の船を引き入れることができた。
また近江の国友村には鉄砲を作れる鍛冶がいて量産させることにした。
そして長篠の戦で鉄砲の力で武田勝頼を破った。
家康にとってはやっと信長が援軍に来てくれた。
しかし信長は家康の妻と長男信康に謀反の疑いがあるところさせた。
妻と信康には今川の血が流れていたので無理もない。
信康に嫁がせた信長の娘徳姫ともうまが合わなかったようだ。
次に脅威となったのは上杉謙信だった。
信長は安土城を築いて守りの要としたが上杉謙信は卒中で死んでしまった。
あとは大阪の本願寺が残るのみとなったが
早くから信長についていた摂津の荒木村重が謀反を起こした。
秀吉の軍師黒田官兵衛が説得にいくが1年間も地下牢に入れられた。
荒木村重の部下が本願寺に兵糧や武器をまわしていたのだ。
それが発覚したので信長を裏切るしかなかった。
また毛利の水軍が瀬戸内海の制海権をにぎっていて本願寺に物資を入れていた。
信長は最初の水軍の戦いで敗れたが鉄甲船を作り毛利水軍を撃破して制海権を得た。
これにより荒木村重は城から逃亡して黒田官兵衛は助けだされた。
本願寺も大阪を退いた。伊勢の一向一揆にも苦労したものだ。
そして秀吉が毛利と戦っていて備中高山城を水攻めにしていた時に信長の訃報が届いた。
本能寺で明智光秀の謀反によって信長がころされたのだ。
■2026年3月2日(月)
「水鏡推理 Vlll マイクロプラスチック」 松岡圭祐著 角川文庫 読破
この本の世界ではマイクロプラスチックの被害が、
花粉症のように大きな広がりを見せていた。
実際に私もマイクロプラスチックはそれ以上分解されずに、
魚や人体に蓄積していくと聞いたことがある。
それで本の世界ではマイクロプラスチックが排出されるというアプリが広まっていた。
しかしそれは皆インチキくさいアプリで体を悪くする人が現れた。
また体内洗浄クリニックなどが盛んになりそこでも施術ヵ所が悪化する人が現れた。
ヒロイン水鏡瑞希は文科省の科学技術・学術政策局研究環境課、研究公正推進室という部署のホープ。
水鏡瑞希はアプリがインチキなことを証明してインチキな施術をしていることを突き止め、
警察に突きだすことができた。
っという理解で合ってるかな。。
■2026年2月28日(土)
「秀吉 夢を超えた男 上」 堺屋太一著 NHK出版
尾張(愛知県かな)でサルと呼ばれた少年(秀吉)は、
義父とうまがあわず家を飛び出した。
父が残してくれた銭を針に変え各地をまわったようだ。
がんまくという者が教えてくれたものだ。
また今川領の松下嘉兵衛というものに仕えたが
納戸役までいったが尾張者だったり体が小さかったりしてせいで
いじめられて暇をもらって尾張に帰ってきた。
秀吉(木下藤吉郎)は信長に士官したいと思った。
またがんまくがとりもってくれて信長に士官を果たした。
がんまくはのちの石川五右衛門であった。
秀吉ははじめは柴薪奉行を勤めた。
帳簿のつけ方をがんまくが教えてくれた。
米を炊くにも薪がいる。秀吉は使い終わった火を消してまわって
焼け残った炭や木を持って行ったようだ。
信長も焼け残った木を見てサルもやってるなと思ったようだ。
当時は火をつけるのが大変で火種を管理する人が決まっていればいいと私は思った。
また蜂須賀小六などの川浪衆を使って柴や薪を安く買い占めたようだ。
蜂須賀小六などの仲を取り持ってくれたのもがんまくだったかな。
2年くらい柴薪奉行を勤めた秀吉を信長は気に入り草履取りにしてくれた。
草履取りになると各武将たちとも会う機会が増え情勢を聞いたりできたようだ。
馬に乗った信長についていくのも大変で他の従者に遅れないようについていけば良いとおもったようだ。
