ずっと以前のことになるが、「地獄については二度のトラウマがある」と雑記に書いた。 一度目は小学生のときに見た学級文庫の『地獄百科』、そしてもう一度が、母が古本屋で買ってきたこの本を読んだときである。 前者は、地獄の無慈悲で残虐な拷問の絵の数々に怯えたものだが、『霊界旅行』では死後、自分が裁かれることそのものへの恐怖に恐れ戦いた。 ところで俳優・丹波哲郎がなんで心霊研究などに関わっているのか、この本以外全然読んだことがないので調べたのだが、自身が幼少の頃、腐った饅頭を食べて死にかけたときに臨死体験をしたそうで、そのへんからかと思われる。 前作『丹波哲郎の死者の書』を、死後世界の著作の最初で最後にするつもりであった著者が、読者のあまりの反響の大きさに再び筆をとったという体裁の今作(ものっすごゴーストくさいけどなあ)。丹波氏がまだ書かなければならないことがある、と思い直したきっかけは、数多く寄せられた読者の手紙の内の、ある一葉から始まったのであった。 |
■あらすじ
昭和25年11月7日午後7時頃、高知県香美郡美良布町の県道を走っていた国鉄バスが運転ミスにより約50メートル下の物部川に転落、大破し、死者33名、重傷者26名を出す国鉄バス初の大事故が起きた。この事故の発生から、死者らの魂がやがてどこに行ったのかまで、現世の人間でありながら一部始終を見ていた男がいる。丹波氏に手紙をよこしたのは、その男の息子X氏であった。彼が送ってきた古びたノートには、事故で死んで霊となった25人の旅立ち、別れ、あるいは出会い、堕落、転生など、すべてを見、つづった亡父の日記があった。 |
●神に選ばれた少年 手紙をよこしたX氏の父親という人が、なぜに死者の世界を覗き見るハメになったのか。 話は明治16年にさかのぼる。平家ゆかりの地、土佐山田の在所村(壇ノ浦入水は替え玉による偽装で、実際は土佐に落ち延びたという村史があるんだそうな)というところでは、安徳天皇の御陵(墓)があると伝えられており、村民の間でこれを発掘しようという話になったが、どうも天変地異に邪魔をされる。すると一人の巡礼姿の男が現れ、「15年後に村の14、5歳の子供を集めて神賀山に登らせれば、神がその中から一人選ぶだろう、その少年に掘らせなさい」という。 15年後、言われた通り少年らを山に登らせたところ、急に天気が荒れ始めたかと思うとあの巡礼男が現れ、一人の少年を指し「50年後、この少年によって平家の霊は浮かばれましょうぞ」と祝福したという。 お前が選ぶのかよ、という突っ込みはさておき、このとき選ばれた少年というのが後のX氏の父親であり、50年後の昭和8年から御陵を探して山堀りに余生を尽くしたのである。 御陵はとうとう見つからなかったが、くだんの事故当日、発掘作業中に例の巡礼男が現れ、もうじき近くで多くの死者が出る事故があること、そしてその後のすべてを見るだろうと告げられたというわけだ。平家の霊はまあ、もういいらしい。 と、ここまでは物語のつじつまを合わせる傍話に過ぎん。本題の「死後の世界」とはどんなところなのであろうか。 |
●霊界層の全貌 簡単に図にすると、↑こうなんだそうだ。 まず人間界で体と霊が分断されると、霊は“光の存在”の導きにより「精霊界」に行く(行かずに人間界にとどまる霊が「地縛霊」)。 精霊界で<光の存在(死後世界のスタッフ)>とのディスカッションなどにより、死との折り合いをつけて霊が「素」の状態になったら「霊界」に行く。霊界では価値観も能力も似通った人たちと同じ村に住み、こころ穏やかな生活を送ることができる。ここに来ると「帰ってきた」ような気持ちになるんだそうだ。さらに徳の高い人は「天界」に行くことができ、その上層には宝石を散りばめたような美しい「天上界」がある。 なんらかの理由で転生する場合は霊界から。 で、魂が腐れてる者はやっぱり、「地獄界」へと堕ちる。やっぱあるのかよ〜(地獄界については後述)。 |
