耳もとに、吐息がかかる。
ただそれだけのことで、前進をかけぬける熱い戦慄。
「ぶ……、ぶ、聞仲……」
思わずもらして、身じろいだ。 焼けつくような、肌の感触。
きたえぬかれた鋼鉄のような筋肉が、強く私をおおう。この腕の中をのぞいて、私のいるべき場所はない。
そんなことは、お互いに、わかりきっていたはずだった。
それを……、どこでどう、まちがえたのだろうか?
いや、もう、そんなことはどうだっていい。
今、こうして、私たちは肌を重ね、溶けあおうとしているのだから。
「季子さま……」
低く私を呼ぶ、その声の響きが、私の陶酔をあおる。
陛下ではなく、季子さまと……、そう呼んでくれているのだ、聞仲は。
私は、思わず目を開き、私をのぞきこむ、愛しい男を直視した。
ほんの少し藍色がかった瞳が、真摯に、私を見下ろしている。そして、その瞳の中に、いまにも泣いてしまいそうな、私がいる。
そう……、私は子供にかえったようだった。
昔のように、聞仲が「季子さま」と呼んでくれたという、ただそれだけのことで、嬉しさが胸に迫って、涙がにじみそうなのだ。
「聞仲!」
胸にすがりつこうとする私を制して、聞仲のくちびるが、私のそれに重なった。
しのび入った舌が、ゆっくりと、余裕をもって、歯列をなぞり、口腔をまさぐる。
無意識のうちに、私の舌もそれに答えて、生き物のようにからまってゆく。
どこまでが自分で、どこからが聞仲なのか、わからなくなってしまうほどに、肌は密着し、日だまりの匂いを、私はむさぼっていた。
いつも、そうだった。
聞仲の身体は、日だまりの匂いがする。
夏草がしげり、青々とした木々が風にゆれる森の中の日だまりのように、あたたかな匂いがする。
甘い樹液を満喫するように、私は、聞仲の唾液を吸う。
甘美な、あまりにも甘美な安らぎに、私は酔いしれた。
骨格のしっかりとした指が、私の肌をまさぐる。身体の奥の泉から、じんと、熱いものが、こみ上げてくるようだ。
その指の動きを追うように、焼けるような口づけが、喉元から胸へと下がっていく。
「ぶ……、ああっ、ぶ、聞仲……っ」
私はのけぞり、聞仲のやわらかな髪をつかんだ。
乳首が、熱く、濡れた感触におそわれる。
「あっ、あ……」
痛いような疼きが、背骨をつらぬき、指の先までふるえが走る。
ふいに、聞仲のぬくもりが遠ざかり、私の足は軽々と開かれた。
「いっ……、いやっ、いやだ……」
窓に顔をのぞかせる十六夜の月が、白々とした光で、すべてを照らし出している。
すべてを聞仲の目にさらす羞恥に、頬が燃えた。
見なくても、わかっていた。分身はもう、きつすぎるほどに張りつめているのだ。 悶えは、やすやすと封じられ、秘められた蕾に吐息が触れる。
「あああああっ、あう……」
ひだをわけて侵入する舌の感覚は、泣きたいようなじれったさを、掻き立てた。
「きっ……、季子さま……」
ささやき声とともに、私の分身はしっかりと聞仲の手におさまり、そして、たぎりたった聞仲のそれが、私の中に入ってきた。
「ああっ、あっ、あああ……」
おさえようもない喘ぎが、くちびるから漏れる。
限りなく愛しい男を身体の中に受け入れる、この、悦楽!
じんわりと、容赦なく突き上げるものに、熱く満たされることの歓喜!