それから秀吉は足軽になり、やっと士分に取り立てられた。
戦いは一人で飛び出すのではなく槍衾をつかって団結することが大事だった。
今川義元が上洛戦を起こしてきたのはこの頃だろうか。
今川義元は前線の勝利を受けて余裕しゃくしゃくで尾張に近づいてきた。
信長はこの時を待っていた、ほら貝を吹き一気に出陣した。
うまく前線にたどり着いた信長はそこで梁田政綱の細作が
今川義元の本陣は桶狭間に向かっているという確かな情報をもたらした。
2万5千人の今川義元も各地の砦に兵を送っており、本陣には5千人くらいがいるだろうか。
信長の兵は2千5百くらいだ。勝ち目はある。
信長が今川義元の本陣に殺到した時には義元はもう逃げ支度をしていた。
服部小平太が一番槍をあげ、毛利新介が義元の首を上げた。
大勝利だ。逃げる今川勢を追って信長軍は皆たくさんの首をあげたようだ。
義元の首を上げた毛利伸介は500貫を加増で、
義元に一番槍とつけた服部子平太は1000貫の加増で
一番の褒美は義元の居場所を教えた梁田政綱で3000貫の加増を受けた。
このあと秀吉は組頭となり丹羽長秀のもとについた。
組頭になったので弟の小一郎秀長を呼び寄せて家来にした。
また組頭になったのでおねとの結婚もできた。秀吉25歳、おね15歳。
お城の崩れた石垣をなおしたのはこの頃だったかな。秀吉の手柄になった。
信長は美濃(岐阜)を攻略するため小牧山に城を移した。
秀吉は川向うの美濃領の墨俣に城を築くことに成功した。
そして博識高い竹中半兵衛を秀吉は三顧の礼で軍師に迎えた。
竹中半兵衛は西美濃三人衆の安藤守就の娘の婿だったことから
西美濃三人衆の安藤守就、氏家卜全、稲葉一鉄は信長についた。
あとは稲葉山城を落とすだけとなり斎藤龍興は降伏して美濃から追放された。
信長は美濃を岐阜と改め天下布武をかかげた。
稲葉山城は岐阜城となって信長の本拠となった。
そこへ越前の朝倉を頼っていた名ばかりの室町幕府将軍足利義昭が
信長に頼りたいと明智光秀をつかわせてきた。
信長はこころよくそれを受けた。
■2026年2月23日(月)
「新太閤記 4」 海音寺潮五郎著 文芸春秋 読破
賤ケ岳の戦いで敗れた柴田勝家はお市とともに自害した。
お市の3人の娘たちは秀吉の元へおくられ保護された。
長女の茶々は秀吉の妻となり、次女は名家京極家に嫁ぎ、三女は徳川秀忠に嫁いでいる。
柴田勝家を滅ぼした秀吉は天下人に近づいた。
しかし織田信雄は家康に援護を求めた。
秀吉vs家康の小牧・長久手の戦いが始まった。
家康は小牧山に陣取り地の利を得た。
秀吉に家康の本拠三河を突きたいと中入りを申し出た武将がいたが、
家康に早くに気づかれ全滅してしまった。
秀吉が家康を追おうとしたがどこの城に入っているかわからず
気づいたときには小牧山に戻っていた。
秀吉が負けた戦いだった。
だが秀吉は織田信雄の本拠伊勢を攻め信雄と和議を結んでしまった。
家康は戦う大義がなくなり引き上げた。
秀吉は家康の官位を上げたりしてさんざん家康のきげんをとったが家康は上洛してくれない。
秀吉は結婚していた妹の朝日を離縁させて家康の妻に送り、
また秀吉の母に朝日を見に行ってくれと家康の元に送りやっと家康に上洛してもらった。
家康は上洛したからには秀吉に仕えた。
秀吉は家康が上洛してくれたので東の恐怖はなくなり九州まで制圧してしまった。
それから東に転じて小田原の北条を攻めた。
秀吉は北条を滅ぼすと東海甲信の家康を関東に移した。1590年だったかな。
秀吉はできるだけ大阪、京から遠くにやりたかったようだが、
家康はうまく治めて江戸時代が来ることになる。
1592年に家康が秩父神社を再建してくれた。
ちなみに日光東照宮は家康を祭って作られた神社です。
