野間裕史
Last up deted 2000.1.19

簡単に書けば
京都市立堀川高校音楽科、東京芸術大学別科、大阪芸術大学演奏学科卒。
トランペットを八木茂夫(元京響)井上正彦(名フィル)北村源三(元N響)池田俊(元大フィル)の各氏に師事。
現在関西を中心にフリーのTrumpet Playerとしてソロ、アンサンブル、オーケストラ、ジャズバンド、など多方面で活動を続ける。またトランペットの指導、吹奏楽の指導、指揮、様々な編成による編曲も手がけている。
詳しく書けば
1961年(昭和36年)京都に生まれる
幼稚園の頃オルガンを習ってたらしい
京都市立京極小学校入学。
小学校3〜4年バイオリンを習う。があまりものにならず。
小学校6年の時、来年行くであろう中学がブラバンが有名と聞き、トランペットを吹く決意をする。
京都市立上京中学校入学、すぐにブラバンの門を叩き、入部する。
が、トランペット希望者が3人いて、全体のバランスを考えて1人がユーフォニウムに行かなければならないことになった。僕は死んでもいやだった!
そこでいろいろ考えた結果、楽器を買えばそのパートに残れるだろうと考え、親に頼んで楽器を買って貰った。
それを次の日、学校に持っていき先輩、先生に見せびらかした。それを見ていたもう一人が一週間後、楽器を買ってきた。
この作戦は見事的中し、残った一人がユーフォに行くことになった。
こうして僕のラッパ人生が始まった訳である。
一番最初に買った楽器は、ヤマハのインペリアル。これを買うまでは学校の楽器を使っていた。
上中のブラバンは非常に伝統のあるクラブで、いままで数々の日本を代表する演奏家を生んでいる。
京都という所は伝統ある学校が多く、多方面で優秀な人材が先輩にいて、僕のような凡人には荷が重いのである。
そういえば僕の出た小学校も「湯川秀樹」ちゅう人が出た といって随分手本にしなさいと言われたもんだ。
事の始まりは終戦後、旧制から新制の中学校になって、「上京中学校」なるものが出来たとき、山下清猛という先生がいて、その先生が進駐軍の払い下げの楽器をトラック一台分、当時の金で2万円位で買ってきて、ブラバンが誕生した。
この山下清猛先生は、現在打楽器奏者として世界中で活躍している 「ツトムヤマシタ」のお父さんである。
僕は直接お会いしたことはないが、晩年、洛南高校に転職され、現在の洛南高校の基礎を築かれた。その洛南の演奏会で指揮をしておられるのを何回か拝見した事がある。
発足当時のメンバーも今から見るとそうそうたる顔ぶれで、よく見せてもらう写真には体育館の前で、(僕が中1の時もまだあった!)山下清猛が指揮をし、八木茂夫(元京響)北村源三(元N響)がラッパを吹き、山田桂三(元N響)がホルンを吹き、塚本紘一郎と中川良平がサックスを吹き、兼田敏がアルトホルンを吹いていた。
山下先生の教え方は「出来るまで練習する」という、とても昔風の単純な方法だったらしいが、塾もなければ、テレビもろくにない時代、その練習は深夜まで及び、想い出話には「先生に屋台のうどんを食わしてもらった」という話が多い。
その甲斐あって素晴らしいプレーヤーが育ったのだから、その練習方法は間違ってなかったのかもしれない。
源三先生の話によると、当時毎日のようにトラックに乗って出張演奏に出かけているのを見て、「こりゃあいい!勉強せんですむ!これしかない!」と思い、入部したそうだ。
ところが、鬼のような先輩達にしごかれ、たまらんかったそうな。
中川良平はすでに才能を発揮していたし、兼田敏は楽器はあまり上手くなかった(興味がなかった)が、すでに中学の時に作曲や編曲のまねごとをし、「わしの書いた曲をあいつらに吹かせて、実際に音になるのが面白かった」そうだ。
昔の話は沢山聞いているので、またそのうち詳しく書きます。
で、僕が中1でクラブに入った時、最初に手にしたのはその時代の楽器だった。
ホルトンのシルバーのコルネットである。ベルには「U.S.Army」の刻印がしっかりと刻まれていた。
そのほかにも、ベッソンのユーフォ、アレキのチューバ、キングのトロンボーン、金属製のクラリネットなど昔の舶来の楽器が山ほどあって、当時(僕が中1の時)まだ現役で使われていた。
でも、中1の僕には、その価値など分かるはずもなく、「緑青のべったり付いた汚い楽器」とは早くおさらばしたかったのである。
また話はそれるが、一番初めにてにした楽器で大体世代がわかる。
大昔は知らないが、大体 昭和10年代の生まれの人は「TANABE」というメーカーの楽器を手にした。
