宮城谷三国志 読書記録 2026      りょう99@笠原良太(かさはらよしたか)

三国志 全12巻 宮城谷昌光著 文春文庫 

第一巻と第二巻はストーリー的に読書記録がかけそうにないので読み飛ばしました。

この読書記録はどこまで続くかわかりません。詳しく書きすぎた。
ボツになりそうです。。。はやく12巻まで読みたい。。


■2026年9月22日(火)

「三国志」 第三巻 宮城谷昌光著 文春文庫

黄巾の乱が起こっていたが張角は病没して
張梁、張宝は皇甫嵩が滅ぼし張角の棺もあばいた。
皇甫嵩に天下を取れとけしかけた人もいた。
また朱儁も黄巾賊の残党刈りに活躍している。
朱儁の下に孫堅がついていた。
今の長沙太守では盗掠を滅没させることができないと考えた朝廷は
孫堅を長沙太守に任命した。
すみやかに長沙にむかった孫堅は賊を平らげ他の州の賊まで退治してしまった。
続々と朗報を届けてくれる孫堅を、朝廷は褒めて、鳥程候に封じた。

曹操は賊の退治でもしていたのだろうか。
任務を全うした曹操は済南国から洛陽に帰って来た。
まもなく東郡の太守に任命されたが、「病にて」といい、辞退した。
任官のさいには二千万銭を納めなければならなかったのだ。
群臣はのこらず皇帝から官位を買っているようなものである。
帝室がそういう愚昧なとりひきをやめないかぎり、地方の府中から臓吏は消えない。
このとき父の曹嵩は大司農であり、東郡太守の任命を辞退した曹操をムチ打った。
また曹嵩は一億万銭を出して大尉の地位を買い、人臣としての最高位に座った。

この年に霊帝は関内候を売り出した。
霊帝は銭を上納した者に金印紫綬を与える。
それによって得た銭が五百万となった
銭の好きな皇帝である。
その嗜好は貧困のなかで育った霊帝の防衛本能であろう。
人は信じられぬが銭は信じられる、っというのが霊帝の真情であろう。

袁紹も母と父の喪にふくした後、洛陽で隠棲していて命には答えなかった。
袁一門は「なんじはわが一族を滅ぼす気か」っと叱声を放った。
袁紹はたまたま大将軍である何進に招かれて推挙されて侍御史となった。
曹操の父が大尉となったことを知った袁紹は、銭の臭いが鼻につく、といやな顔をした。
従来、政治に清流を求める人たちは、宦官を濁流の源としてきたが、
銭に埋もれていたい霊帝の卑しさが、ここまであきらかになると、
「この王朝は、皇帝を替えねば、どうにもならぬ」
という議論が密かにおこなわれているのではあるまいか、と袁紹は予感した。

中央の腐敗はまた黄巾賊の蜂起といった形で表された。
中平五年(188年)は、黄巾の賊の復活の年である。
「処々で盗掠を勃発させた攻めは、大尉にある」
といって曹嵩は罷免されてしまった。
五カ月という在位期間に、あの上納金は高すぎたというべきだろう。

帝都も危うくなり西園八校尉という編成が新たに行われた。
その中に袁紹や曹操がいた。中軍校尉袁紹。典軍校尉曹操。
曹操は校尉に起用されることをこばまなかった。
東郡太守を固辞し、典軍校尉を拝受したということは、
曹操は行政よりも軍事に関心があったとも考えられる。
この八校尉の中に袁紹がいてのちに曹操と雌雄を決することになるのは
運命の不思議というべきであろう。

霊帝が崩御した。
長子の弁が何皇后の子であり、
次子の協を養育していたのは霊帝の生母の董太后で、
「何皇后は協の母の王美人を毒殺したのです。
廃されて当然の皇后の子を皇嗣に立ててはなりません。
それに協は賢い。協を皇太子にしないと後悔なさいますぞ」
っとしきりに言った。
宦官のケン碩は何皇后の兄の何進さえ殺せばあとの運びはたやすい。
何進を暗殺すべく手筈をととのえた。
しかし何進の暗殺には失敗し、
王子弁が皇帝の位についた。
何皇后が皇太后となり大赦がおこなわれて改元した。
何皇后はさっそく皇帝の弟である協を渤海王に封じ、
袁隗を太傅に任命した。
さらに何進と袁隗を録尚書事として王朝の中枢を掌握させた。

自分を暗殺しようとしたケン碩がしぶとく暗躍している。
かつてどれほどの名臣が宦官と戦い、
宦官に讒奏(ざんそう)されて死んでいったことか。
天下に宦官を憎まぬ者はないといってよい。
しかしながら宦官の掃滅を計画したものはすべて
滅んだという過去の事実は厳然たるものである。
自分の妹が皇太后でその子が皇帝で
しかも何進自身が大将軍として王朝を統括している。
これほどの環境にいても宦官には手が出せないものなのか。