秀吉の弟小一郎秀長は1591年に亡くなったようだ。
しかしこの頃秀吉と淀殿(茶々)の間に子供が生まれた。鶴松だ。
しかし鶴松も3歳くらいで亡くなってしまった。
それがきっかけだったか秀吉は朝鮮出兵をした。
また日本が治まって士族の不満を外に向けるためともされる。
朝鮮の2皇子をつかまえたが、明(中国)から援護が来るとあやしくなってきた。
陳舜臣に船を沈められていたのも痛い。
秀吉は和睦に応じたが、「汝を日本国王となす」っという手紙に激怒して
2回目の朝鮮出兵を行なった。
そしてまた淀殿が秀吉の子を生んだ。秀頼である。
秀吉は何度も家康や前田利家などに誓書を書いてもらって秀頼を頼むと頼んだが、
織田家を秀吉が奪ってしまったように豊臣家を家康は滅ぼしてしまった。
秀吉がしに朝鮮出兵は終わった。
秀吉の辞世の句は
露とおち露と消えぬるわが身かな なにわのことは夢のまた夢
■2026年2月20日(金)
「新太閤記 3」 海音寺潮五郎著 文芸春秋 読破
織田軍を破って上洛しようとしていた上杉謙信が卒中でしんだ。
一番の危機から脱した信長は本願寺も大阪から退去させることができた。
それから武田勝頼を滅ぼしたのかな。
信長は甲信を手に入れ群馬の前橋に滝川一益を置いて北条と戦っていた。
西は秀吉が毛利と戦っている。
信長のいる近畿は大分安全地帯となった。
信長は家康を安土城に呼んで接待していた。
そこへ毛利と戦っている秀吉から援護に来てくれと連絡が入った。
家康の接待をしていた明智光秀は接待役をはずされ秀吉の援軍に行くように命ぜられる。
信長は本能寺に泊まり、家康は大阪、堺などの見物をしていたようだ。
そこへ1万5千の兵力を持った明智光秀は京で信長に馬ぞろえを見せるなんたらといって京に向かう。
前日、明智光秀が歌った詩は「ときは今、あめが下しる五月(さつき)かな」だった。
明智光秀は敵は本能寺にありと言って信長に謀反を起こした。
二条城に泊まっていた嫡男の信忠とともに光秀にころされた。
大阪見物をしていた家康は伊賀越えでやっと三河に帰った。
毛利領の高松城を水攻めをしていた秀吉にも訃報が入った。
軍師の黒田官兵衛は「運がひらけてきましたぞ」みたいなことを言った。
秀吉は毛利に訃報が伝わる前に毛利と和睦して急いで東へ走った。
秀吉が戻ってくるとばらばらになってた織田軍が集まってきた。
丹羽長秀と織田信孝と合流し、山崎の合戦で明智光秀を破った。
明智光秀は逃亡中に落ち武者刈りにあってしんだといわれる。
光秀の首だと持ってきた人があったが果たして本物の首だったろうか。
織田家相続争いがはじまった。清須会議が開かれた。
信孝を推す柴田勝家と信忠の子三法師を推す秀吉。
光秀を破った秀吉の主張が通り三法師が世継ぎになった。まだ二歳。
信孝は柴田勝家にお市を与えた。3人の娘も同行した。
賤ケ岳の戦いで秀吉は柴田勝家を破る。
■2026年2月16日(月)
「新太閤記 2」 海音寺潮五郎著 文芸春秋 読破
日本史の本を読んだりドラクエ7リイマジンドをはじめたりして
新太閤記2巻はあまり憶えていません。
秀吉は斎藤龍興の美濃の武将を調略をまかされ、
また墨俣に城を築くのに成功した。
蜂須賀小六などの野武士をうまくつかったとされている。
それから稲葉山城の斎藤龍興を攻め龍興を美濃から追放した。
美濃を岐阜と改めた。
そうすると足利義昭が明智光秀を通して信長を頼ってきた。
信長は近江の浅井長政に妹のお市を嫁がせると
あっという間に上洛して京を占領してしまった。
三好なんちゃらとかは四国の方へ逃亡してしまった。
足利幕府将軍足利義昭はここに日の目を見た。
信長は義昭のために館をたて、二条城かな?
