追跡 帝銀事件 (1981)
轍寅次郎 編著/晩聲社


事件後、全国に配布された手配書


帝銀事件の本を読もう、と思って最初に読んだのがコレでした。
いや〜、一発目から濃いのを選んでしまったものだと、あとから笑ったものです。
本書は、帝銀事件の犯人として死刑判決を受けた平沢貞通氏の「単独犯説」を、綿密な取材から得た情報をもとに真っ向から否定したものです。
この逮捕は冤罪の可能性が極めて高く、強引な逮捕劇の裏側には、おそらくはGHQや旧日本軍科学研究所といった弩級のモンスターが潜んでいるのではと今でも考えられています。そういう時代背景での事件でした。

ここで帝銀事件をおさらいしてみましょう。


◆帝銀事件◆
昭和23年1月26日。
東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店。閉店直後の午後3時すぎに、「東京都の者」と名乗る、40半ばくらいの男が訪れた。男は「この近所の井戸の使用により4人の赤痢患者が発生した。患者の同居人が本日この銀行へきたことがわかったのでここも一切を消毒する、よって進駐軍のホートク中尉の指揮で消毒班が到着する前に全員に予防薬を飲んでもらうことになった」と言って、行内にいた16名全員に2種類の薬剤を飲ませた。行員は二液目を飲み終わったあとバタバタと倒れ、その隙に犯人は現金・小切手合わせて18万余円を奪い逃走。その際に、使用した名刺や薬瓶などの物証をすべて持ち去っている周到さだった。
使用された毒物は青酸化合物と見られ、12人が死亡、4人が重傷を負う戦後初めての大量殺人事件となった。
写真1※警察では、生存者の証言により、犯人が薬品や器具の取り扱いに長けていることや、毒薬の効果、発現時機までも踏まえた犯行であることから、毒物を熟知している旧日本軍の生物兵器開発関係者などを対象に捜査を進めていた。
ところが事件から半年後、北海道小樽在住の有名なテンペラ画家、平沢貞通が逮捕される。帝銀の2ヶ月前、さらに一週間前に、それぞれ別の銀行で酷似した未遂事件が発生していたため、これらすべてを同一犯と見た警察は、最初の事件で使用された名刺の人物に事情聴取し(2番目の事件の名刺は架空の人物だった)、名刺を交わした相手ひとりひとりに名刺の所在を確認した結果、紛失していた数人のうちのひとりが平沢だった。
毒薬の知識があるとは思われない平沢だったが、口座に出所不明の大金を持っていたことや、前年に4件の詐欺事件を起こしていることから、真犯人と断定され、やがて自白に至る。
しかし第一回公判から平沢は自白は強要されたものとし、無罪を主張。弁護側から平沢を無実とする証拠や証人が提示されたが、昭和25年、帝銀の強盗殺人ならびに2件の強盗殺人未遂犯として死刑判決。以降、再三に渡る再審請求も棄却され続け、昭和62年、肺炎により95歳で死亡。
刑の執行はされず、さりとて再審も受けられないまま39年間、死刑囚として獄中生活を送った。
帝銀事件は、外国の占領下という特殊な状況の中で起こった、現在も謎の多い不気味な事件であり、また当時の警察の見込み捜査や暴力的な取り調べにより、やってもいない犯行を押し付けられたまま刑が確定する「冤罪」という悲劇の最たる例と言われている。


●真犯人を突き止めた(?)

平沢氏は無実を訴えながら1987年(昭和62年)に、95歳で獄死しました。今でも、養子の武彦氏と支援団体が平沢氏の名誉回復のために再審を求めています。
本書はまだ平沢氏が存命中に書かれた作品であり、作中で平沢氏と手紙を往復し、推理を裏付ける作業を行っているあたり面白いです。
お気づきの通り、この本は「編著」となっており複数の「帝銀ヲタ」が取材・構成しています。
帝銀事件は、その謎の多さや毒殺という犯行方法など、ジトジトと陰湿な雰囲気がマニアの探究心をくすぐるところがあるのです。

前半の第一部では、同一犯説がいかに不合理であるか、そして複数犯説にいたる論拠を並べることで、不審な点が多い平沢証言の謎を解明しつつ、真犯人まで突き止めています。
第二部では、使用された薬物が検察側が主張した『青酸カリ』以外の青酸系の毒物である理由、なぜ いきなり『青酸カリ』の名が裁判過程で出てきたのかを検証します。


●占領下の日本

写真2※それにしても、わたしたち現代の人間から見ると、なぜ被害者らはこんなに簡単に騙されてしまったのだろう、と思ってしまいますが、当時は伝染病は今よりももっと身近な脅威だったという背景があります。まだ国中に戦禍の跡が生々しく、人々の生活の衛生状態、栄養状態は決して良くありませんでした。また、何度も大空襲を受けた東京では、終戦から3年を過ぎたこの頃でも、帝国銀行を始め、多くの企業が焼け残った民家などを借り受けた仮店舗で営業しており、物資が不足する中、従業員は地下足袋やもんぺ姿で仕事をしていました。さらに戦火で破壊された電話線の復旧が進んでいない地域も多く、正確な情報を迅速に得ることができない状況や、さらには国を支配する連合国軍という絶対的な存在など、日本はまだまだ復興途上とも呼べないほど、混乱していたのです。