袁紹は進言した。
宦官が権柄をにぎってきた歳月が長すぎる。
いまも董太后に通じて奸計を弄し私腹を肥やしている。
いまこそ大将軍は賢良の臣を選用して
天下を整斉して、国家のために患を除くべきである。
何進はケン碩を殺し、董太后も恐怖にかられて死んでしまった。

渤海王(協)をより人口の多い陳留王とした。
あとは宦官どもの始末だ。
何進は袁紹とともに計画し宦官を掃滅しようと何太后に許可を願った。
何太后には宦官への嫌悪も憎悪もない。
陳留王の生母である王美人を毒殺したとき、
激怒した霊帝をなだめてくれたのも宦官であり、
霊帝の愛情を冷めにくくしてくれたのも宦官である。
宦官がひとりもいなくなれば何太后のまわりは寒々しくなる。
ケン碩はすでに誅されたではありませんか。

皇帝が二十歳になるまでわたしが摂政をおこなえばよいと何太后は思った。
そのためには自分の手足のごとく動いてくれる宦官が必用であるのに
なぜ兄は宦官を全廃せよというのであろうか。
右も左もわからぬ掖庭(宮廷)に入ってから扶助してくれたのは宦官であり
皇后になってからかれらの働きにむくいたつもりであり、
皇太后になったいまもかれらに害心をみたことはない。
宦官はつつしみ深く勤勉ではないか。

皇太后の決断がくだされようもない、そう感じた袁紹は、
四方の猛将および豪傑をお召しになり、
兵を率いて京城にむかわせ太后にご再考を願うjというのはどうでしょうか。
と何進にはかった。

何進と袁紹の謀計の外にいた曹操は、
大将軍府に宦官誅滅のために天下の諸豪族を招集する計画があることを聞いて嘲笑した。
その罪を処罰するのであれば元悪を誅せばよく、それはひとりの獄吏で充分である。
どうして外にいる諸将を召す必要があろうか。
宦官どもをことごとく誅そうとすればかならず事は露見する。
わたしにはその失敗が見える。

父を喪って途方に暮れて洛陽にのぼってきたときのつらさを何進は忘れたことはない。
妹を液庭(宮廷)にいれてくれたのは南陽出身の宦官であり、
以後、ケン碩に殺されそうになるまで宦官とは良好な関係を保ってきた。
陳留王協を皇帝に立てようとしたケン碩はたまたま宦官だったというべきで、
ひとりの悪事によって宦官のすべてを否定してよいのか。
何進は迷いはじめていた。

袁紹は
「すでに準備は整い、事は進行しているのです。
ここでとどまれば、どうなるかわかりません。
将軍は何を待とうとして、早急に決断をくだされないのか」
と噛みつくようにいった。
何進は袁紹を司隷校尉に任命し「専命し、撃断せよ」と特権を与えた。
おもいのままに命令をくだし、かってに法律に照らして処罰を行なってよいといったのである。
袁紹は董卓に兵をすすめるように要請した。
何進も董卓をまねきよせることにした。
恐れた宦官たちは何進の元にゆき謝罪して去って行った。
袁紹は「ご決断を」っと迫ったが、何進に許すという言葉はでなかった。
「かれらは罷免されたのだ。殺すまでもない」

宦官たちが去ったあと大将軍はなぜ近道をお選びにならないのか。
と袁紹は地を踏み、天を仰いで、悔しがった。
宦官を殺し、その首をならべて天下の民に謝らなければ
この王朝を見直してはくれぬ。
それが容易に可能になったのに。
何進は宦官を許し、天下の不信を招いてしまった。

そして宦官たちはつてを頼って何太后の元へ戻ってきてしまった。
もう宦官たちも黙ってはいない。何進を殺してしまった。
もう袁紹も黙ってはいない。宦官を全員殺そうとした。
二千人あまりが殺された。
宮殿には火が放たれた。
皇帝や陳留王たちもみなどこかへ落ちて行った。

宦官たちは全員が死に皇帝と陳留王のもとに皆集まってきた。
ところが宮殿を占領した董卓は皇帝と陳留王を迎えにきた。

董卓は呂布に眼を付けた。
丁原の元にいては栄達できない。
千人の長で終わる。
栄達したくはないかっといって丁原を斬らせた。
董卓は呂布を手に入れた。

そして今の皇帝を廃嫡して陳留王を皇帝に立てようとした。
袁紹は反対して董卓といいあいになったが、
その日のうちに袁紹は冀州にはしってしまった。
董卓は袁紹を討とうとしたが、袁紹には名声がある。一族も大きい。
袁紹に旗揚げされても困るので袁紹を渤海太守に任命した。

「皇帝は喪中にありながら子としての心がみられぬ。
その威儀は人君にふさわしくない。
よって廃位して弘農王とし、
陳留王協を立てて帝とする」
っと宣言された。
まもなく何太后も弘農王も毒を飲まされて死んでしまった。
もう董卓にさからえるものはなかった。

