The Shining (1980)



監督/スタンリー・キューブリック
原作/スティーブン・キング
主演/ジャック・ニコルソン/シェリー・デュバル


昔、知識としてキューブリックもなにもあったもんじゃなかった時分に観て、ただごとではないと思った作品です。映画のパッケージはショッキングな一場面を使用していますが、内容はもっと閉塞感に満ちた陰鬱な怖さが中心です。
立体や奥行きを非常に上手く使った臨場感溢れる映像、感受性のイヤ〜なところを突いてくる恐怖描写は秀逸です。

ラストがいまひとつわかりにくく、自分の解釈にも自信がなかったので後年、原作を読んでみたところビックリ。二度おいしいことになっておりました。この映画はS・キングのホラー小説「シャイニング」の映画化というよりも、S・キューブリックの美意識が炸裂した、いちホラー映画作品だったようです。

オリジナルありきの映画がオリジナルとあまりに違っていたときに「原作と映画は別物と考えるべき」なんてよく言われますが、この映画ほどそうすべきものはない。それぞれまったく別の魅力が片手落ちすることなく表され、それぞれの分野で「傑作」と呼ばれ続けている特異な例ではないでしょうか。

書くまでもないかもしれませんが、お話のあらすじはこうです。

コロラド山頂からの絶景を見下ろすオーバールックホテルの冬季管理人の仕事にありつこうとしている売れない戯曲家ジャック・トランス。だが5歳になる息子のダニーは生まれ持った不思議な力で、ホテルの邪悪な面をすでに垣間見ていた。前任の管理人は発狂して家族を殺害、その後自死していた。明滅するイメージの中に見える赤い文字「REDRUM」。すれ違いに休暇に入るコックのハローランはダニーのその力に気づき警告するも、仕事を得た両親を説得するすべもなく、母親のウェンディも合わせ家族三人は閉鎖したオーバールックホテルに厳しい冬の間孤立することになる。次第に姿を現すホテルの悪意はジャックの過去を暴きたて、人知れず狂気へと駆り立てていく。果たしてホテルの真の姿とは?謎の文字「REDRUM」とは?


●原作者を怒らせた映画

以前、スティーブン・キングのファンサイトの掲示板で詳しい方に色々教えていただいて初めて知ったのですが「キングはその多くの作品が映画化されているが中でもこの映画はどうにも気に入らないらしい」、「初めて作品を観たときには電話でキューブリックに抗議したらしい、そのときに『これではただのホラー映画だ』と怒っていたらしい」云々。

キングの作品を読んでいるとよ〜〜くわかるのですが、映画化される気マンマンの、まるで現場を見てきたような細かい描写が多く、容易に読者を自らの仮想世界へ引き込みます。これはシナリオに似ています。キング自身がテレビや映画が非常に好きな人なようで、描写がいかにも映画的で解釈も必要がないほど完成されているため、読み手はイメージがしやすくできています。
(逆に言えば、そのイメージは画一的なものになりやすく、映像化するとチープだったり荒唐無稽だったりと質が下がる傾向があります)
恐怖とは中毒を伴いやすい感情だと思いますが、そこにもってきてこの手法は読み手を夢中にさせないわけがなく、続きや新作を切望するあまり狂人的な手段で作家を脅迫する熱心にすぎるファンがいることもまた事実です。

映画「ドリームキャッチャー」のDVDにキングのインタビューが収録されています。この中で彼は『なぜホラーを書くのか?』と聞かれ『僕が書きたいのはヒューマン・ドラマだ』と答えています。
「ドリームキャッチャー」はこれまでのキング作品の要素をよろず詰めこんだ、カラオケのメドレーみたいな作品ですが、主題は男たちの友情のようです。そのため、SFXを駆使したSFホラー映画バリバリのラストの後、クレジットの背景に取ってつけたような回想シーンが挿入されていて妙な違和感があります。 なるほど、原作は読んでいませんが御大に従って作るとこういうふうになるのでしょう。きっと読む必要はないほど、忠実なのではないでしょうか。

