LEGACY







 初めて身体を結んだ夜だった。








 この日の戦が激しくなることは前々から分かっていたことだった。兵士達の表情には自ずと緊張の色が浮かび、幹部クラスの戦士達は落ち着いた様子をしているものの微かに血走った目がこれから起こる戦いの規模を表していた。
 兵力はほぼ互角との情報は、まさしく大凡の判断でしかなかった。正確なデータを手にしている軍師シュウは各隊の将に少々厳しい作戦を告げつつも、彼らの力量を持ってすれば勝利の確立は極めて高いものと結果を弾き出していた。
 将達も無論そのつもりだった。圧勝とはいかなくとも確実な勝利がそこにある。その心の後押しで俄然武器を握る力がこもるのだった。
 激突から3時間ほど、同盟軍軍師の仕掛けた後方の軍が今まさに罠を完成させようとしていた。
 濁流が溢れ出すように現れた恐ろしい速度の一軍にハイランドが少なからず浮き足立った。決して多くは無い兵力を分断するにはそれなりの覚悟が必要だった。そのため先陣には覚悟の戦いに耐えられる人選が、軍師の厳しい目によって成されたのだ。
 明らかな敵方の動揺を持って、シュウは勝利を確信した。流れは完全に我が軍にある――これが彼にとっての戦だった。
 しかし前線で今尚武器を振るう兵たちにとって、戦とは生きるか死ぬかであった。それはある種勝敗とは確立された世界でもあった。
 風の弱い蒸し暑い午後だった。
 混沌の戦場は耳鳴りのように纏わりつく地響き、怒号、悲鳴に覆われ、絶えず鼻を突く血の臭いで感覚は麻痺しつつあった。剣を振り回す腕が無性に重いとマイクロトフは思っていた。殻だの内側から吹き出て来る汗が皮膚を撫でている。
 耳を掠めた切先に反射的に腕を滑らせた。目の前で敵の首が飛んだ。
 隊を預かる将とは言え、歩兵に混じって剣を取れば戦況を冷静に判断することは難しい。マイクロトフは軍師の合図を待っていた。自軍が優勢であることは理解していたからだ。
 ――カミューが倒れた瞬間をマイクロトフは見ていた。
 それは丁度一筋の光が通るように、兵達をかいくぐって出来たような隙間に気づいた時だった。マイクロトフは道の先に赤い騎士服を纏う親友の姿を認め、はたと剣を止めた。
 カミューもマイクロトフの視線に気づいたようだった。彼の口唇は何事か紡ごうとしたように見えた。その時、振りかぶる剣の影がカミューの上に落ちた。
 攻撃の方向は明らかだった。カミューに疲労は見られなかった。マイクロトフがカミューの名前を呼んだのは極めて反射的な無意識の行動に過ぎなかった。
 マイクロトフには想像できていた、彼に剣先が届く寸前に翻る紫のマント、鮮やかな流線を描くユーライアが敵の肩を切り裂く光景が。だから心から不安に捕われて叫んだ訳ではなかった、寧ろ明らかな楽観が含まれていた、第一ここで声を張り上げたところでカミューには届くまい。
 しかしカミューはマイクロトフの声に反応したかのようにその瞳を曇らせた、いや、曇らせたように見えた。何しろ砂埃舞う戦場での出来事だ、多少の錯覚はあったかもしれない。
 ところがまさしく錯覚であるかの如く、悪しき剣がカミューを捕らえようとしているのをマイクロトフは見ていた。
 彼の腕に抵抗の文字はなかった。全てを投げ出した脱力の姿だった。カミューが笑ったように見えた。皮肉めいた自嘲の笑み、いやマイクロトフに向けられた嘲笑かもしれなかった。
 マイクロトフは声も出なかった。彼が諍うことなく剣の元に倒れ、その身が地面に吸い込まれて行くのをフィルターがかかったぼやけた視界で見ていた。
 神々しく開いていた隙間が兵達の姿に掻き消えた。マイクロトフは見ていた。
 すでに姿を捕らえることのできないカミューの身体が横たわるのを見ていた。
 カミューが生を放棄した。



 遠くで撤退の合図が他人事のように響いていた。巧く動かない頭の奥でマイクロトフは勝利を確認した。
 夢を見ているような、夢から覚めたような血腥く蒸し暑い午後だった。







 ***









 意識が戻ったというカミューの元にマイクロトフはすぐ駆け付ける気になれなかった。
 理由のない恐怖があった――カミューの最後の顔だけがマイクロトフの脳裏に灼き付いて離れようとはしなかったのだ。
 マイクロトフはホウアンに通されたカミューのベッドの傍に腰を下ろした。古びた木の椅子がカタカタと揺れた。気を利かせたのか、ホウアンはマイクロトフが席に着くと病室を出て行った。それが分かったかのようにカミューが静かに瞼を開いた。マイクロトフはすぐには声が出なかった。