 

■2026年9月23日(水)

即位した献帝(協)は九歳である。
亡くなるのは234年であるから即位した年から45年生きることになる。
いうまでもなく、献帝が後漢王朝最後の皇帝である。
が、歴史の実相としては、董卓が京師に乗りこんできたときから三国時代がはじまったとみてよい。
董卓は大尉となりそれから「相国」という破格の昇進を遂げた。
相国は三公の上に置かれる位で丞相が改称されたものであるが、
実際に相国と呼ばれた人は前漢の高祖のときの蕭何と景帝のときの曹参のみである。

宦官を殺すのに天下の兵がいるのか。
曹操はあきれる思いで何進と袁紹を見守っていた。
宮中が血の海になったとき、曹操は進退をあきらかにしなかった。
ばかばかしくて手をだす気にもなれぬというのが真意であったにちがいない。
その後、風雲に乗り董卓が現れた。
董卓はどのような武将か。
ひとくせもふたくせもありそうだが、尋常ではないその胆知を王朝がつかいこなせばよいと
曹操はみていた。
ところが、またたくまに王朝が董卓の私有物と化したのをまのあたりにして、
地方に出る工夫をしなければならぬ。っとあわてた。
董卓は人を食い殺す怪物であり、王朝にとどまることが、その悪行に協力することになる。

この王朝は終わったのか。
王朝のなかに正義が復活することを待ってもむだであるとなれば、
外に出て対策を講じなければならない。
そう考えた矢先に、董卓が曹操を驍騎校尉に任命するように皇帝に言上するという伝聞を知った。
昇進すればするほど死に近づく。
背筋を寒くした曹操は家族にもつげずに、数騎のみを従えて、京師を脱出した。

「曹孟徳がおらぬというのか」
せっかく重位をあたえてやろうというのに、逃げ出すとは、人の好意のわからぬ男よ。
そう思った董卓は、曹操を憎悪したわけでない。
才略のありそうな男を抜擢してやろうとしたにすぎず、かってに典軍校尉の務めを
放棄してゆくえをくらましたことに不快をおぼえたにすぎない。
「捕らえて、京師へ送れ」
この通達が郡県にとどくのは、曹操が逃げるのより早い。
曹操は捕まり連行され拘留された。
その県には董卓からの文書が届いていたが、曹操にちがいないとわかった上で、
「すでに天下は乱れています。曹操は雄俊であり、拘留するのはよろしくありません」
県令は曹操を釈放した。県令は曹操に同情したというより董卓に反感をいだいていたのであろう。

陳留あたりで曹操が義挙すると人が集まってきて十数万の兵力を持つことになった。
曹操 張邈 張超 劉岱 孔伷 鮑信 臧洪などが義挙に加わった人たちだ。
曹操より格上の人たちばかりで総大将は決まっていない。
この会盟は天下に衝撃をあたえ、報せは、董卓の耳に飛び込んだ。
日をおいて、第二報、第三報とはいってくる。
河内太守の王匡が挙兵し、
渤海太守の袁紹が軍を率いて南下し河内にでようとしている。
その袁紹軍を冀州牧の韓馥が鄴で後援しているらしい。
南陽郡の魯陽では、袁術が郡を屯集させている。
洛陽は三方から攻められる危険がある。

董卓は皇帝を長安に移して洛陽をすてて守りやすい長安に遷都することを決めた。

董卓はまだ洛陽に残って弱そうな王匡の軍を討ち破った。
董卓を倒せるのは袁紹だけだといわれるようになった。
この連合は袁紹を盟主にしたようだ。
董卓は洛陽に火をかけた。焦土戦術だ。

諸将の軍は動かない。
董卓の軍の出方をうかがっているといえば聞こえが良いが、
要するに勝算が立たない。
河内郡に入って袁紹も停止したままである。
曹操は言った。
「義兵を挙げて董卓の暴乱を誅すために大兵がすでに集合しているというのに
諸君は何を遅疑しているのか。
今、董卓は宮室を焼き、天子をおびやかして遷都したので
海内は震動してどうなるかわからない。
これこそ天が董卓を滅ぼす時であり、一戦すれば天下は定まる。
この機を失うべきではない」
鮑信は曹操に言った。
「何を言っても無駄です。我々だけで董卓を討ちましょう」っと曹操にささやいた。
曹操も同感だったらしく、
「天が与えてくれたものを受け取らぬと咎(とが)がある」っといい立ち去った。
曹操は鮑信と董卓軍を追って行ったが徐栄の軍が待っていた。
曹操、鮑信の軍は敗れた。
負けたのか。曹操の目にうつる天も地も昏かった。

本陣に帰った曹操は
「諸君は酒を飲むために集まったのか」
と諸将を大声でなじった。
諸将は、負けて帰ってきた曹操と鮑信をひそかに笑っているようだった。
だが負けたとはいえ戦った曹操に好意を持つ者が増え、
袁紹の無能を唱える人が多くなったようだった。