ところで「シャイニング」ですが、原作をギタギタにしています。キングが、ただのホラー映画にされたと怒るのも無理はなく、彼が一番ウエイトを置いて書いたであろう父が息子に、息子が父に捧げるゆるぎない愛情、次いで『シャイニング』という能力を持った者同士だけが分かち合える深い友情、これらについてをことごとく滅却しました。あるのは場所に残った思念を感じとる能力を持った少年を通じて見る恐怖映像と、狂った父親が斧を振り回して殺しに来るという切迫したスリル感。原作のホラーの要素のみを抜き出しています。
先に述べた、アタイに色々教えてくれた方は「キューブリックはスピリチュアルなものを否定したがる傾向があった」とも教えてくれました。だのになぜ、お化け屋敷の話なぞを手がけたのでしょう。


●ホテルとジャック

キューブリックの映画が共通して持っている「荘厳」なムードは、この題材にあまりにピッタリです(フルメタル・ジャケットですらアタイはどこか厳かだと思います)。
父親のジャックが発狂するには、霊的なものと生来の癇癪持ちと酒断ち、劣等感、それらとは別に、オーバールックホテルそのものに、その暗い歴史もひっくるめて魅入られてしまったという原因があります。ですからただのホテルでは誰も共感できないのです。美しくそびえ立ち、そして昼の光の中でも見え隠れする悩ましい暗黒面をあわせもっていなければならないのです。

映画のオーバールックホテルは外観以外はすべてスタジオセットなんだそうですが(驚愕です)、撮り方でああも重みを感じさせる場所に見せるとは並のセンスじゃありません。セットも素晴らしいですが、オープニングの空撮で俯瞰することのできる実在のホテルもまたあつらえたよう(まさかあつらえたのか?)で、閉鎖されたあとを思うと憂鬱極まりないたたずまい。ここがオーバールックホテルでなくてどこがそうなのかと思わせます。
この映画を観るのは大概が怖いもの好きの人たちですから、これだけ不気味で歴史あるホテルを見れば『過去をほじくりかえしたい!』と多くの人が思うでしょう。それは原作のジャックの気持ちとシンクロしています。

それにしても、いきなり得も知れぬ冷たい恐怖感を観客にペタリと貼り付けたあのオープニングは素晴らしい。ちなみに空撮の未使用シーンを、リドリー・スコットが「ブレードランナー」でエンディングに使いまわししているというのはあまりに有名な話です。シャイニングの方はヘリコプターの影が映りこんじゃってますが。


●キューブリックが見せる恐怖

この映画が描く恐怖は、スピードや迫力はまったくありませんが、圧倒的です。
サブリミナルで挿入されるエレベーターホールの血の濁流、双子の姉妹、むしろなぜこんなに怖く感じるのか不思議なくらいです。

最たるものが、このシーン。

ホテルに来てからというもの、一日中タイプを打っているジャックでしたが、ジャックがいない間にウェンディが打ち終わった山積みの原稿をふと見ると、書かれているのはただ一言のフレーズ「All work and no play makes jack a dullboy」。この一言だけが一枚の紙いっぱいに繰り返し打ち込まれ、何百枚とある原稿はめくってもめくっても同じフレーズが、ゆがんだり、かすれたりしながら生々しく刻まれている。

ジャックがいつから狂っていたのかわからないことを一発で表現したこのシーンは見事です。個人的には映画「シャイニング」の恐怖は、あのシーンにすべて集約されていると言って過言ではありません。
ちなみに「All work…」とは、仕事(勉強)ばかりで遊ばないとダメな子になるぞということわざだそうで、Jackは男の子の一般名詞としてたまたま一致しているのですが、映画の日本語訳はご存知の通り「仕事ばかりで遊ばない。ジャックは今に気が狂う」です。いかにもからかっているような、韻を踏んだとても上手い訳で、怖さ倍増です。

ところでこの印象的なシークエンスにも、キングは苦言を申し立てています。
妻のウェンディが夫の狂人たる証を見つけた背を、廊下からカメラはゆっくりと横に歩きながら映しています。これで観客は彼女の背後にジャックが近づいてきていることを悟るわけですが、このワンカットがホラーの手法として余計だ、とキングは怒ったか嗤ったかしたそうです。出し抜けに声をかけるか肩に手を置くかした方が、観客は飛び上がって驚くのにヘタクソだというわけです。