体液がまじり、肉がまじる。
力強いうねりに、肉体が……、そして魂が、解放されてゆく。
「ああああああああ、ああっ、聞仲っ!」
「きっ、季子さま!」
ほとんど同時に、私たちは達し、弛緩した肉体を重ねて、たがいの鼓動を聞いた。
花々の舞う天空を、神々に祝福され、二人してどこまでも、ただよっていけるような気がする。
「聞仲……」
私は、胸に抱いた聞仲の頭を、そっと撫でながら、声に出した。
「季子さま」
顔を上げた聞仲が、私の瞳をのぞきこむ。
その彫りの深い、鋭利な顔立ちが、梨の花がほころびるようなやさしい微笑に、ゆるんでいた。
今ならば言える。言うことが、できる。
「聞仲……、行かないでくれ。どこへも、行かないでくれ。おまえがいなければ、予は予でなくなる」
しぼり出すような私の声に、聞仲が答えた。
「どこへも、行きはしません。季子さまを置いて、どこへ行くことができましょう?」
深い、その声の響きに、私の目尻を、安堵の涙が伝う。
「ほんとうだな? ほんとうに行かないでくれるのだな……」
そうだ、最初からこうすればよかったのだ。素直にいえば、きっと聞仲は、私のそばにいてくれたのだ。
だのに、だのに、だのに……。
薄墨色の不安が、急速に私を捕らえる。
これが、現実であるはずがない!
聞仲がどこにも行かず、私のそばを離れずいてくれるなどと、そんな夢のようなことが、あるはずがない!
「聞仲っ!」
強く抱きしめようとした私の腕は、むなしく、空をきった。
「ぶ……、聞仲?」
自分の声が、しんと静まりかえった寝室に、かすかに木霊する。
柱に埋め込まれた玉の輝きが、はっきりと目に入った。
夢だったのだ。
やはり……、夢だったのだ。
夢とかわらないのは、寒々とひろい寝室を満たす、十六夜の月の光ばかり。
さわさわと、木々が風に鳴る。
そのざわめきが、胸にわだかまった鬱屈を、ひそやかに掻き立てた。
「ああ、聞仲……」
私には、言えなかった。
行かないでくれ、というその一言が!
いつも、いつも……、そうだったのだ。
私は、私は……、王になど、なりたくはなかった。聞仲が、望みさえしなければ。
生みの母親に疎まれた私にとっては、聞仲がすべて、だった。聞仲の愛を得ることができるならば、全世界と引きかえにしてもよかった。
しかし、聞仲はちがった。聞仲が心底愛しているのは……、私ではなく、殷なのだ。
自らが創り、何百年もの間、守り通してきたこの国なのだ。その長い年月を前にしては、たった一代の王にすぎない私になど、どれほどの価値があろう?
しかし、私には聞仲しかない。
聞仲がいなくては、私が私として生きていくことさえ……、できないのだ。
求め、餓え、得られず、私は、母が予言した通り、国を滅ぼす化け物となった。
私の魂は分裂し、後宮の女に乗り移って、妲己という、邪悪な化け物が出現したのだ。
彷徨い出た私の魂の半分は、おそらく、聞仲が愛してやまないこの国、殷に嫉妬し、滅びてしまうことを、望んだのだ。
妲己が殺した人間を、数え上げればきりがない。
周の跡継ぎだった伯邑考。
私は心底、うらやましかった。一族から愛され、まっすぐに育った彼が。
後宮の女たち。
私は心底、いやだった。子種をばらまくために女を抱かなければならない、王としての義務が。
そして、重臣たち。
私は心底、疎ましかった。亡き母の予言を信じ、不信の目で私を見る重臣たちが。
そして、私の分身は、その殺戮が国を蝕み、滅ぼしてゆくのだと、十分に知っていて、やったのだ。
妲己が私の分身であることに、聞仲だけは気づいていた。
気づかれたと知って、私は怯え、ますます心を閉ざさざるをえなかった。
行くなとは、いえなかった。とても……。
聞仲は私に一言の文句もいわず、ただ、黙々と戦場に赴いた。
容易な戦いではないと、それだけは、私にもわかっている。仙であるおまえでさえも、死ぬことがありえると。
聞仲……、もしもおまえが死んだなら、私は一刻も、私であることができないだろう。
どうか、無事でいてくれ……、聞仲!