おそらく日本で最初の金管楽器製造メーカーである。田辺管楽器製作所という。
源三先生たちの世代である。
その次の昭和20年代の世代は「TO-KAN」というメーカーだった。
東京管楽器製作所である。
このトーカンが次の世代のニッカンの前身らしい。
昭和30年代は「NIKKAN」の世代である。
そして昭和40年代以降は「YAMAHA」の世代になるのである。
僕はニッカンとヤマハの丁度間の時代だったように思う。
ヤマハはまだ「カスタム」がなく、「プロモデル」までだった。
上中にはヤマハのプロモデルのC管のトランペットが一台あって、代々パートリーダーがそれを吹く習わしになっていた。(例にもれず僕も中3の時、そのC管を吹いていたが、もう一つピンと来てなかった。)
と言うことで買ってもらった「インペ」の楽器で練習してたわけだが、ブラバンは毎年8月にコンクールがある。当然一年はメンバーにはなれない。先輩達が体育館で合奏しているとき、一年は屋上でロングトーン というのが普通だった。
ある日、下校時間を過ぎてもまだ合奏しているので、僕も残って練習していると、突然、用務員のオッサンが「こら!いつまでおるんや!はよ帰らんかい!」と凄い剣幕で、屋上に上がって来た。
人が折角練習してるのにジャマしやがって、とその時 何を言ったか覚えてないが、とにかくそのオッサンにくってかかった。しばらくにらみ合いになってたような気がする。僕の目の前に青のシマのランニングシャツからでたオッサンの脇毛が ぼうぼうにはみだしてたのをよく覚えている。
このときはそれですんだように思ったのだが、僕が大学をでてから後、上中に遊びに行くと、「ああ、あの野間くんね」と知らない先生から言われた。そのオッサンとの一件は有名なんだそうだ。
10年以上を経て記憶に残っているということは、その当時、僕はどういう扱いを受けていたのだろう。
そんな事があって僕たちは屋上ではなく、馬小屋の前で練習することになった。
通称「馬小屋」というのが校門のすぐ脇にあって、(それは本当に馬小屋だった。おそらく旧制学校の時代からあったと思われる。源三先生の中学時代は実際に馬じゃない何か動物がいたそうだ。僕の中学時代はそこはパンと牛乳の販売所になっていて、昼休みになるとオッサンがやってきて 馬がいた方にすわり、僕らはその柵ごしに牛乳を買っていた。
これは一年の間だけで、二年位になると、こっそり校門から抜けだし、近所のファッショナブルなパン屋でデニッシュなどを買うのがはやりだった。
そんなこんなでワイワイと楽しくすごしていたが、ある日とんでもない事件が起こった。
アレは忘れもしない、確か中1の冬休み。いや春休みだったかな? う〜ん 中2になってからだっけ?休み中の出来事だと思うのだが、いや普通の日曜日だったかな?
まあそのへんである。
ブラバンのクラブボックスが荒らされたのだった。
犯人は窓ガラスを割って侵入し、ボックス内に置いてあった楽器、楽譜、その他手あたり次第に破壊した。
ティンパニは横からケリを入れられ、ボコボコにされ、ヘッドはカッターナイフで切り裂かれ、
スネアは踏まれて押しつぶされ、フルートは「く」の字にへし折られ、ホルンはスライドを抜かれ 窓からなげ捨てられ、ユーフォにおいてはスライドが行方不明になり(後にドブに捨てられていたのが発見された)、楽譜という楽譜は破られて散乱し、賞状、トロフィーのたぐいは黄色のスプレーを塗られ、・・・とにかく大変だったのだ。
勿論、警察がきて捜査を開始した。
僕を含む何人かの練習熱心な者(?)の楽器は、幸い家に持ち帰っていたため無事であった。(^^)
犯人はまもなく捕まったらしいが、詳しいことは一切知らしてくれなかった。
僕はいまでも知りたい。犯人の名前は無理でも、動機は是非とも知りたい。
何か情報を持ってる人がいたら
教えて貰えないだろうか?匿名でいいから。
中略
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(またあとで 続く)
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中略
中2の時、それまで吹奏楽コンクールで上中が必ず獲得していた「関西大会出場権」を逃し、その責任をとる形で全員ボーズになった。
このとき なぜか僕は堀川高校音楽科に行く決意を固めたのである
半分手遅れといわれながら僕は受験に向けてピアノを買って貰い、ピアノとソルフェージュのレッスンに通うこととなったのである。