朝廷の館も建て直したようだ。
それから信長は越前の朝倉領に攻め込んだが、
近江の浅井長政が信長に背いて背後を突いてきた。
信長は秀吉にしんがりをまかせ京へ逃げ戻った。
竹中半兵衛が秀吉の軍師になったのもこの頃だったと思う。この本では結構遅かった。
本願寺をはじめとする各地の一向一揆も信長に追い打ちをかけた。
そして一番恐れていた武田信玄が上洛戦を起こしてきた。
信長もこれで最後かと思われた
家康は自分の領地を通っていく武田信玄を攻めるが大敗してしまった。
しかし武田信玄は病気で亡くなってしまい武田軍は引き上げた。
信長は各勢力に信長追討を訴えていた足利義昭を追放して、
朝倉と浅井長政も滅ぼした。
浅井朝倉勢が比叡山に逃げ込むので信長は比叡山を焼いてしまった。
浅井長政に嫁いだお市と三人の娘たちは助け出された。
浅井領だった近江は秀吉がもらいうけることになった。20万石くらいかな。
武田勝頼を長篠の合戦で鉄砲の力で破ったのもこの頃かな。
ここにまだ上杉謙信という脅威が残っていた。
上杉謙信には柴田勝家を大将として前田利家や佐々成正などがあたっていたが、
秀吉も応援にいくことになったが秀吉は柴田勝家とケンカして戻ってきてしまった。
信長は大変怒って秀吉も斬られそうになったがなんとかおさまった。
松永久秀が謀反を起こしたが秀吉も援軍に行き松永久秀を滅ぼした。
それから秀吉は毛利攻めを任されることになった。
はやくから姫路の黒田官兵衛が織田につきたいと申し出ていて、
秀吉が毛利攻めを任されることになり黒田官兵衛は姫路城をゆずってくれた。
黒田官兵衛が秀吉の軍師になった。
まだ大阪には本願寺が残っていてまだ信長も安心できない。
■2026年2月10日(火)
「オールカラーでわかりやすい日本史」 西東社 読破
中央公論社の日本の歴史全26巻と逆説の日本史二十数巻を
読んだりしましたがイマイチ日本史がよくわかっていません。
一気読みをすると忘れるのも速いようで。。
1巻完結の日本史や世界史の本を読んでいきたいと思う。
■2026年2月9日(月)
「新太閤記 1」 海音寺潮五郎著 文芸春秋 読破
皆に猿と呼ばれていた与助(秀吉)は義父とうまくいかず家を飛び出した。
今川領の松下嘉兵衛という屋敷で奉公してだいぶ奉公の仕方を学んだようだ。
しかし人に嫌がらせを受けたり疑いをかけられたりして
奉公をやめて尾張に帰ってきた。
私も若い頃に嫌がらせを受けたり疑いをかけられたり
はめられたりしてイヤな思いをしたことがある。今もそうかな。
信長に士官をはたした秀吉はとんとん拍子に出世した。
お城の石垣が崩れると秀吉が奉行をまかされることになり
あっという間に石垣をなおしてみせた。
これで信長も秀吉も指揮をまかせることができるとわかったようだ。
秀吉は士の身分になって五人扶持となった。
そのうち今川義元が上洛戦を起こしてきた。その数2万5千。
織田の最前線の砦は落とされてきていた。
信長は出陣だと城を飛び出した。
熱田神宮に2千人くらい集結すると今川義元は桶狭間で幕を張って休んでいるという。
信長は桶狭間を急襲した。
服部小平太が今川義元に一番槍をつけ毛利伸介が首をあげた。
桶狭間の戦いは信長の大勝利に終わった。
松平元康(家康)は今川の人質状態だったが岡崎城から今川の武将が逃げてしまったので
やっと自分の岡崎城へ入ることができた。
信長と家康は同盟を結んだ。
秀吉はとんとん拍子で出世して300石10人扶持になっていた。
そこへ仲の良くなった前田犬千代(利家)はねねのことが好きになり結婚したいと秀吉に相談した。
ところがねねの親は前田家は家督が高すぎて、ねねを嫁にやることはできないという。
秀吉の元へなら喜んで嫁にくれるという。
前田利家も他の者にとられるくらいなら秀吉にねねをもらってもらいたいと言った。
こうして秀吉とねねは結婚することになった。秀吉28歳、ねね16歳だった。