この逸話だけでも、キング好みの「シャイニング」がどういった物かわかります。
もしこのシーンが彼の言うような演出になっていたらどうでしょうか。途端に安っぽくなってしまうような気がするのはアタイだけですか。これも個人で思うことですが、「脅かし」の演出はよほど意味があるところに使わないと狙いが見え見えで、不快です。
キューブリックはジャックを使って観客を怖がらせるのではなく、ウェンディを使いました。ジャックが近づいていることでまず観客を緊張させ、声をかけられたウェンディの尋常ではない悲鳴が広大なホテルを強調するように反響することで、観客をこれから続く恐怖に包みこむのです。「うわ!」と驚くのではなく、サーッと背筋が寒くなるような恐怖。アタイはこっちの方が好みです。

ですがこのエピソードは、あまりに自作の解釈を捻じ曲げられたキングが、ホラー仕立てにしてもひどい、という言いがかりをつけたいがためのような気がします。
映画好きのキングがキューブリックの演出力を侮るわけはありません。


●ハローランが殺された

この映画の中で、キューブリックはいわゆるホラーの常套とされるタイミングを故意に外しているようです。 原作と大きく違っているところのひとつ、黒人コック「ハローラン」の処遇はキューブリックのせせら笑いが聞こえてきそうな改編ですが、このハローラン襲撃シーンも上記と同様、ジャックが陰に隠れてスタンバイしているところを見せてしまっています。

ここは原作を知っている観客に別の恐怖を与えます。ダニーの唯一無二の理解者として描かれている彼が、あっけなく命を絶たれたことだけでなく、口ばかりで誰一人殺すことができなかったジャックが本当に人殺しに成り果てたことだけでなく、小説のようなエキサイティングかつリリカルなラストはもう望めなくなったからです。
案の定、元凶であるホテルは滅ぼされることはありませんでした。


●キングやりたい放題の「シャイニング」

映画「シャイニング」の14年後、キングが製作総指揮・脚本を手がけたTVシリーズ「シャイニング」が米ABCテレビで放送されました。
ジャック役に「ルームメイト」や「リービング・ラスベガス」のスティーブン・ウェバー、ウェンディにメジャー女優のレベッカ・デモーネイを配し、見るからに神経質そうでホントに何か得体の知れない力を持ってそうな子役(コートランド・ミード)をダニーに据え、4時間半の長尺に2300万ドルの制作費をかけて作られた本作は、原作者本人の思うがままに映像化された「シャイニング」となったのです。

ジャックとウェンディの息子を巡る深い確執、ホテルに充満する怨念、ダニーの心の相棒『トニー』の存在とその正体など、この物語の最重要プロットを綿密に描き、悪の枢軸はきちんと滅ぼされ、感動的なラストにつながります。

正直、原作を知っているなら観る必要がないほど、まんまです。
また、これを観たあと原作を読んでも面白くないと思います。


●映画「シャイニング」もうひとつのエンディング

次第に発狂していく難しい役どころを完璧に演じた主演のジャック・ニコルソンの怪演を喰うほどの存在感を見せた、ウェンディ役のシェリー・デュバル。彼女のオフの顔というのを、アタイはDVDの特典映像でしか見たことがないのですが、どうもエキセントリックな人のようで、監督にも真っ向から歯向かっているところなどが、キューブリックの娘ヴィヴィアンが撮影したというメイキングビデオにおさめられています。
アメリカの映画製作において役者とスタッフとの距離感がどうなっているのかは知りませんが、彼女は監督の演技指導や作品の解釈にまで平然と口を出すタイプらしく、後のインタビューでは、削られてしまった“もうひとつのラスト”の方がよかった、と言ってのけています。

■このページで詳しく紹介されています。
はじめちゃんのシネマ・スクラップより
http://www.asahi-net.or.jp/~KZ3T-SZK/kub_shi.htm

うーむ。まだホテルはダニーを諦めていないということを匂わせて「END」だったようです。観てみたかったような気もしますが、やはりこのラストを削ったのは英断であったのでは、とアタイは思います。
誰もいない廊下からボールが転がってくる方が怖いし、ウェンディはもはやダニーの言葉を疑うわけもないし、ああも心象的な恐怖描写のあとでは生身の人間はやっぱり不気味さに欠けるからです。

いずれにしても、映画「シャイニング」の釈然としないラストが、観客を原作の方に引っ張り込んだ例も多々あった(アタイのように)という意味でも、この映画はキングが言うほど“ただのホラー映画”ではないことは、多くの観客が知っていることでしょう。
そしてまた、すぐれた原作のストーリーがあってこそ、この映画のすごいところが理解できるのではないでしょうか。
モドル