トランペットはその当時堀川の先生だった八木茂夫(元京響)先生に習うこととなった。
いまから考えればここで間違って合格したのが運の尽きで、もう完全に逃げられなくなってしまったのである。
堀川高校での生活は今までの僕の常識を根底から覆すものだった。
小、中学校と音楽においては成績はトップクラスであった。5段階評価では5しかとったことがなかったのに、堀川は完全な絶対音感を持つものが37人中10人いて、まあまあの絶対音感をもつものが20人いた。僕はその残りの数人の中に入っていた。このような連中の中に入るといままでの自信というか誇りというかただ一つの自慢というか まあなんかそんなもんがガラガラと崩れ落ちてしまった。
このときの話ですごく印象に残っていることがある。ある時、僕は同級の女の子と一緒に歩いていた。(彼女ではない 彼女は別の子)その彼女ではない女の子が京阪電車の警笛を聞いたとき、「ああ これやからイヤになる」と顔をしかめた。僕は何のことか解らずに「何が?」とアホズラをして聞いた。すると「えっ わからへんの?」と言われ、またまたアホズラをして「何が?」と聞くと、「あの音低いやろ」というのである。
これは音感のある連中の中では有名なんだそうで なんでも京阪の音はFisとGの間の音なんだそうだ。又、「阪急沿線の人はうらやましい」と言ってた。阪急はピッチが正確なんだそうだ。
こんな連中と3年間一緒にいなければならないのである。
また話がそれるが、以前は京都市立堀川高等学校の中にある一つの学科として存在していた音楽科は、現在 独立して「京都市立音楽高等学校」という校名になっている。
これがまた僕には全然なじめなくて いまでも「堀川」というふうに呼んでいる。
世間の人たちも別に違和感は無いみたいだから、僕はたぶん死ぬまで「堀川」と呼んでいるだろう。
もう一つついでに言うと、「昔はホリオンと呼ばれてました」なんて話をよく聞くが、これもまたなじみがなくて、僕は一回もホリオンなんて呼んだ覚えはない。
「ホリカワ」(ホリカア)と呼んでいた。
僕の学年は全部で37人。そのうち男は5人であった。
この5人というのは多いほうで、例年は大体3人平均ぐらいだった。
勿論一学年一クラスで、クラス替えもあるわけはなく、三年間同じ顔ぶれで、まあ仲がいいというか 刺激が無いというか そんな感じで三年間を過ごした。
でも刺激はたまらなくあったね。
まあそういう学校だったから普通高校とは少し事情が違うところもあった。
何しろ女子高に毛が生えたような男女比率だから、男は自然と仲良くなる。
体育の授業のときは男が着替えに出ていく。
「男子コンパ」とか「男子・・・」という行事が頻繁に非公式に行われた。
今は無き「バ**」と言う店はシャッターを閉めて安全に?(どっちが)飲ましてもらったもんだ。
男子コンパでは「マヨパン」というのがあって・・・
まあ これはちょっと汚いからどうしようかな またあとで
堀川の男はとてもおっさんくさくて とにかく背伸びをしたがった。
女もおねえさん系でギャル系は皆無だった。
当時、女には制服(モリハナエだって)があったが、男は自由で、
中略
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(またあとで 続く)
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中略
大学時代、といっても別科は大学の単位はなく、まあ聴講科みたいな感じかな。
でも、とにかく東京に出られたのは幸運なことだった。
18年間生まれ育った京都を離れ、一人で下宿生活が始まる。
もうそれは 考えただけで笑けてくるほど 楽しみと期待で胸いっぱいであった。
勿論ホームシックになど一度もかかったことはない。
予定ではこのまま帰って来ないつもりだったんだが、どういうわけか現在は関西でうろうろしている。
結局、二年間しかいなかったが、この二年は僕の人生にとって非常に充実した二年間であった。
よく学び、よく遊び、いろんな人と出会い、別れ、音楽を含む人生の基本的な考え方というか 方向性が見えてきたと思う。
いままで知らなかった音楽のスタイル、ラッパの吹き方、ラッパを含まないジャンルの曲、酒の飲み方、麻雀の降り方、始発までの時間の潰し方、標準語の話し方、寝坊してもラッパが鳴る方法、コーヒーのいれかた、サンドイッチの切り方、
2000.1.19
続く
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