●隠滅された犯人像

とはいえ、帝銀事件の予行演習だったのではと言われている未遂事件2件では、どちらも支店長が慎重で、犯人は目的(毒殺?強盗?)を遂げず立ち去っています。2件目に置いては業務に支障が出ることを嫌った支店長が消毒に不服を申し立てたため、犯人は手形一枚に薬を振りかけただけだったので、銀行からは警察にも届け出ていません。1件目など小使いに不審を抱かれ、本当に伝染病の発生があったのか派出所に問い合わせられた挙げ句、確認に来た巡査と会話を交わしている始末です。
では被害を受けた帝銀の支店長代理(支店長は当日欠勤していた)は思慮が浅かったのか?
本書が「単独同一犯説」を否定し、「複数犯説」を唱える要因はここにあります。
帝銀事件の犯人と他2件の犯人像が異なるのです。
行員全員にみじんも疑問を抱かせない圧倒的な雰囲気や、犯行後の冷静な後始末といい、残忍で冷酷で用意周到な犯人像が浮かび、無駄口が多かったり足がつくような物証を残している未遂の方とはどうも一致しません。
それぞれの事件の証人が見た印象も、犯人の人相や推定年齢にバラつきがありました。平沢氏の首実検の際には、前2件は「彼に間違いない」という証人がいましたが、帝銀の方では「違う」とはっきり答えた証人がいるのです。

この本では平沢氏は帝銀事件と無関係ではないかもしれないが、帝銀事件の犯人ではあり得ない、と主張しており、まったく関与してないとは言っていないのが興味深いです。


●第四の男?

さらにもうひとつ。帝銀で盗まれた小切手は翌日の午後2時40分頃、安田銀行板橋支店で換金されています。ここで誰でも疑問に思うでしょう。あれほどの大事件を起こして盗んだ小切手を、翌日のしかも閉店間際の銀行にノコノコとやってきて、あっさり換金に成功しているとは、いくら戦後の錯綜時とはいえおかしな話です。
これには警察の信じがたいほどの大ミスがありました。被害金額が判明したのが事件の翌日午後2時という遅さに加え、他銀行への手配はそのまた翌日の28日にされる予定だったなど、のんびりにも程があります。そして犯人の方も換金に来たタイミングもさることながら、小切手に裏書きがないことを行員に注意され、「その場」で「自筆」で裏書きをし、筆跡という物証を残す間抜けさ(住所氏名は勿論デタラメですが)。まるでどうやって手に入れた小切手なのか「忘れて」いるか、「知らない」かのような軽挙です。
(この裏書きの筆跡は平沢氏のそれとは違うと鑑定されていますが、おかまいなしに裁判は進みます)
そして一連の事件の犯人が一貫して「品が良くインテリ風」に見えたのに対し、板橋の行員が見た人相は「土建屋風」とまるで逆です。


●捜査急転換の謎

これだけの矛盾がありながら、なぜ平沢貞通氏ひとりが罪を負うことになったのか。
捜査は大きく分けてふたつの流れで進んでいました。旧日本軍の残党と、犯行現場における唯一の物証「名刺」の線です。当初、警察が描いていた犯人像は「医療、薬学、理化学、防疫関係者、あるいはそれに係る職歴、技能、知識、経験がある者」だったはずが、突然、帝銀の物証ではない名刺班の捜査が本線となり、医療や毒薬に詳しいはずもない平沢画伯が捜査線上に浮かび上がってくるわけです。
松本清張が『日本の黒い霧(文芸春秋社刊)』の中で言うように、まるで捜査が「一つの壁にぶつかって急激に旋回した」かのようです。短絡的にすべてが単独同一犯とされたことも、この方向転換と無関係とは言えますまい。


もちろん、いくら時間をかけて取材したとて、法廷の場で明らかにしない限り反証としての力はありません。そうであるならば、ここに書かれていることが真実かどうかは我々にはわからないのです。告発ではなく、あくまでノンフィクションと銘打った出版物でしかないことは、ほとんどの人物を匿名にせざるを得なかった苦渋として書き添えられています。著者らから事実確認を受けた平沢氏も、積極的に協力していません。一体、平沢氏の本当の闇とはなんだったのでしょう。
丹波哲郎の『霊界旅行』という本によると、人間は死んだあと過去のどの時間をも訪れることができるそうです。アタイは絶対に、帝銀事件の真相をこの目で確かめに行きたいと思うのです。


写真1/事件直後の行内
写真2/進駐軍総司令官D・マッカーサー元帥

モドル