新太閤記 読書記録 2026    りょう99@笠原良太(かさはらよしたか)

海音寺潮五郎著 文芸春秋 全4巻

下から書いています


■2026年2月23日(月)

「新太閤記 4」 海音寺潮五郎著 文芸春秋 読破

賤ケ岳の戦いで敗れた柴田勝家はお市とともに自害した。
お市の3人の娘たちは秀吉の元へおくられ保護された。
長女の茶々は秀吉の妻となり、次女は名家京極家に嫁ぎ、三女は徳川秀忠に嫁いでいる。
柴田勝家を滅ぼした秀吉は天下人に近づいた。
しかし織田信雄は家康に援護を求めた。
秀吉vs家康の小牧・長久手の戦いが始まった。
家康は小牧山に陣取り地の利を得た。
秀吉に家康の本拠三河を突きたいと中入りを申し出た武将がいたが、
家康に早くに気づかれ全滅してしまった。
秀吉が家康を追おうとしたがどこの城に入っているかわからず
気づいたときには小牧山に戻っていた。
秀吉が負けた戦いだった。
だが秀吉は織田信雄の本拠伊勢を攻め信雄と和議を結んでしまった。
家康は戦う大義がなくなり引き上げた。
秀吉は家康の官位を上げたりしてさんざん家康のきげんをとったが家康は上洛してくれない。
秀吉は結婚していた妹の朝日を離縁させて家康の妻に送り、
また秀吉の母に朝日を見に行ってくれと家康の元に送りやっと家康に上洛してもらった。
家康は上洛したからには秀吉に仕えた。
秀吉は家康が上洛してくれたので東の恐怖はなくなり九州まで制圧してしまった。
それから東に転じて小田原の北条を攻めた。
秀吉は北条を滅ぼすと東海甲信の家康を関東に移した。1590年だったかな。
秀吉はできるだけ大阪、京から遠くにやりたかったようだが、
家康はうまく治めて江戸時代が来ることになる。
1592年に家康が秩父神社を再建してくれた。
ちなみに日光東照宮は家康を祭って作られた神社です。
秀吉の弟小一郎秀長は1591年に亡くなったようだ。
しかしこの頃秀吉と淀殿(茶々)の間に子供が生まれた。鶴松だ。
しかし鶴松も3歳くらいで亡くなってしまった。
それがきっかけだったか秀吉は朝鮮出兵をした。
また日本が治まって士族の不満を外に向けるためともされる。
朝鮮の2皇子をつかまえたが、明(中国)から援護が来るとあやしくなってきた。
陳舜臣に船を沈められていたのも痛い。
秀吉は和睦に応じたが、「汝を日本国王となす」っという手紙に激怒して
2回目の朝鮮出兵を行なった。
そしてまた淀殿が秀吉の子を生んだ。秀頼である。
秀吉は何度も家康や前田利家などに誓書を書いてもらって秀頼を頼むと頼んだが、
織田家を秀吉が奪ってしまったように豊臣家を家康は滅ぼしてしまった。
秀吉がしに朝鮮出兵は終わった。
秀吉の辞世の句は
  露とおち露と消えぬるわが身かな なにわのことは夢のまた夢

  

■2026年2月20日(金)

「新太閤記 3」 海音寺潮五郎著 文芸春秋 読破

織田軍を破って上洛しようとしていた上杉謙信が卒中でしんだ。
一番の危機から脱した信長は本願寺も大阪から退去させることができた。
それから武田勝頼を滅ぼしたのかな。
信長は甲信を手に入れ群馬の前橋に滝川一益を置いて北条と戦っていた。
西は秀吉が毛利と戦っている。
信長のいる近畿は大分安全地帯となった。
信長は家康を安土城に呼んで接待していた。
そこへ毛利と戦っている秀吉から援護に来てくれと連絡が入った。
家康の接待をしていた明智光秀は接待役をはずされ秀吉の援軍に行くように命ぜられる。
信長は本能寺に泊まり、家康は大阪、堺などの見物をしていたようだ。
そこへ1万5千の兵力を持った明智光秀は京で信長に馬ぞろえを見せるなんたらといって京に向かう。
前日、明智光秀が歌った詩は「ときは今、あめが下しる五月(さつき)かな」だった。
明智光秀は敵は本能寺にありと言って信長に謀反を起こした。
二条城に泊まっていた嫡男の信忠とともに光秀にころされた。
大阪見物をしていた家康は伊賀越えでやっと三河に帰った。
毛利領の高松城を水攻めをしていた秀吉にも訃報が入った。
軍師の黒田官兵衛は「運がひらけてきましたぞ」みたいなことを言った。
秀吉は毛利に訃報が伝わる前に毛利と和睦して急いで東へ走った。
秀吉が戻ってくるとばらばらになってた織田軍が集まってきた。
丹羽長秀と織田信孝と合流し、山崎の合戦で明智光秀を破った。
明智光秀は逃亡中に落ち武者刈りにあってしんだといわれる。
光秀の首だと持ってきた人があったが果たして本物の首だったろうか。
織田家相続争いがはじまった。清須会議が開かれた。
信孝を推す柴田勝家と信忠の子三法師を推す秀吉。
光秀を破った秀吉の主張が通り三法師が世継ぎになった。まだ二歳。
信孝は柴田勝家にお市を与えた。3人の娘も同行した。
賤ケ岳の戦いで秀吉は柴田勝家を破る。