●精霊界の洗礼 先に述べたように、精霊界は素になった魂が霊界に行くか地獄界に行くかの分岐点になる場所であり、死んで最初に行き着くところでもあるので、着くとまず自分の人生と向き合わなければならないらしい。そのために、あろうことか、自分のこれまでの人生のダイジェスト映像が、空の雲をスクリーンにした超巨大パノラマビジョンで上映されるというのである。一緒に死んだ人はもちろんのこと、精霊界に住む縁もゆかりもないすべての者たちに、自分という人間が陰陽明暗問わず曝け出されてしまうんである。 これはイヤダ!!!! この本を読んで恐怖したのは、この部分のみと言っていい。 世の中を騒がすような大罪は犯しちゃいないが、それでも思い出すだけで喚きたくなるような惨めな過去はいくつもある。キツい。これはご勘弁願いたい。 ここでこれほど嫌がってるあたりで地獄行きの線が色濃くなっているのがさらにまた恐ろしい。普通は何ら臆することなく、懐かしい思いで眺められるのかもしれない。 X氏の父親がこのスクリーンで見た何人かの死者たちの人生は…、苦労続きでやっと幸せをつかんだ矢先だった者、家庭に恵まれず不幸なあまり酒に溺れた者… 中でも隠し事は一切できない精霊界スクリーンの威力を思い知らせたのは、さして村でも目立たなかった中年男の過去である。 毒にも薬にもならない、ただの刃物屋だと思われていたが、実は子供の頃から腕っぷしが強いだけがとりえの乱暴者、戦争中には戦地で女や年寄り相手に非道の限りを尽くし何食わぬ顔で復員していたと言うもの。 この男や、暴力大好きなヤクザ者、金儲けよりも人を陥れることに喜びを覚える詐欺師などは、いつの間にか姿が見えなくなり、後に地獄界で再会することになる。 精霊界では一緒にいたい人といることができるが、やがて家族や恋人はバラバラになるのが普通だと本書は言う。人間界でのしがらみや執着に囚われることなく、個人個人が自由に、気持ちの赴くままに生活していくとそうなるんだそうだ。 生前の病や肉体的なハンディキャップはキレイになくなり、外見はだいたい二十歳くらいに落ち着くという。 |
●地獄に堕ちた人たち で、精霊界でむき出しになった魂が、ダメだこりゃな者が「地獄界」へと堕ちるのだが、ここではとりたてて罰を与えられる訳ではなく、欲望のままに過ごして良いが、なにせ腐った魂ばかりが集まっているので、狂気のような暴力や性欲に溺れたり、他人を疑ったり欺いたり、泥のような怠惰に身を任せたりの混沌とした世界だという。決して満ち足りるということはなく、いつまでも渇望する穢い欲望をもてあましながら、ずぶずぶと落ちて行くんである。 救いのない暗く腐臭ただようこの世界では、人はみなその性根が表に現れ、さながらスクリーミング・マッド・ジョージワールド。凶悪な者は怪物のように醜く、心が矮小な者はは虫類のような卑しい面体になってるそうだ。 ところでバス事故で亡くなった中で、地獄界に堕ちたただ一人の女は、生前は真面目で身持ちの堅い県職員であり、水商売をする姉とそのパトロン(ともに死亡して霊界へ)を蛇蝎のごとく嫌う潔癖な女だったが、さにあらん、その実体は高慢なあまり自分をさらに高く売ろうとしていただけの打算的な女で、ホントは嫉妬深く色情狂という「ひとり七つの大罪」みたいな人間性だったため、地獄界に堕ちてからはヘドを催させるおぞましい性の狂宴に耽溺していたという。その姿はすでに人のものではなく、涎を垂らし獣の咆哮をあげる淫獣であった。 しかし、いくらその世界が悲惨で醜悪でと言われたところで、本人にふさわしい場所に堕ちたというだけで、それほどイヤな場所ではなさそうだなあ。(あー、ウソよイヤよイヤ) |
●死後の世界なんかない!…と思う さて、あれだけ鬱々とした気分で読み終えた本書を、今回読み直してみたのだが、やけに同じ人間関係で一緒に死んでいたり、ラストはキチンとオチているあたり、やっぱ正直嘘くさい。 また、途中途中にさまざまな文献を参考にした丹波哲郎の注釈が入ってるんだが、ときに引用なしに著者の注として「ここで日記の筆者は根本的に間違っている」などと自分の知識をもとに全否定しているのが鼻につく。なんでおまいにそんなことが言い切れるのかと。 ほかにも地獄に堕ちた者たちは、多くの犯罪者と同様に大抵不幸な子供時代を過ごしている。ということは愛情を注いで育てられたならば別の道があったかもしれないという可能性が残りはしないか。だのに幼くして死んだ無垢な魂は例外なく「天使要員」として天界に行けるんだそうだ。 幼い魂が無垢だと言っているのに、環境に汚されてしまった魂には死後も苦しめと言う。おかしな話である。 そもそも何で人間ごときだけにこんな大層なシステムが用意されていると思うのか。いったい生き死にというシンプルな自然現象の中で、我々が畜生と呼ぶものとどれだけ違うと言うのか。もっと言えば神が人間の姿をしているという時点から思い上がりも甚だしい。 したがって、個人的な意見であるが死後の世界などない、と結論づけたい。 しかし。 本書のまえがきにも書かれているように、地獄や天国があるかもしれないことも念頭に、この世を、今をいかに生きるか、なにを遺せるかを模索しながら真剣に生を営むことができるなら、誠に有意義なことだと思う。それは人間のたったひとつの特権であると思う。 |