■2026年2月7日(土)
「いちばんやさしい世界史の本」 西東社 読破
一昨年から去年にかけて中央公論社の世界の歴史全16巻と
日本の歴史全26巻を読んだのだけど、
1巻にまとめた世界史や日本史の本をしばらく読んでなかったら
だいぶ歴史を忘れてしまった気がします。
しばらく1巻や3巻完結くらいの世界史や日本史の本を読んでいきたいです。
NHK大河ドラマの関係で秀吉関連の本も読みたいし、
自伝みたいな本もたくさん買いだめしてあります。
いろいろ読んでいきたい。
■2026年2月6日(金)
「朝日キーワード2027」 朝日新聞出版 読破
良い本で毎年読んでいるのですが、
ちょっと読み流してしまったところがあります。
読みにくいのが難点。。
政治・経済から医療、環境、科学技術、労働、
教育、文化、スポーツなど最近のネタが並びます。
■2026年2月1日(日)
「親書太閤記 11」 吉川英治著 講談社 読破
小牧・長久手の戦いで家康に敗れた秀吉だったが、
織田信雄の本拠の伊勢を突いて信雄と和議を結んでしまった。
家康は秀吉と戦う大義がなくなり退却した。
秀吉は雑賀孫市で有名な紀伊の雑賀党などを攻め降伏させ、
四国に攻め込み長曾我部を降伏させて高知だけを与えた。
また富山あたりかなっの佐々成正を降伏させ上杉景勝とは和議を結んだ。
この時、石田三成と直江兼続はお互い好意を持ったようだ。
真田も秀吉になびいた。
秀吉はしたたかに家康の官位を上げたり使者を送ったりしていたが、
家康はぜんぜん秀吉になびいてこなかった。
家康の家臣の石川数正は家康の元を出奔して秀吉についたりした。
そのくらいが大きな物事で中途半端な感じで最終巻の11巻も終わってしまった。
■2026年1月29日(木)
「米中衝突 日本はこうなる」 池上彰著 SB新書 読破
台湾有事について知りたくてこの本を読み始めたのですが
書いてないなぁっと思ったら最後の30ページくらいに書いてありました。
台湾有事についてはトランプさんも沈黙してるみたいだし
あまりふれない方がいいみたいですね。
大まかにはトランプ関税について多くかかれていました。
グリーンランドが欲しいとかパナマ運河が欲しいとかも。
中国では不動産バブルがはじけたようで。
■2026年1月28日(水)
「新書太閤記 10」 吉川英治著 講談社 読破
柴田勝家を破った秀吉は天下人に近づいた。
しかし、ここに徳川家康が立ちはだかった。
織田信雄が家康に援護を頼んだのだった。
秀吉の兵8万、家康の兵6万。
家康は小牧山に陣取って地の利を得た。
秀吉は中入りを願い出た武将にそれを許した。
間道を通って家康の本拠の岡崎を突く作戦である。
しかし家康ははやくそれに気づきそれを追い全滅させてしまった。
秀吉が家康の後を追おうとしたが家康はどこにもいない。
気づいた時には家康は小牧山に戻っていた。
これは、小牧・長久手の戦いといって秀吉が家康に敗れた戦いだった。
■2026年1月17日(土)
「新書太閤記 9」 吉川英治著 講談社 読破
清須会議が終わると柴田勝家は北陸へ帰っていった。
そして冬が来た。
北陸は雪深く柴田勝家は北陸から出てこれない。
その間に秀吉は伊勢の滝川一益を攻めたりした。
しびれを切らして雪をかきわけて柴田勝家が出てきた。
柴田勝家は賤ケ岳に陣取った。
秀吉は岐阜の織田信孝を攻めていた。
そこで勝家配下の佐久間盛政は秀吉軍を攻めて最前線に残った。
勝家は佐久間にはやく戻ってこいと命令したが翌日戻ると返答した。
その夜、秀吉軍の大軍は岐阜から賤ケ岳まで戻ってきた。
佐久間はあわてて退却したが秀吉軍に追撃された。
そうすると秀吉軍の士気は上がり柴田軍は全軍が退却するハメになってしまった。
秀吉の友の前田利家軍は真っ先に退却してしまった。
こうして賤ケ岳の戦いは秀吉の勝ちで終わり、
柴田勝家は北陸の北の庄かな。その城で市姫とともに自害した。
市姫の三人の娘たちは秀吉の元へ送られてきた。