191年
年があらたまり初平二年となった。
この年の二月に董卓は「太師」と称した。
太師とはいうまでもなく太公望のことである。
殷王朝を倒して周の武王を輔成した傑人である。

この二月についに孫堅は魯陽を出発した。
最初に董卓軍に挑戦するという名誉は曹操に奪われたが、
最初に董卓軍を破るという栄誉が手つかずで残っている。
魯陽から北上して洛陽に到着するには戦闘がなければ十日以内のたやすさであるが
その道には董卓指揮下の将士が充満してると想ったほうがよい。
億万の敵がいても突破してみせる
この勇気の塊のような将は魯陽をあとにして梁(りょう)に向かった。
梁の東に孫堅は布陣した。
孫堅の動きを警戒していた董卓は徐栄に大軍を与えて壊滅させるようにすでに命じてある。
去年、曹操を敗退させた徐栄であればここもそつなくやるだろう。
徐栄は疾風の如く軍をすすめて梁東の陣を襲った。
孫堅軍は大崩壊した。
孫堅は数十騎とともに囲みを破って逃走した。
徐栄軍が大勝したのは確かであり引き上げを命じ復命のため洛陽に帰った。

だが孫堅は曹操と違って逃げることをしなかった。
かれは魯陽に戻らず散兵を収めて軍をつくりなおすと前進して陽人を急襲した。
「陽人の城を孫堅に奪われました」
急報を聞いた董卓は、一瞬まさか、という顔をしたが、呂布に
「胡軫とともに陽人へ行き孫堅をかわいがってやれ」
大督護に任命した胡軫を呂布に補佐させ、さらに将校や都督をつけて、
五千の歩兵と騎兵を急行させた。
胡軫は徳もなければ威もなく多くの属将に反感を持たれていた。
ひそかに諸将を集合させた呂布は
「胡軫を失敗させようではないか」っともちかけて賛同を得た。
胡軫は敗れ、華雄は捕斬され、胡軫は撤退するしかなくなった。
孫堅は董卓軍を破ったのである。

だが孫堅は洛陽に向かって進軍を開始することができない。
梁東で惨敗したときに多くの兵糧を失ったので
袁術から送られてくる兵糧を待つしかない。
袁術の近くに孫堅を警戒する声が上がっていた。
「もしも孫堅が洛陽を得るとふたたび彼を制御できなくなります。
それは狼を除いて虎を得ることになるのです」
袁術は孫堅に兵糧を送らなかった。
使者が来るたびに「まもなく送るから」っと嘘をついていた。
孫堅は魯陽まではせもどって袁術にまみえた。
この男を怒らせたらまずい
袁術はすぐ兵糧を送ろうと言った。軍糧をすぐ発するであろう。
孫堅は輜重隊を引き連れて陽人にもどったのである。

孫堅が大谷関に入ったと知った。
董卓は「わしがゆく」っとほえた。
ついに天下最強と呼ばれる西方の兵を率いて洛陽を出た。
たがいの距離は九十里である。
「来たか董卓」
孫堅はいささかもひるまない。
確かに西方にいた頃は董卓の兵は飢えた狼にひとしかったが、
洛陽に入ってからは酒色をおぼえ過食の日々を過ごしたので豚になりさがっている。
走れば息切れし、武器をふるえば首も手もまわらぬような兵に負けるわけがない。

この戦いは騎兵の争いといえた。
董卓は騎兵を指揮して人に遅れをとったことがない。
ところが孫堅は西方で転戦して騎兵の使い方を習得した。
また董卓の戦いかたもだいたいわかっていた。
董卓は虚勢を張って敵を惑わす。
つまり強くみせているにすぎない。
確かに董卓の下には徐栄のようなすぐれた将がいるが、
今、徐栄は多方面へ軍を巡回させているのかこの会戦には参加していない。
そうなれば孫堅が忌避しなければならない将は敵軍におらず懸念なく戦える。
孫堅は丘陵に林立する董卓軍の旗を遠望するや
「あれは擬態よ、ひるむな」
と麾下(きか)の兵に教え、その丘陵の麓(ふもと)をすみやかに通過した。
丘陵の上の兵を無視すれば退路を断たれると判断するのが普通であるのに、
孫堅の軍は速度をおとさなかった。
丘の上にいるのはせいぜい五百だっと孫堅は見抜いた。
ほんとうの大軍が伏せてあれば旗などを立てるはずがない。
他の丘陵もおなじように旗で飾られていたが孫堅は一顧だにせず軍を前進させた。
前方の丘陵を眺めた孫堅は、
「あの丘に部隊が隠れていて、丘のむこうに董卓がいる。全軍で丘を取り攻めくだろう」
と奇抜なことをいった。孫堅には迷いがない。
兵の目には映らないものが孫堅の目には見える。
この時の孫堅の戦術には神異があった。