薄雲が月をよぎり、さっと闇がしのび入る。
私は、冷たい床に足をおろし、自らの影を見つめて、立ち尽くした。
だれを、恨むこともできない。恨む筋合いもない。
国を滅ぼすことの重みが、今さらのように私を打ちのめす。
私には、わかっているのだ。
この戦は、敗北に終わる。
殷の民は殺戮され、あるいは奴隷とされる。
羌族の出身だという周の軍師、姜子牙という男は、容赦のない戦いをする。
おまけに、わが殷の民と羌族には、長い不和の歴史がある。羊の群れを飼って生きる羌族は、作物を荒し、次々と大地を、不毛の砂漠にかえるのだ。
周は、その羌族を味方につけ、有利に戦いを進めようとしている。
黄飛虎には、気の毒なことをした。
彼とその一族が殷を出て行ったのは、損得勘定ではない。後宮にいた彼の妹を、私が自殺に追いやったそのことが、どうしても、許せなかっただけなのだ。
そしてたまたま、彼らの一族は、周と縁続きだった。
飛虎の妹に、罪はなかった。私の後宮に入ったということ以外、なにも。
この戦が終わるとき、黄一族は、ほとんど生きていないだろう。
殷の重臣だった彼らが、周で信用されることは、絶対にない。常に戦いの最前線に出されて、滅びる運命にあるのだ。
周が勝者となったとき、どんな残忍な殺戮も破壊も、すべては正当化される。
歴史とは、そんなものだ。
私は、王としての最大の義務を、投げ出してしまった。自国の民を守るという、もっとも重要な義務を。
それを思うと、ただただ慚愧が、胸を蝕む。
「聞仲……」
私は、すがるようにその名を、声に出してつぶやいた。
と、その時だった。
私の耳はたしかに、応えを捕らえた。
「季子さま……」
驚いて顔をあげた私の目の前に、幻のように、なつかしい、その人の立ち姿があった。
「ぶっ、聞仲っ!」
月光にふちどられ、後光をおびたようなその顔の表情は、陰となり、さだかには見てとれない。
夢だろうか?
いや、夢ではない。
夢ではないが、しかし……。
私にはわかった。
夢ではないが、実体のない、幻なのだ。
見開いた私の瞳はうるみ、聞仲の幻が、ゆらゆらとゆらいだ。
いわなければいけない! いまこそ、いわなければいけないっ!
聞仲の魂魄が、今、この時、地上を離れようとしているのだ。
「ゆっ、逝くなっ! 逝くな聞仲っ! 予は、予はっ……」
あとは嗚咽に消えて、声にならなかった。
魂がひき千切られるようなこの苦痛の中で、それでも人は、生きていかなければならないのだろうか?
国が滅びてもいい!
民が殺されることも、しかたがない。
いや、世界が滅びてもかまわない。
それでも聞仲には、生きていてほしかった。
「季子さま……、お苦しめして、申しわけございませんでした。戦いの半ばで倒れた身を、お許しいただけましょうか」
「なっ、なにを……、ぶ、聞仲……」
聞仲の手がすっとのびて、言いよどむ私の手をとった。
なんの感触もなかったが、ただなにか、あたたかなものに、つつまれたような気がした。
嗚咽をのみ込み、ふるえるくちびるから、言葉を押し出す。
「予こそ……、予こそ謝らねばならない。おまえの創った殷を……、おまえが大切に守ってきたものを、予がっ、予が、滅ぼそうとして……、おっ、おまえの命までっ!」
月の光そのもののように静かな声が、私を制した。
「季子さま。季子さまは、誤解をなさっておいでです。たしかに、私にとって殷は大切ですが、季子さまとくらべることはできません。たとえ殷を失っても、あなたさえいてくだされば、それでよかったのです。もっと早くに、それをお伝えすべきでした。お許しください」
「ぶ、聞仲……?」
自分の耳が信じられなかった。
また、夢を見ているのだろうか?