長女の茶々が秀吉の側室に入り、
次女は京極高次の正室になり、
末の娘が徳川秀忠夫人となって家光を生んだ。
それから、織田信孝は織田信雄によって自害させられたようだ。
そして信雄は家康と接触を謀る。
AIは使ってないよ。。
■2026年1月12日(月)
「池上彰の世界情勢2026」 池上彰著 毎日新聞出版 読破
トランプ関税ショック、その先にある世界編、
っということでトランプさんがやったことがいろいろ書いてありました。
池上彰さんの本も100冊くらい読んでいて、
池上彰さんの本が出ると全部買って読んでいましたが、
最近は金欠なこともありあまり買っていません。
インフレで本の値段も大分上がりました。
この新書タイプの本も前は千円で買えましたが、
1100円(税抜き)と大分高くなりました。
最近の単行本とかも税込みで二千円くらいします。
とても買えない。。。
■2026年1月10日(土)
「新書太閤記 8」 吉川英治著 講談社 読破
備中高山城を水攻めしていた秀吉は信長の訃報を聞き、
翌日には毛利と和議を結んで明智光秀を討つために東へ向かった。
夕方には毛利にも信長が倒れたことが伝わってきたが
秀吉に恩をうっておくために追撃はしなかった。
毛利の安国寺恵瓊は信長の次に天下を取る人は秀吉だと前から見ていたのだ。
秀吉が中国大返しをおこない戻ってくると秀吉の元へ皆集まってきた。
明智光秀は信長を討ったが主をころした光秀の元へは人が集まってこなかった。
天王山あるいは山崎の合戦で秀吉は光秀を破った。
光秀は落ち武者刈りに会い竹槍で突かれてしんだと言われている。
光秀の首をもってきた人がいたが本当に光秀の首かどうかはわからなかった。
私は家康に仕えた天海が光秀ならおもしろいなと思っていますがデタラメらしい。
秀吉が光秀を破ったからといってすぐ秀吉が天下人になれたわけではなかった。
織田家の相続を話し合うために清須会議が開かれた。
三谷幸喜著の清須会議はおもしろい。
筆頭家老の柴田勝家は信孝を推したが
秀吉の主張がとおり信長の嫡男信忠の子の三法師が世継ぎに決まった。
秀吉と柴田勝家の対立は深刻だった。
市姫は柴田勝家の妻になったようだ。
■2026年1月6日(火)
「新書太閤記 7」 吉川英治著 講談社 読破
武田勝頼を滅ぼし、大阪から本願寺を退去させると
一見平和になったかのように見えた。
家康に駿府を与え、甲信には織田軍が入り、
群馬の最前線では滝川一益が北条と戦っていた。
北陸では柴田勝家が上杉と戦っており、
丹羽長秀と織田信孝は四国に攻め込もうとしていた。
秀吉は毛利と戦っていて援軍を信長に求めた。
家康は上洛して接待を受けていたが、接待役は明智光秀だった。
しかし、明智光秀は信長の不況をかい、
接待役からはずされ秀吉の援軍に行けと命令された。
信長と明智光秀はうまが合わなくなっていた。
明智光秀は1万5千もの兵をもっていた。
それを光秀は信長の泊まっている本能寺にむけた。
前日に光秀が読んだ詩は、
ときは今 天(あめ)が下知る五月(さつき)かな
ときは光秀が土岐氏だったことにかけている。
ついに信長は明智光秀の謀反に倒れた。
各地に影響が出た。
甲信では織田軍は領地を守っていくことはできなかった。
最前線で戦っていた滝川一益は北条に敗れた。
北陸で上杉と戦っていた柴田勝家は北の庄まで退いた。
秀吉の元へも信長が倒れたことが伝わってきた。
備中高山城を水攻めしていた秀吉だったが、
毛利に信長が倒れたことを伏せたまま和議の交渉に入ることになるのだが。
■2026年1月3日(土)
「新書太閤記 6」 吉川英治著 講談社 読破
黒田官兵衛が地下牢から助け出された頃、
竹中半兵衛の容体が悪くなりとうとう亡くなってしまった。
竹中半兵衛は諸葛亮のようでもあった。
秀吉がここまでやれたのも竹中半兵衛がいたからかもしれない。
まだ黒田官兵衛がいるからいいのだが、