全軍が丘陵をめざし登りはじめた。
草木の間にいたのは伏兵で、董卓軍に敗れて逃げる孫堅軍を痛撃するように命じられていたのであるが、
いきなり敵の攻撃を受けてとまどった。
しかも総攻撃の的にされたのである。
この戦闘の間に董卓が混乱にまきこまれた。
孫堅軍の接近を告げる兵が続々と到着したにもかかわらず、突然孫堅が消えたというのである。
「捜せ」
怒鳴った董卓は多数の偵騎を放った。
丘陵を登っている孫堅軍が誰の目にも見えない時間帯があったということである。
やがて近くの丘陵から自軍の兵が転がりおちた。
「む・・・」
太った首をまわした董卓は敗走してくる兵の後ろにおびただしい孫堅軍の旗を見た。
孫子は兵法書で次のように教えている。
 兵の情は速を主とす。
 人の及ばざるに乗じて不虞の道に由り
 其の戒めざる所を攻むるなり
兵は兵士だけをいうのではなく戦争とか武器をいう。
この場合は戦争で戦争の実情を想ってみると速さが第一である。
むこうがこちらの速さに及ばないことを利用して
不虞(予期しない)の道をつかって、むこうが警戒してない所を攻めるのが良い。

そういうことがわかっていても実際に戦場に出ると知識だけの兵法は何の役にも立たず
むしろ害になることさえある。
が孫堅は見事にそれを実践した。
董卓は孫堅軍の進撃をゆるめるために
騎馬隊を先行させて丘陵に旗を立てさせた。
それをみな孫堅が用心して軍を停止させれば
迎撃の陣を斉整するゆとりが得られる。
が孫堅に見破られたことで董卓の布陣は不完全のまま戦闘に突入せざるを得なくなった。
さらに董卓の失敗は軍の側面が丘陵であるので
その丘陵を孫堅軍が越えてくることはないと思いほとんど無防備にしたことである。
董卓にとって戦況は最悪となった。
伏兵のかい走につづいて出現した孫堅軍によって
いきなり軍の中堅が抉(えぐ)られたのである。
董卓は敗色をみてから逃げ出したのでは遅いということをよく知っていた。
それゆえ孫堅の軍に不意をつかれた時点で本陣を放棄した。
この無責任さを裏返せば保身となるのが董卓の戦い方であり、
敗走しようが撤退しようが自身が死なぬということが第一であり、
部下にも無駄な戦闘をさせない気配りがそこにふくまれており、
逃げながらも、勝ちをどこかでひろってやろう、っと考えている。

董卓は逃げ切ったと思った露営の陣の中で
「孫堅は勇気を誇る癖がある。それゆえ追撃の先頭に立っているであろうから
兵を集めたら急襲してみよ」
と呂布に命じた。
この時点で董卓は洛陽をすて長安に向かった。

一方、急襲のための兵を集合させた呂布は兵を伏せて孫堅を待った。
孫堅は猛烈な速さで軍をすすめてはいるが兵略の急所をおさえており、
反撃があるとすればあのあたりであろう、
と心の中で呂布の所在を指していた。
それゆえにわかに進撃の速度を落として奇襲にそなえた。
呂布はそういう敵軍の変化に気づかず敵軍を見るや立った。
 やはりきたか
瘴雲(しょううん)の如く湧いた敵兵を見た孫堅は
先陣がたやすく崩れないように後ろを厚くして敵の鋭気をしのいでいる間に
騎兵隊を使って敵軍の側面を衝かせようとした。
日が中天に来るまでにかたづくであろう
孫堅には余裕がある。兵力は自分の方がまさっている。
負けることのない戦いとは、これをいうのであろう。
呂布は岩壁にぶつかったようなものであった。
二度ほど突撃を行なったが敵陣には小さなほころびしかあらわれない。
兵のふがいなさに激怒した呂布は自ら馬をすすめ矢を連射して敵兵を倒した。
呂布一人で十数人の兵を撃破し射殺したが、
その間に自軍の兵が百数十人倒れていた。

呂布はふと気配の変化を感じて振り返った。
はるか後方にみだれがある。
よく見ると孫堅軍の騎兵に陣が抉られてるではないか。
自軍がゆれはじめた。退路を断たれてしまう。
孤立したら全滅は必至である。
この想いにおびえたのは呂布ばかりではない。
配下の兵は前進をやめた。
「いまだ」
孫堅は微笑して鼓を打った。突撃の合図である。

岩壁が動いたといってよい。
退路をふさがれる前に戦陣を棄てた呂布は洛陽の方には退かず
董卓の後を追うようにして西に向かった。

呂布軍を大破した孫堅軍の前途にもはや敵はおらず洛陽にむかってばく進した。
やがて孫堅の目に焼けただれたような旧都が見えた。
 あれが帝都か
城内に入るとおのずと涙が流れた。
この王朝は終わった。
しゅくしゅくと馬をすすめた孫堅は半壊した漢王室の宗廟を見つけると
「清掃せよ」
と兵に命じ掃拭が終わると大牢を供えて祭った。
さらに孫堅は皇帝陵を修復し、董卓によって暴かれたあとも埋め戻した。
董卓と呂布の軍を破ったことよりも、その行為の方がかれの声名を高めたであろう。