  

■2026年2月16日(月)

「新太閤記 2」 海音寺潮五郎著 文芸春秋 読破

日本史の本を読んだりドラクエ7リイマジンドをはじめたりして
新太閤記2巻はあまり憶えていません。
秀吉は斎藤龍興の美濃の武将を調略をまかされ、
また墨俣に城を築くのに成功した。
蜂須賀小六などの野武士をうまくつかったとされている。
それから稲葉山城の斎藤龍興を攻め龍興を美濃から追放した。
美濃を岐阜と改めた。
そうすると足利義昭が明智光秀を通して信長を頼ってきた。
信長は近江の浅井長政に妹のお市を嫁がせると
あっという間に上洛して京を占領してしまった。
三好なんちゃらとかは四国の方へ逃亡してしまった。
足利幕府将軍足利義昭はここに日の目を見た。
信長は義昭のために館をたて、二条城かな?
朝廷の館も建て直したようだ。
それから信長は越前の朝倉領に攻め込んだが、
近江の浅井長政が信長に背いて背後を突いてきた。
信長は秀吉にしんがりをまかせ京へ逃げ戻った。
竹中半兵衛が秀吉の軍師になったのもこの頃だったと思う。この本では結構遅かった。
本願寺をはじめとする各地の一向一揆も信長に追い打ちをかけた。
そして一番恐れていた武田信玄が上洛戦を起こしてきた。
信長もこれで最後かと思われた
家康は自分の領地を通っていく武田信玄を攻めるが大敗してしまった。
しかし武田信玄は病気で亡くなってしまい武田軍は引き上げた。
信長は各勢力に信長追討を訴えていた足利義昭を追放して、
朝倉と浅井長政も滅ぼした。
浅井朝倉勢が比叡山に逃げ込むので信長は比叡山を焼いてしまった。
浅井長政に嫁いだお市と三人の娘たちは助け出された。
浅井領だった近江は秀吉がもらいうけることになった。20万石くらいかな。
武田勝頼を長篠の合戦で鉄砲の力で破ったのもこの頃かな。
ここにまだ上杉謙信という脅威が残っていた。
上杉謙信には柴田勝家を大将として前田利家や佐々成正などがあたっていたが、
秀吉も応援にいくことになったが秀吉は柴田勝家とケンカして戻ってきてしまった。
信長は大変怒って秀吉も斬られそうになったがなんとかおさまった。
松永久秀が謀反を起こしたが秀吉も援軍に行き松永久秀を滅ぼした。
それから秀吉は毛利攻めを任されることになった。
はやくから姫路の黒田官兵衛が織田につきたいと申し出ていて、
秀吉が毛利攻めを任されることになり黒田官兵衛は姫路城をゆずってくれた。
黒田官兵衛が秀吉の軍師になった。
まだ大阪には本願寺が残っていてまだ信長も安心できない。

    

■2026年2月9日(月)

「新太閤記 1」 海音寺潮五郎著 文芸春秋 読破

皆に猿と呼ばれていた与助(秀吉)は義父とうまくいかず家を飛び出した。
今川領の松下嘉兵衛という屋敷で奉公してだいぶ奉公の仕方を学んだようだ。
しかし人に嫌がらせを受けたり疑いをかけられたりして
奉公をやめて尾張に帰ってきた。
私も若い頃に嫌がらせを受けたり疑いをかけられたり
はめられたりしてイヤな思いをしたことがある。今もそうかな。
信長に士官をはたした秀吉はとんとん拍子に出世した。
お城の石垣が崩れると秀吉が奉行をまかされることになり
あっという間に石垣をなおしてみせた。
これで信長も秀吉も指揮をまかせることができるとわかったようだ。
秀吉は士の身分になって五人扶持となった。
そのうち今川義元が上洛戦を起こしてきた。その数2万5千。
織田の最前線の砦は落とされてきていた。
信長は出陣だと城を飛び出した。
熱田神宮に2千人くらい集結すると今川義元は桶狭間で幕を張って休んでいるという。
信長は桶狭間を急襲した。
服部小平太が今川義元に一番槍をつけ毛利伸介が首をあげた。
桶狭間の戦いは信長の大勝利に終わった。
松平元康(家康)は今川の人質状態だったが岡崎城から今川の武将が逃げてしまったので
やっと自分の岡崎城へ入ることができた。
信長と家康は同盟を結んだ。
秀吉はとんとん拍子で出世して300石10人扶持になっていた。
そこへ仲の良くなった前田犬千代(利家)はねねのことが好きになり結婚したいと秀吉に相談した。
ところがねねの親は前田家は家督が高すぎて、ねねを嫁にやることはできないという。
秀吉の元へなら喜んで嫁にくれるという。
前田利家も他の者にとられるくらいなら秀吉にねねをもらってもらいたいと言った。
こうして秀吉とねねは結婚することになった。秀吉28歳、ねね16歳だった。