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ブックマーク代用です。
坪田 敦緒
tsubota@ep.sci.hokudai.ac.jp
sumo@dameningen.org


はこだてづくし(一)

 今年は左右函館に行く用事が多く、都合 5回に及び、従って異常なほどの写真の量になった。 その中より、「新島襄海外渡航の地碑」なるものを取り上げる。新島襄は当時、その名を新島七五三太(にいじま・しめた)といった。 知識を海外に求めんとし、吉田松陰の海外渡航失敗という前例があるが故に渡航地を函館とし、元治元年(1864) 4月21日函館に入り、機を窺うこと 2ヶ月足らずの 6月14日に国外脱出を果たした。 翌々年 2月21日の父宛書簡に曰く「扨て、小子儀不肖と雖も、国家一分の力を竭さんと存じ、成業の為め箱楯へ罷越し候処、 風説とは雲泥の相違にて、格別使るべき人物もこれ無く、且つ少年の狂気、業若し成らざれば死すとも帰らじと決心仕り、 生命に拘り候はん国禁をも恐れず、及び義すて難き主君を棄て、情けわかれ難き親族をも顧みず、去々年六月十四日夜半、 窃に港内に泊せし米利堅商船「二本檣にてベルリヨンと名」に乗移り、遂に万里の外に跋渉仕り、長く挙族をして悲哀に沈ましめん事、 多罪の至り万万謝し難く候。然し、小子窃に謂ふ。此挙敢て君父を捐るに非ず。且つ飲食栄華のためにあらず。 全く国家の為に寸力を竭さんと存じ、中心燃るが如く遂に此挙に及び候。」とあるは、事情を語って遺憾がない。 碑に「男児決志馳千里 自嘗辛苦豈思家 却笑春風吹雨夜 枕頭尚夢故国花」とあり。渡航翌年、香港での自作であり、自筆との由。 新島襄の「襄」は、航海中に船長から貰った名「Joseph」の略「Joe」とのことである。学を修めること10年、明治 7年11月26日に帰国した。

※書簡の文は「新島襄書簡集(岩波文庫・昭和63年改版・筆者蔵)」より引く。