晩年、黒田官兵衛は小禄しか与えられなかった。
そのことを人がいうと、秀吉は言った。
「官兵衛に大禄を与えたら日本をとられてしまうわ」っと。
またそれを聞いた官兵衛は自分の身が危ういと思い、
息子の黒田長政に家督をゆずって隠居してしまった。
そんなエピソードはともかく、
信長は甲信の武田勝頼を滅ぼしてしまった。
明智光秀が「我々も苦労したかいがありましたな」っといったところ、
信長は怒った。「おまえがどんな苦労をしたのか?苦労したのはワシじゃ」
といって、光秀を打ち据えた。
■2025年12月31日(水)
「新書太閤記 5」 吉川英治著 講談社 読破
武田勝頼軍が家康の長篠へ攻めてきた。
家康は信長の救援をこい、やっと信長が来てくれた。
三千丁と書いてる本が多いがこの本では五千丁の鉄砲を信長は持ってきた。
鉄砲は最初の一発だったり数発撃つと熱をもって使えなくなったりしたようで、
騎馬突撃を繰り返せば打ち破れると思われていたが
五千丁の鉄砲で三段撃ちをされたものだから武田軍も全滅してしまった。
古書に鉄砲を入れ替え入れ替え撃ったと書いてあるようだが、
私は撃つ人は同じ人で鉄砲に弾や火薬をつめて渡す人がいたのだと思うのだが。
これで武田勝頼も落ち目となってくる。
次に脅威となったのは上杉謙信だった。
柴田勝家を北陸の総大将として上杉謙信にあたらせた。
また信長は安土城を築いて備えた。
NHKドラマで安土城の天守閣や内側の彫刻や狩野派の絵など復元できたら見たいものだ。
秀吉は柴田勝家の元へ行くように指図されたが柴田勝家とケンカして帰ってきた。
信長は怒ったがなんとか許され、毛利を攻めるために西へ行くことになった。
新たに秀吉の軍師になった黒田官兵衛は秀吉に姫路城を献上した。
まだ大阪には本願寺が頑張っていて摂津の荒木村重は信長にそむいた。
黒田官兵衛は荒木村重の説得にいったが地下牢に入れられてしまった。
信長は黒田官兵衛もそむいたのだと思って官兵衛の子供を斬れと竹中半兵衛に命令した。
本願寺は一向一揆の本拠で伊勢や北陸で一向一揆がたびたび起こった。
信長は何度も伊勢を攻めて一向一揆衆を皆ごろしにしたりした。
信長も一向一揆にはかなり苦戦した。
上杉謙信は卒中でしんだのだっけな。
松永久秀は謀反を起こししんでいる。
松永久秀は室町幕府将軍足利義輝を殺したり大仏殿を焼いたり悪名高い。
■2025年12月27日(土)
「新書太閤記 4」 吉川英治著 講談社 読破
信長は浅井朝倉が逃げ込む比叡山を焼いた。
魔王信長と呼ばれるゆえんだ。
そしてついに武田信玄が上洛戦を起こしてきた。
家康の領地を通っていく。
家康は武田信玄に立ち向かった。
信長は佐久間信盛、滝川一益を援軍に送ってくれたが三千人しか送ってくれなかった。
家康軍は三方ヶ原で武田信玄に立ち向かった。
鶴翼の陣で武田軍を包囲する陣をしいた。
しかし陣は薄い。
魚鱗の陣の武田信玄は厚みのある陣だった。
家康軍は壊乱し多くの武将をしなせた。
家康は負けて浜松城に退いた。
しかーし、その後武田信玄は銃で撃たれたとかでしんでしまった。
武田軍は甲州に引き上げた。
武田信玄がしんだことは信長にとって大きかった。
信長は武田信玄に上洛してくれと頼んでいた室町幕府将軍足利義昭を追放した。
そして朝倉を滅ぼし、浅井も滅ぼした。
浅井長政に嫁いでいた市姫はと3人の娘は助け出された。
この本では直に秀吉が浅井長政に会い市姫と3人の娘を助け出した。
信長はこの褒美に秀吉に近江をくれた。
秀吉は今浜を長浜と改めて城を建て墨俣で暮らしていた母やねねを呼んだようだ。
■2025年12月22日(月)
「新書太閤記 3」 吉川英治著 講談社 読破
桶狭間で今川義元を破った信長は次は美濃を取ろうとする。
川向うの美濃の墨俣に城を築こうとすると誰もできなかった。
秀吉が蜂須賀小六などの野武士を使い墨俣に城を築くことに成功した。
それから美濃の武将を調略していく。