董卓が長安へ移動中であれば追跡したいが、
袁術の許可を得なけらばならない。
袁術の意向を無視した軍事行動は食料の補給の停止を招く。

まもなく不思議なことが起こった。
井戸から五色の気が昇り軍をあげて驚き怪しんだ。
 井戸を調べてみよ
井戸から伝国の璽がみつかった。皇帝がつかう印璽である。
わが室が皇室になるときがくるっと天が教えてくれているのか。
孫堅はついにその玉璽を秘匿した。
うわさは風のごとく飛んだ。
天子を僭称するつもりの袁術は目をすえて
「孫堅の妻を幽閉し、孫堅には魯陽にかえるように伝えよ」
と属吏に命じた。

  

■2026年9月24日(木)

孫堅は凱旋将軍である。
「あの人が董卓を打ち負かした将軍だ」
孫堅軍は住民に暴掠をおこなわなかったのでどこを通っても歓迎された。
路傍に立っている人々の実情に明るさがもどっていることが孫堅に実感させた。
人民を喜ばせ、その喜びを自分の喜びとするものだけが王者となる。

「その玉璽はなんじが持て」
と天に命じられたのに、玉璽を手放せば天譴(てんけん)に逢う。それが怖い。
妻が幽閉された。
袁術が伝国の玉璽のことを知ったにちがいない。
孫堅は玉璽を袁術に献上した。
とたんに袁術の相好がくずれた。
「武勲この上なし」
と褒詞(ほうし)を垂れた。
「どうだ、袁将軍のすまいから五色の気が昇っているか」
「気らしきものは、何も見えません」
「であろうよ」
朗らかな声でそういった孫堅は帰宅してから妻がもどされるのを待った。
「袁紹軍はご満悦であり、貴殿をねぎらうために貨貲(かし)をおさずけになりました。
どうかお受け取り下さい。戦いの疲れをおとりになったら、豫洲を治めるように、とのことです」
孫堅は袁術の上表によって豫洲刺史となっている。
妻の手を取った孫堅は
「そなたの方が、玉璽よりも尊い」
といった後、さあ朝まで宴だっと家中に明るい声を放った。

みずから車騎将軍と号した袁紹は、諸将の会盟を主宰して、
董卓を討伐する構えをみせたが、
たとえ董卓を打倒しても献帝を奉戴する気がないので、
董卓を非難するだけで軍をすすませず、
幽州牧である劉虞(りゅうぐ)を擁立してあらたな王朝をつくることに力をそそいだ。
が、劉虞は袁紹の構想にのらないので、窮した。
それをみた客の蜂起が袁紹に進言した。
「将軍は挙兵して大事に踏みきられながら、資給を人に仰いでおられる。
一州に拠(よ)らなければ、ご自身の保全はありますまい」
「わが兵士は飢渇しはじめている。もしも打開策がなければ、わたしも立つ瀬がない」
袁紹は蜂起を信用しているので、苦衷を吐露した。蜂起は
「公孫瓚と連絡しあって、かれを南下させるようにして冀州を攻略させるべきです。
公孫瓚はかならずきます。そうなれば韓馥は危惧するでしょう。
すかさず使者を送って韓馥に利害を説かせ、禍福をさとしてやれば、
韓馥はかならず冀州牧をあなたさまに譲るでしょうから、その地位におつきになることができます」
袁紹はその進言を喜んで容れ、さっそく使者を発たせた。
「袁紹に冀州を譲るべきであろう」
と韓馥がいいはじめたので、高官たちはいっせいに驚いて韓馥をいさめた。
「冀州は帝都から離れているとはいえ、帯甲は百万、穀物は十年分あります。
袁紹は孤客窮軍にすぎず、たちまち餓死させることができます。
どうしてそのような者に州を与えようとなさるのですか」
すると韓馥はしみじみとした口調で、
「わたしは昔、袁氏に使える吏人であった。また才能は袁紹より劣る。
有徳をみぬいて位を譲るのは古人の貴ぶところである。諸君だけが何を愁えるのか」
と、いい決心の固さをみせた。
たとえ袁紹を殺したとしても南下してくる公孫瓚を撃退する自信は韓馥にはない。
それよりも冀州を戦場として多くの民を殺すにしのびない。
袁紹が冀州を治めるようになれば、公孫瓚は冀州に手をださなくなるだろう。
それでよいではないか、という思いが韓馥には強い。
冀州牧の印綬を受け取った袁紹は、天空から福が落下してきたようなおもいがしたであろう。
刺史は州を監察するだけであるが、牧は法を施行することができるので、
実質的には郡守を収攬し、州全体を支配することができる。
暗中模索の袁紹に突然朝日が射したようなもので、これほどうまくいくとは思わなかった、とほくそえんだ。

