久しぶりに幼い頃の夢を見た。 *** 「ふあ……」 カミューはあくびをしながらのろのろと布団から這い出る。 もう5分、と言いたいところだが今日からはそうもいくまい。気楽な学生生活はもう終わったのだ。 顔を洗い、鏡の前で両頬をぱんと叩く。 「……よし」 これから新しい生活が始まる。 『赴任先、マチルダ高校になったんですって?』 ああそうだよと電話の向こうの母親に相槌を打つ。 「この前挨拶に行って来たよ。着任早々2年生の担任だってさ」 『新卒なのに?』 「持て余してるんだろ」 カミューは煙草を灰皿のフチでとんとんと叩く。灰がぱらぱら落ちた。 『あら、じゃああんたが担任になるかもしれないのね。覚えてる? マイクロトフちゃん』 「あ……」 カミューは咥えかけた煙草を口から離した。 受話器を改めて持ち直す。 「……覚えてるよ、マイちゃん」 『あの子も確かマチルダ高校に入学したって去年ハガキ来てたわよ。あんたより6つ下だから今年で17でしょ?』 「……そうなんだ……」 (……) 母親との会話を思い出しながら、カミューはスーツの襟元を正す。 カミュー、23歳。今日からマチルダ高校の数学教師として社会人のスタートを切る。 全校朝礼での第一印象が肝心だと、スーツとネクタイは派手すぎずそれでいてセンスが感じられるものをじっくり選んだ。マイちゃんがいるとなると余計に気合も入る。 (マイちゃんか……) 最後に逢ったのはカミューが10歳の時だった。 当時4つのマイちゃん――名前はマイクロトフと言った、彼女はぱっちりした目が可愛らしく、いつもカミューの後をついて回っていたことを思い出す。 6つも下の女の子だったけど、私の初恋だったんだろうな……。カミューはため息をついた。 マイクロトフの家が転勤で引っ越す時、マイクロトフはカミューにかじり付いて泣いた。 あれから親同士での付き合いは続いていたが、マイクロトフ本人と直接コンタクトを取ることはなく13年もの年月が流れてしまったのだが…… (いい女になってるだろうなあ……) まさか赴任先の高校生だとは。淡い初恋の記憶が蘇る。 6つの年の差くらいは全然オッケーだよなあ……いやでも先生と生徒じゃ問題アリかな…… カミューは期待に胸を膨らませ、校門を潜った。 朝礼で自己紹介をソツなくこなし、女子生徒と女教師の反応にばっちり手応えを感じたカミューは揚々と職員室に戻る。 担任となるクラスの出席名簿を手に取り、中を素早くチェックした。 男女の名前が混じった出席簿は少し見辛かったが、マ行――マイクロトフ。 (あった!) 間違いない、こんな特殊な名前そうそうあるものか。 (マイちゃんが……) 自分の生徒になるのだ。カミューは目を輝かせた。 この高校の制服はなかなか可愛らしく、制服目当てに受験する女子生徒も少なくない。制服を着こなす成長したマイクロトフの姿を想像してにんまりする。 自分のことを覚えているだろうか。 チャイムの音に元気よく立ち上がったカミューは、とびきりの笑顔で担当するクラスへと急いだ。 「きりーつ」 カミューが教室の中へ入ると、女生徒の元気のいい声が響く。 「礼!」 生徒達と向かい合って礼をして、さてと彼らの顔を見渡す。 (ん……ちょっとこれじゃ分からないな……。) カミューはマイクトフの顔を探すことが出来ず、仕方なく朝礼の時のように簡単な自己紹介をした。女の子達ばかりに人気があっては男子生徒を敵に回すので、それなりにくだけた部分も披露してみせる。 反応は悪くないと見て取ったカミューは、早速出席を取ることにした。 「じゃあ、皆の顔を早く覚えたいから、名前を読んだら立ち上がって返事をしてくれるかい?」 生徒達がざわめく。カミューは名簿を開いた。 「ええと、……アップル」 「はい」 ボブカットの女生徒が立ち上がる。先程号令をかけていた子だ。彼女はこのクラスの委員長だ、覚えておかねば。 「アレン」 「はい」 生徒達が次々と立ち上がり、カミューは顔をチェックして行く。 女生徒のレベルはそこそこといったところか……早くマイちゃんを確認したい…… 「ビクトール」 「ほーい」 「フリック」 「はい」 次だ! いよいよだ! カミューは悟られないよう深呼吸をして、待ち望んだ名前を口にした。 「マイクロトフ」 「はいっ」 元気よく発せられた声に違和感が…… (……エ?) 立ち上がったのはしっかりした体格の……男子生徒だった。 (……まさか……!?) カミューは目を疑う。様子のおかしい教師にマイクロトフは不安そうな顔をする。 「先生……何か……?」 「あっ……いや、その、君……マイクロトフ……君?」 「そうですが……」 ガーン。漫画ならば頭に巨大な石が落下したところだ。 まさかもまさか! 思い出の初恋の少女は…… (……男!?) しかし言われてみれば、短く切り揃えた黒い髪にくりっとした瞳は面影があるような気がする。だが、こんなに眉毛が立派だったか!? カミューは頭を抱えたくなった。 とにかくこのまま出席を中断する訳にもいかず、よれよれになりながら残りの生徒の名前を呼ぶ。 もちろん彼らの顔は頭には入っていなかった。 *** 『やだ、あんた知らなかったの?』 母親の声は呆れていた。 「知らなかったよ……母さんだってずっとマイクロトフちゃんって呼んでたじゃないか」 『男の子をちゃんづけして何が悪いのよ』 カミューはがっくり項垂れる。 