斎藤道三から義龍から龍興と続いてきて
龍興になると毎日女をはべらせて酒ばかり飲んでいた。
だんだん家臣も出仕しなくなってきた。
竹中半兵衛が龍興をいさめるためにたった十数名で稲葉山城を奪ってしまった。
信長は美濃を半分くれるから稲葉山城を引き渡せといったが聞き入れなかった。
竹中半兵衛は龍興に城を返すと美濃の奥地に隠棲してしまった。
秀吉は何度も竹中半兵衛の元を訪れて三顧の礼で軍師にむかえた。
あとは稲葉山城を落とすだけとなった。
秀吉は稲葉山城の裏手から侵入することに成功しのろしを上げた。
ふもとから信長が全軍で攻めてくる。
城の裏手から火の手が上がったので裏切者が出たと思って同士討ちを起こしたりした。
信長は城を落とし美濃を岐阜とあらためた。
稲葉山城は岐阜城となった。
そうすると明智光秀が足利義昭をともなって岐阜にきた。
信長は速攻で京に攻め上がり室町幕府将軍足利義昭の館を建てた。
朝廷の館なども手直ししたようだ。
京都奉行を秀吉が任されたりした。
三好は松永は逃げてしまったが信長が岐阜に帰るとまた出てきた。
そういえば浅井に嫁がせた市姫のことは書いてなかった。
信長は朝倉を攻めたが浅井に後ろを突かれ京に退却した。
しんがりを秀吉がした。
■2025年12月20日(土)
「新書太閤記 2」 吉川英治著 講談社 読破
お城の石垣が崩れて20日たってもなおせないことから
秀吉は3日でなおすといってお金もあまりつかわずになおせてみせた。
これは信長も秀吉がツカエルと思って30人を率いる足軽の組頭にした。
寧々をめぐり前田犬千代(利家)とひと悶着があったが
犬千代はとある人を斬ってしまったことから信長から破門されてしまう。
犬千代は寧々を頼むと秀吉に言って去っていった。
寧々の方も秀吉に応じてくれた。
秀吉は美男ではないが天下を取ったくらいだからオーラみたいなものがあったのだろう。
キリョウが良かったのかもしれない。
そんな折、東海の今川義元が2万5千人で尾張に攻めてきた。
尾張、名古屋の兵は2千5百人で10分の1しかない。
信長は今川義元を油断させるために籠城にみせかけていたが、
今川義元の本陣が尾張に近づくと一気に討ってでた。
今川義元の本陣を急襲するのだ。
信長の最前線の砦は今川勢に落とされている。
今川義元は余裕ぶっこいて桶狭間あるいは田楽狭間で幕を貼って休んでいた。
そこへ信長が討ちいって今川義元の首を取った。
秀吉の30人の部隊は17人になっていたが秀吉は無事だった。
前田犬千代も敵将の首を取り信長は許してくれた。
信長は岡崎の松平元康(家康)と同盟を結び尾張は安全になった。
秀吉と寧々は結婚した。犬千代が祝ってくれた。
美濃では斎藤道三の息子義龍が死んだらしい。
信長は一当りしてみようと美濃に攻め込もうとする。
寧々がすばやく秀吉のヨロイ一式を用意してくれた。
この寧々のためならっと思う秀吉だった。
■2025年12月18日(木)
「新書太閤記 1」 吉川英治著 講談社 読破
日吉(秀吉)はいろいろなところに奉公に出たが
皆2か月くらいしかつとまらなかった。
家では母の二人目の結婚相手の義父とうまくいかず、
日吉は大きくなると家を飛び出した。
針売りをして美濃、東海、甲信などをまわったようだ。
どの本にも針売りをしたことが書いてあるので針売りをしたのは本当かもしれない。
美濃では野武士の蜂須賀小六正勝あるいは彦右衛門と知り合った。
東海では今川の松下嘉兵衛という屋敷で奉公したが皆にいやがらせを受け、
嘉兵衛は秀吉にお金を渡して防具を買ってきて欲しいと言った。
実際は暇を出してお金を渡したのだった。
尾張に帰ってきた秀吉は信長に士官を果たし、
名を木下藤吉郎とした。
台所奉行などもまかされるようになった。
馬屋番などもしていたかな。
秀吉は実家にも仕送りをしたりして、
秀吉の姉がキレイな服が着れて、「弟が、弟が」っとよく話していたそうです。