諸将は解散してしまい、義勇兵も帰途についたので、曹操は今後の方途を見失っていた。
そこにやってきた鮑信の献言によって曹操は救われたといってよい。
「袁紹は盟主となりましたが、おもうがままに利益を独占し、まもなくかれが乱の元凶となりましょう。
これはもうひとりの董卓が生まれることです。
ただし、かれを抑えようとしても、こちらが力不足で、制することができず、
難に遭(あ)うばかりで何も成功しません。
そこで大河の南をただして、事変をまったらいかがですか」
「よくぞ、いってくれた、ただちに決行しよう」
曹操は鮑信の助けを得て郡府の濮陽にむかい賊を平らげた。
曹操は濮陽の府に入った。
それを兗州刺史の劉岱と盟主である袁紹に告げると、袁紹の使者が来て、
曹操を東郡太守に任命すべく上表をおこなった旨(むね)を述べた。
「路頭に迷わずにすんだ」
っと鮑信に感謝した曹操は、鮑信を斉北国の相していただきたいと上奏をおこなった。
やがて鮑信は曹操の元を去り、東郡と境を接する斉北国へむかったが、ふたりは連絡を欠かさなかった。
曹操の覇業への道を最初に啓(ひら)いてくれたのは鮑信であったといっても過言ではあるまい。

袁紹と公孫瓚の関係はあるときまでは良好であった。
あるときというのは公孫瓚の従弟の公孫越が陽城において袁紹につかわされた周昂と戦って死んだときをいう。
訃報に接した公孫瓚は袁紹の謝辞をしりぞけ袁紹への復習戦を展開した。
こういう時に、腕の長い、耳の大きな男が公孫瓚に面会を求めた。
「風体のよくないふたりを従えた玄徳という者が将軍に謁見を求めておりますがどうしましょうか」
「説客に会っている暇はない。追い返せ」
と取次の者を怒鳴ろうとして、まてよ、っと思い出した。玄徳というものが盧植の門下にいた。
「その者は涿県の劉氏か」
「往時、将軍に兄事し狩猟に従った者だと申しておりました」
「おお、劉備玄徳、すぐに会おう」
公孫瓚の前にあらわれたのは三十一歳の劉備である。
「久しいな、さあ座れ、高唐の令になったと風のうわさできいたが・・」
高唐は平原郡のある県で、平原郡は青州の最西端にある郡である。
郡境を越えれば冀州に入る。
「ご存じかと思いますが青州は黄巾の賊の横行が烈しく高唐も賊軍によって覆滅されました。
わたしもこのありさまです」
と劉備はさびしげに笑った。
「よしわかった。わたしはこれから青州と徐州の黄巾を討つつもりだ。
なんじは青州にくわしい。田楷をたすけて賊を鎮圧するがよい」
公孫瓚は劉備を別部司馬に任命し、青州刺史に任じた田楷を補佐させた。
この部署はひとつの幸運を劉備にもたらした。
公孫瓚のもとに、のちに名将となる器がまだ無名のままおかれていた。
趙雲 である。
劉備のもとへやってきた趙雲をみたとき、何とすがすがしい男か、
っと劉備はいきなり好感をいだき、語り合ってみて、さらに評価を高めた。
劉備の左右にいる関羽と張飛は、寝るときも劉備と同じ牀をつかうといわれるほどの人物であるだけに
劉備に近づき親しむ者を嫌ったが趙雲に関しては「良器です」といい、嫌悪の色をあらわさなかった。

公孫瓚は軍を渤海郡にすすめて東光県で黄巾の大軍と激戦を行なった。
黄巾の賊はここでも大敗して青州へ引き返した。
「追撃するぞ」
公孫瓚の麾下から離れた田楷は戦勝の勢いをみなぎらせて青州に進行した。
苦しい戦いばかりしていた劉備はこれほどの戦勝を経験したことがない。
将がちがうと軍もかわるものか。
人はいちど大勝してみないと大きくなれないものだと劉備はつくづく思った。
劉備の兵は、はじめてめざましい働きをした。
関羽と張飛の他に趙雲が劉備の兵の主騎になったのであるから、その強さは強烈であったが、
その功によって劉備が平原県の令に任命されるまで、その存在に注目する人はほとんどなかったといえる。
やがて平原の相になった劉備は、関羽と張飛を別府司馬に任じて部隊を指揮させた。

趙雲は兄の喪のために故郷に帰ることになったので、二度と公孫瓚の元へ来ることはあるまい
と感じた劉備は別れ際に手を握った。この別れは残念でならない。
が、この愛情が趙雲に伝わったらしく
「けっしてあなたの徳に背かぬでしょう」
と言ってくれた。
この場合の徳とは恩と同義であろう。
劉備に仕える難しさは、劉備の左右にいる関羽と張飛の存在が大きすぎて
腹を割って話をすることができぬことである

