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 何でこんなことになっちまったのかなァ。
 時々、和谷は考える。
 あの日、進藤ヒカルが塔矢アキラとの対局を果たした日。負けたとは言え、皆を感嘆させる程の打ちぶりで、二人頭を突き合わせ、長々と検討した上、外でも一緒に打とうねと約束までしたあの日。ギャラリィだった和谷は、その時はまたオレも観戦したいなと思ったのだった。
 進藤と塔矢。
 二人の打つ碁を見ることはオレにとって大事なことだ。オレ達これから伸びていく若手にとっては。無論、塔矢元名人にライバル心を燃やす師匠には内緒だし、和谷自身も塔矢アキラにはいろいろもやもやと思うことはあったのだが、何より強くなりたいと願う気持ちがそれに勝った。
 だから時間が合う限り、和谷は塔矢元名人の経営する碁会所に顔を出し、そこの常連客たちに混じって、二人の対局を観戦した。それが割とひんぱんなもので、常連客たちからはすっかりアキラ先生のお友達と認められてしまっているのだった。
 お友達じゃねぇよ、オレは。
思っても口には出せず、今も和谷は、進藤と塔矢と一緒に遠巻きに見守られている。
 遠巻きにするよな、そりゃ。
和谷は心の中でうなづきながら、検討が終わってすぐに席を離れなかったのを悔いていた。
 碁石を片付けながらの世間話から発展してしまった、ちょっとした諍い。
 普通ならそんな風にはならないのに、何故かいつも進藤と塔矢はつまらないことで大ゲンカになる。それがまた始まってしまったのだった。
 そうなると碁会所の人々は、にこにこと笑顔で、
 アキラ先生も年相応のケンカをするんですのォ
 若いってのはいいもんですなァ
ほのぼのとしてしまい、
 さ、ここは若い人達だけにしておきましょうや
と言わんばかりに、和谷も取り残して、半径1m50cm程のところに行ってしまうのだった。それは受付係のエプロン姿のお姉さんも同じだった。
 進藤と塔矢は互いに盤を挟んだまま、にらみあい、一歩も動かない。
 激しいどなりあい、と言っても碁会所で身についたマナーで決して大声を出したりしないが。その息つぎのほんの幕間、次の一幕が上がる前に退散をと思うが、強くうねる感情に支配された場が和谷の足を凍らせる。早い話、ヘビの前のカエルの状態なのだ。
 あぁ、こんな、タイトル戦並みの緊張の元がアレだなんて、元名人が泣くぜ、塔矢。
 そういうのはもっと大事な時にとっとけよ、進藤。
 あぁでも塔矢、お前が一番悪いっ!
 進藤はオマエが相手じゃなきゃ、まともなんだっ!
「和谷君」
不意に塔矢にふりむかれ、和谷はビクリとした。まさか心の声が届いたんじゃ、小学生並みの心配をしてしまったが、事態はもっと悪かった。
「和谷君、君はどう思う?ボクと進藤とどっちが正しいと思う?」
真剣に問う。その黒目がちな瞳はひたむきで力強く、和谷は不覚にもひきこまれてしまう。かつて囲碁をおぼえ始めたばかりの進藤にプロ入りを決意させてしまったという(進藤がうっかり口をすべらせてしまった為、またたく間に棋界の伝説として広まってしまった)、あの塔矢のまなざし。
 それをこんな話題でムダ使いしやがって。
 情けなくなってきたところに進藤がぐいと顔を突き出し、
「正しいのはオレの方だよな、和谷」
「違うよ、ボクの方だ」
「違わねぇよ」
進藤は塔矢相手だと一歩もひかない。
 そんなのどっちでもいいことだろうによ、個人の趣味ってもんだ。
「チョコタルトにはほうじ茶!煎茶なんてぬるくて飲んでられっかよ、茶ってのはなァ、カァーッて熱いのをすすって飲むのがうめぇんだ。それでチョコタルトをさくさくかじる。これだぜ」
気持ちはわかるけどよ進藤、こぶしを握りしめて力説するほどのことか?
「煎茶はぬるくなんてない!大体お茶はゆっくり甘味としぶみを味わいながら飲むのがいいんだ。そして時々チョコタルトをほうばって、またお茶の味を楽しむ。これが一番いい味わい方なんだ」
それもその通りだけどよ、真剣なまなざしで言う程のことか?