初恋の君はどこからどう見ても男だった…… (昔はあんなに可愛かったのに……) 『馬鹿ねえ、確かに可愛い顔してたけど男の子じゃないの。青い服とか着てたでしょ。』 「女の子だって今時青い服くらい着るだろう! 全く、驚いたなんてもんじゃなかったよ」 まあ、新米先生頑張って、と母親からのエールを受け取り、カミューは受話器を置く。 ショックだ。 さぞや可愛く成長していると思ったのに、予想に激しく反してごつくなっていた……。 「しかし……気づかないかね、私も」 カミューはぶつぶつと独り言を呟きながら、明日からの指導案とにらめっこを始めた。 一応教師として食べて行くのだから、それなりに頑張らねば。 (それにしても……) 自分の態度に比べて、マイクロトフのあの反応はどうだ? 彼はさっぱり覚えていないのだろうか。 (それとも私もすっかり面変わりしたとか……) カミューは鏡を見た。昔からこの女性大ウケの容姿はそれほど変わっていない……はずだ。磨きがかかったというのは置いておいて。 ――まさかあっちまで私を女だと思っていたらどうしよう。まさかな。 カミューはその晩初恋のマイちゃんを追いかけ、捕まえたと思ったら男に変わっていたという恐ろしい夢を見た。目が覚めると全身汗びっしょりになっていた。 眠い目を擦りながら学校までの道のりをとぼとぼと歩き、カミューはため息をついていた。 あーあ、なんか楽しみ半減。 不謹慎なことを考えつつ、校門を潜ろうとした時、反対方向の道から歩いて来るシルエットに思わず脚を止めた。 黒い髪、眉の上で揃った前髪。マイクロトフだ。 マイクロトフもカミューに気づいて、少し困った顔をした。「おはようございます」と俯きがちに礼をし、そのままカミューの脇を通り過ぎようとする。 「待って!」 思わずカミューは声をかけた。マイクロトフが頼り無さげに眉を寄せた表情で振り返る。 すっかり昨日の一件で怯えさせてしまったらしい。カミューはあからさまだった自分の態度を反省した。 「何ですか……?」 「あ、その、昨日は……悪かったね、あんな」 「……俺、何か悪いことしましたか」 「いや! そんなことはないんだけど、えーと……」 緊張しているのか(新任教師ごときに)、ぴっと伸ばしたままの背筋を崩さないマイクロトフに感心した。一応自分を先生として敬ってくれているらしい。だがそれ以外にカミューへの関心は薄いようだ。 (一応確かめてみるか……) 「えっと、朝早いね」 「……部活の朝練があるので……」 「部活やってるんだ。何?」 「弓道を……」 校門傍で謎の質問を繰り返すものだから、マイクロトフはますますカミューを警戒するような顔つきになって行く。カミューはこれはまずいと思い、遠回しに探ることを諦めて単刀直入に聞くことにした。 「あのさ、君昔グラスランドに住んでなかった?」 「えっ……?」 マイクロトフの表情が変わる。 「どうして御存じなのですか?」 やっぱりそうか。カミューは安心しつつもどこかが淋しくなった。 これで幼い思い出も封印せざるを得ないのだろうか……。 「その時にさ、幼馴染みの男の子がいなかったかい」 「男の子……?」 反応があまり思わしくない。まさか記憶から抹消されているのだろうか――カミューは焦った。 「ほ、ほら、私みたいな髪の色した! 6つ年上の男の子だよ、君のことマイちゃんって呼んでた……」 マイクロトフはしばらく考えるように首を右に左に傾けて、やがてああ! と手を叩いた。 「いた! 確かカミューという……」 言いかけて、目の前の担任教師を見る。 「カミューと……あれ……? ……まさか……?」 「……思い出した?」 カミューが苦笑いながらもにっこりと笑顔を作ると、マイクロトフはあっと口を開けた。 「カミュー! カミューなのか!?」 「ようやく分かってくれたんだな。そうだよ、カミューだよ」 「全然分からなかったぞ! 先生になったんだな!」 「まあね……」 突然くだけた調子になったマイクロトフに驚きながらも、カミューは目を疑った。 昨日の印象の仏頂面が、それはそれは輝くような笑顔に変わったのだ。 (あっ……) 学生服を着たマイクロトフが無邪気にカミューに笑いかける。 (マイちゃん……) カミューは幼き日の幻影を今この瞬間に重ねた。 この胸の高鳴りは何だ。ざわめきは何だ。ときめきは何だ。 目の前にいるこの男子生徒が、みるみるうちに可愛らしい初恋の人の面影を吸収する。 それは言葉に出せないような瞬間だったのだ。 「何だ、そうだったらもっと早く言ってくれ! 帰りに時間はないのか? 母さんに会わせたい!」 「あ、う、うん……」 マイクロトフに腕を取られ、半ば夢見心地で歩いて行く。 このくすぐったいような、切ないようなそんな気持ちは。 (まさか……!) カミューはぼんやりと自分の腕を引く成長したマイクロトフを見つめた。 思い出が現実として再び蘇る、新しい出逢いを噛み締めた春の日のことだった。 |
紫の館様主催のパラレル交換会に献上。
本来ならこの倍くらいで一区切りだったのですが、
人様のおうちに長ったらしいもの送りつけられるか!
……というわけで半端なままでした(どちらがよかったのか…)
カミュー先生一歩踏み止まらないと犯罪よ……