  

■2026年9月25日(金)

「三国志」 第四巻 宮城谷昌光著 文春文庫

袁紹と公孫瓚が北方で戦っていた頃、
袁術は孫堅に劉表を攻めるように命じた。
孫堅は別な王朝を立てようとしている袁紹の企図には反対であり、
韓馥を恫して冀州を奪い去った袁紹も好まない。
そういう袁紹と組んだ劉表を倒して自分の正義を立てようと思った。
黄祖を破った孫堅は城を取り囲んだ。
黄祖は夜中に城から脱出して兵を集め戦ったがまた敗れた。
黄祖は山の中に逃れた。
孫堅は先頭に立って黄祖を追ってきた。
山中に馬を入れた孫堅は騎兵を分けて捜索させた。
たまたま孫堅は単騎になった。
眼下に敵将のあかしである赤幘がおもむろに通るのを見た兵たちは
いっせいに矢を放ち岩を落とした。
孫堅にあたったのは矢であったか岩であったか孫堅の最後だった。

痛い---
というのが袁術の実感であろう。
かれには孫堅という不世出の将軍をつかいにつかって天下を平定してやろうという欲望があった。
ほどなく袁紹軍が公孫瓚軍に大勝したことがきこえてきた。
まずい
豫洲を失い北の袁紹と南の劉表にはさまれそうである。
公孫瓚を北に追ったあとの袁紹は冀州のすべてを支配しそうであるのに
袁術は劉表の征伐に失敗したため勢力を南に及ぼすことができず
荊州の一郡を支配しているだけである。
富力も兵力も袁紹より劣ることになりそうなので腹立たしい。

孫策は父の孫堅が朱儁の軍に出仕した時、寿春に住んでいた。
その地で十五歳にならぬうちに名士と交わりを結んだ孫策は
成人になるまえにひろく名前を知られるようになっていた。
そこで孫策は同じ年の周瑜と知り合った。
たちまち意気投合してしまった。
やがてふたりの友情は金属をも断つほどに強くなった。
周瑜のすすめもあって、孫家は周瑜が住んでいる舒へ居を移した。
周瑜は孫氏の家族を歓迎し、道の南にある大きな屋敷を提供し、堂にのぼって孫策の母に拝礼した。
両家は助け合って暮らすようになったのである。

周瑜の家はまぎれもない名家で、祖父の兄弟のひとりである周景は大尉の位に昇った。
周景の子の周忠は王朝にいて、献帝が即位した年に大司農となり、初平三年(192年)には大尉を拝命することになる。
周瑜の父の周異は洛陽県の令であった。

ところが孫策に苦難が訪れた。父の孫堅が亡くなったのだ。
「父の帰葬をおこなわなければならない。これでもう君には会えぬのだろうか」
父を喪い真友と別れねばならない孫策の悲嘆は烈しかった。周瑜は強い語気で、
「志がおなじであるかぎり、かならず会える」
と、いって、孫氏の家族を見送った。

孫策は父の遺骸を奉じて、揚州の呉郡にむかった。
曲阿に父を葬り、江都に居を定めた。
江都にはひとりの賢人がいた。
張紘 である。
名士と交わることを好む孫策は張紘に面会したくなりその門をたたいた。
「方今、漢王朝は中絶しそうであり、英雄俊傑はおのおのの兵を擁して営利をおこなっているのに
危うきをたすけ乱れを救う者はあらわれておりません。
亡父は袁氏とともに董卓を破り、功業が成らぬうちに、黄祖に害されて死にました。
わたしは暗稚(あんち)ではありますが、ひそかに微志をもっており、
袁氏から亡父の余兵をもらいうけて、丹陽の舅氏(おじ)の元へ行き、
離散した兵を収合し、呉と会稽を本拠とし、仇を報じ恥をすすぎ、
朝廷の外藩になりたいとおもっていますが、あなたのお考えは、いかがでしょうか」

はじめはなかなか同調してくれなかった張紘だったが、
「昔、周王室がかたむいたとき、〜〜〜〜〜〜〜
もしも丹陽にゆかれて呉と会稽の兵を収合なされば、荊州と揚州をひとつにすることができましょう。
仇を報ずることもできます。群賊どもを除き誅して、漢王室を匡輔(きょうほ)することができ、
その功業は斉桓と晋文にまさるともおとりません。
朝廷の外藩で終わりましょうか。方今、世は乱れ、多難です。
もしも功をたて、事を成したら、同志のかたがたと南へ向かい江をお済(わた)りになるとよろしい」
涙をながしていた孫策の目がにわかに輝いた。
「あなたと志が一致したうえは、どうか永くおつきあいください。わたしはただちに出発します。
老母と弱弟をあなたにおあずけすれば、わたしには後顧の憂いがなくなります」

 

もうこのぺーズで書けそうにありません。はやく12巻まで読みたい。。。