自分につごうのいい……、夢を。
夢の中で見たような笑みを、聞仲の幻は浮かべていた。
「季子さま、夢ではございません」
「ほ……、ほんとうに? ではっ、では、もう、予を残して、どこへも行かないと約束してくれるか? どうしても逝くならば、予も、ともに連れていってほしい……」
私の声は、信じられないほどのがしのび入り、豊かな、そしてしんと落ち着いた気分が四肢に満ちた。
「聞仲?」
「おわかりでしょう? 季子さま。聞仲は、おそばにおります」
低いその声は、すぐ耳もとで響いた。
「ああ、聞仲……」
今こそ、わかった。
私たちはおたがいに、かけがえのない半身だったのだ。
魂と魂が、肉体と肉体が、飢え、餓え、乾くほどにおたがいを求めあうことを、運命づけられていたのだ。
今の今まで、それがわからなかったとは!
人の子とは、なんと愚かなものなのだろう。
もう、二度と、妲己が現れることはないだろう。抜け殻となったあの後宮の女が、無事、天寿を全うしてくれることを、私は、願うしかない。
今の私には、私の末期を、見通すことができる。
私は、戦う。最後の最後まで。
それが、一国の帝たる者の務めなのだ。
そして……、自ら放った炎の中で、私の肉体は滅びるのだ。
魂は?
その時、私の魂魄は、どこへ行くのだろうか?
「季子さま、その時はともに、東へまいりましょう」
聞仲の声がささやく。
「東へ?」
「そうです。私たちの祖先の故郷、日出る海の彼方へ……」
「聞仲、おまえといっしょならば、私はどこへでも行く。おまえのいる処が、私の故郷となるだろう」
「……その地で、私たちはまた生まれ変わり、めぐり逢い、愛しあって、そして……、別離の苦痛に身をさいなまれるでしょう」
「そう……、もう、怖くはない。それでいいのだと思えるよ、聞仲。たとえ、どんな苦痛にさらされようと、私はもう一度肉体を持ってこの世に生まれ、おまえと……、愛し合いたい」
「ああ、ほんとうに……」
愛撫のようなそのひびきが、心地好く、耳をくすぐる。
月が大きく傾いた群青の空いっぱいに、星が存在を主張して、またたいていた。
月よ、星よ……、これまでに、幾万、幾億の人々が、別離の苦痛にうるんだ瞳で、おまえたちを見つめ、嘆いてきたことか。
そして、これからも、人は幾万回も、幾億回も、それをくり返すだろう。
大海の中の一滴の水にすぎなかろうと、砂漠の中の一粒の砂にすぎなかろうと、愛する者にとっては、かけがえのない命なのだ。
人の命は、花のようにはかない。
幾万、幾億のはかない命が、地上に咲き、散っていく、その重なりが、ほんとうの歴史というものだろう。
だれか、いつか、知ってくれるだろうか。
暴虐の限りをつくしたと伝えられる亡国の王にも、人を愛する心があったのだということを。
人の子として生まれた歓喜と苦痛を、ともに噛みしめていたのだということを。
王家に生まれても、奴隷に生まれても、人の子の愛と憎しみに、差異はなかろう。
それでも……、思うのだ。
今度生まれてくるときは、けっして、王に生まれたくはないと。
「聞仲、今度生まれ変わるときは、王と臣下ではない方がいいな」
「できうれば、そうありたいものです」
月よ、星よ……、おまえたちは知っている。
地上に生きるもののはかなさと、はかないがゆえの美しさを。
今度生まれてくるときは、人知れず咲く、野の花のようでありたい。野の花のようにひっそりと生きて、愛し、そして散りたい。
「夜が開けるな、聞仲」
東の空にかすかに射した輝きを、目を細めて見つめながら、私は、私のそばによりそう聞仲の魂が、無言のうちに頷くのを、肌で感じていた。