「和谷、お前はどう思う?」
「和谷君の考えが聞きたい」
再び話を振られて、和谷は言い淀んだ。
 進藤も塔矢も必死だ。オレの答えが今、明暗を決しようとしている。
 ってオレ、バカか、こんなことで何大ゲサに考えてるんだ。
 だが。
 塔矢の瞳。
 進藤はいい、いつも見慣れてる。どう言えばどんな風にむくれるか、騒ぐかもわかってる。根は常識的な奴なのだ。何を言っても、安心はできる。
 でも塔矢は。
 塔矢はどうなんだろう。塔矢のことをよく知らないから、というより、塔矢の瞳を見ていると、和谷は不安になってくる。
 あの真剣な、ひたむきな、全身全霊を叩きこんでくるかのようなようなまなざしが、和谷をたまらなく怖くさせる。
 オレがここで塔矢の言うことを無視したら、こいつ、ここを飛びだして、二度と帰ってこねぇんじゃねぇだろうか。
 いつもいつも、他愛ない話題でのケンカの果て、この瞳を向けられると和谷は想像してしまうのだ。荒波に打ちつける極寒の岸壁にたたずんで、海に向かって何かを叫ぶ塔矢の姿を。
 そして思ってしまうのだ。
 ここで塔矢の言うことを聞かなかったら、オレはきっと後悔する。犯罪が起きることを知りながら未然に防げなかった刑事のように。
 あぁだけど!
 院生時代からの友人として進藤を無下に退けることもできない。
「な、和谷、どう思う?」
しびれを切らしてにじりよる進藤と塔矢に、和谷の出した答えは一つだった。
「オレは、オレは、チョコタルトには紅茶にするな」
「紅茶か」
感心してうなる進藤に軽くめまいを覚える間もなく、
「ウチには紅茶はないな」
塔矢が追い打ちをかけた。
「えっ?オマエん家ないの?パンとか食べる時、どーすんの?」
「食べないよ。昔はお母さんだけ飲んでたけど、今は外で済ませてる」
「へェー、変わってんのな。じゃ、イエには煎茶とほうじ茶しかないんだ」
「ほうじ茶はない。煎茶をあぶるから」
「煎茶!?あぶるのか!?」
「ほうじ茶ってもともとそうだよ」
「スッゲー」
既に進藤の頭からチョコタルトと茶の組み合わせは消え失せ、
「じゃ、今からウチに来る?入れてあげるよ」
塔矢も先程までの深刻な選択をあっさり捨て去り、
「じゃあ皆さん、今日はこれで」
明るい笑顔でひとわたり挨拶をふりまき、進藤と共に出ていくのであった。その右手には、急転回についていけず硬直している和谷の左手が握られていた。
「和谷くんは、ボクの家来るの初めてだよね」
「塔矢ン家って、すっげー立派なんだぜ」
「お父さんががんばったから」
 まだかくかくしている和谷の手を引っ張りながら、塔矢と進藤は楽しく微笑みあっている。
 何なんだよ、オメェら一体。
 いつもいつも、毎度毎度、和谷はこの流れについていけない。ついていけないなら来るのを止めればいいじゃないか、という突っ込みも無意味だ。最早和谷は二人の渦にまきこまれている。
 オレは洗濯たく機の中の洗たくものだ、伊角さん、カラマン棒になってオレを助けてくれよ、アンタなら塔矢だって扱えるはずだ。
 でも伊角は来れない。頼れる人は誰にでも頼られ、進藤と塔矢が打ち合う日はいつも九星会の手伝いが入っている。
「あー、伊角さんもいれば良かったのになァ。伊角さん、いい人なんだぜ」
進藤はちょっぴり自慢気に伊角のことを説明し出す。性格も穏和で、頼れる人で……。
 大人しく聞いている塔矢からそっと手をほどき、和谷は後ろを歩きながら、うんうんとあいづちを打っていく。
 本当にオレもソウ思うぜ。
「…だからすぐ上に上がってくるぜ」
最後に進藤が締めると、塔矢は言った。
「じゃ、今度伊角さん誘いに行こうか」
 和谷の足が止まった。だが進藤は気付かず、
「あっ、いいな!それ!でもオレ、家知らねー。和谷、知ってる?」
 思わず、プルプルと首を横に振る。本当に知らなかったのだが、でも、いきなりこいつら連れていけるか?
「大丈夫だよ、春からプロなら、棋院で調べられる」
って、調べて行く気か?塔矢。
「おっ!じゃ、明日さっそく調べて行くか」
って、フットワーク軽すぎだぜ、進藤。
「4人いればペア碁ができるよね」
頭をくっつけあい、楽しそうに笑っている進藤と塔矢が、どんどん遠去かっていく。いろんな意味で。あらゆる意味で。
「どーしたんだよ、和谷。何かあったかァ?」
道の向こうで立ち止まり、ようやく和谷がついてこないのに気付いた進藤が呼んでいる。塔矢が駈け出してくる。
「どこか具合でも悪くなった?」
具合が悪いんじゃねぇ、オマエらについていけねぇんだ。
「ちょっと顔色が悪いな。ウチで休んでくといいよ」
 いいよ、もっと治らねぇよ。
 そして、和谷は結局、引きずられていく。
 ずるずると。
─ fin. ─■■

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