 開いたままの窓から生温い風が二人の間に流れて来る。
「怒ってるのか」
 先に口を開いたのはカミューだった。すぐに反応できなかったマイクロトフは不審な表情を見せたのかもしれない。カミューは少し笑って、「怒ってる顔をしてる」と続けた。
 そう言われると怒りたい気分になって来る。マイクロトフは、思い掛けない傷でベッドに寝たきりとなっている男の妙に落ち着いた顔が腹立たしくなった。避けるのに雑作もない剣でしばらく絶対安静だ。何て意味のない行動。何て馬鹿馬鹿しい行動。
「……怒ってる」
「やっぱり」
「何故避けなかった」
「どうでも良くなっちゃって」
 飛び込んできた呟きのようなカミューの声に、マイクロトフは耳を疑った。カミューは穏やかに揺れる目でマイクロトフではなく天井を見つめている。
「……どうでもいい?」
「無理して生きるのが面倒になった」
 マイクロトフは途切れた言葉を修復することができない。カミューは多少投げやりな調子ではあったが、その様子から冗談が感じ取れなかったのだ。
「……カミュー」
 マイクロトフは困惑を声色に表していたのだろう。カミューの視線がマイクロトフへと向けられる。
「そんな顔するな」
「しかし……」
「ならばお前はどうだ?」
「え?」
「何故私に抱かれた」
 マイクロトフはぎょっと目を剥いた。咄嗟に反応した様子はカミューからすると酷く極端な動きだっただろう。
「今回の戦いでそれなりに覚悟をしていた。そうじゃないか」
「……戦ではいつも覚悟をしている……。それと、何の関係が」
「なら何故あの夜だった!」
 急に荒くなったカミューの声にマイクロトフは素直に驚く。カミューの指すあの夜――それはカミューが倒れた決戦の前夜に他ならない。マイクロトフは随分昔のことのような、ついこの前のことのような一夜を思い出して赤面した。カミューの意図も分かってはいなかった。
「確かに今回の戦いは大きなものだと分かっていたし、いつもよりはそんな意識が強かったかもしれない。しかしそれが何だと言うのだ。つながりが俺には分からん……」
「つまり翌日死ぬかもしれない夜に私に抱かれた訳だ。それまで私の気持ちを知っていながらさり気なく拒み続けたお前が、どうしてあの日に限って身体を許したんだ?」
 マイクロトフははっとした。自覚のない行動の中に、カミューの言わんとする片鱗に思い当たることがあったのかもしれなかった。感情を隠すことが下手なマイクロトフを、カミューは少しだけ細めた目で横たわったまま見上げていた。
「どうせ終わりになるから、その前に……」
「違うカミュー、それは……」
「それまで素振りを見せなかったお前が、最後の最後に私に“抱かれてやった”訳だ。命を覚悟して初めて受け入れられたなんてな」
「カミュー!」
「惨めなもんだ。先のない関係というものは」
「……、」
「腹立たしくて仕方がなくても、それでも私はお前を抱いた……」
 カミューは両手で顔を覆う。その隙間から涙こそ流れなかったが、微かに震える指先は言葉よりも雄弁だっただろう。マイクロトフは何かを言おうとしたが、その前にカミューの言葉を理解することが先決だった。たとえ意味が分かっても、悲しいかな反論をすぐに口に乗せることはできないのだった。
 最後の夜のつもりはなかった。――しかし翌朝で終わる命かもしれなかった。
 ならば何故自分はカミューに抱かれた。身体を許した、とカミューは表現した。許すとは皮肉な言葉だ。だから“抱かれてやった”なのだろう。
 目の前が漆黒に変わりそうだった。息苦しさをマイクロトフは確かに感じていた。呼吸が多少荒かったかもしれない、息を吐く音が沈黙を相乗させる。
 そんなつもりはなかったと、声に出せばこれ以上の白々しさはない。それでもマイクロトフは鈍い脳を起こして声を絞った。
「……最後にするつもりは、なかった」
「へえ」
「それに、今こうして生きている……」
「……」
 カミューはひとつ瞬きをしたが、瞼の閉じた時間がいやに長い瞬きだった。上下で擦りあった睫が一瞬震え、現れた瞳はマイクロトフの好きな琥珀色だ。カミューはマイクロトフが自分の気持ちを知っていると言った。確かに嘘ではなかったが、カミューが愛を囁いたのもまたあの夜が初めてだったのだ。
 マイクロトフは、それではカミューは死を覚悟したのではなかったのか、と問いつめようかと思った。しかしカミューが先に駒を進めた。
「……そう。覚悟と死は別のものだ。今ここでお前と話しているのが本当の現実。けれどあの戦いでお前が命を落としたら、私は今ここに独り残されている訳だ。愛を交わした相手は心残り無くあの世に逝ったかもしれないな。私は独りだ」
「しかし、それならお前だって……!」
「私が死んだら、お前は独りかな?」
 悲しい響きがこもった上がり口調の問いかけには、マイクロトフも眉を垂らして動きを止めた。
 ――だから避けなかったのか?
 マイクロトフは心の疑問を声にすることができなかった。カミューがあの瞬間笑ったように見えた理由が分かったからだ。
 それが復讐だった、けれど果たせなかった。
「全く馬鹿馬鹿しいよ。そう思った直後に、独りじゃ無いお前がいるかもしれないことを想像して泣きたくなった。全く図太い精神だ。あれだけまともに剣を受けておきながら、まだ生きている」
「それがお前の生命力だ……!」
「死ぬ前にお前に受け入れられた、それだけで気が狂いそうなほど苦しかったのに、お前より先に逝くつもりもないんだ私は。私のいないところでお前が誰かと共にいるのは耐えられない。だけどいなくなってしまいたかった。死んでしまえば苦しみは消えるかもしれない、しかしその代償があっても私は結局お前を抱いたんだ……!」
 マイクロトフは今にも顔を掻き毟りそうなカミューの指を咄嗟に掴もうとした。しかしその顔から剥がすことは躊躇われた。
 初めて抱かれた晩のことを思い出していた。カミューは少し酔ったフリをしていたようだった。マイクロトフは自分から衣服を脱いだのかどうかは覚えていない。カミューの背中に腕を回した記憶はあった。朝目覚めて最初に何と言葉を交わしたかは定かでは無かった。
 カミューの言葉が本当なら、あの夜彼は酷く怒っていたのだろう。それでもその手はいつも通りに暖かく優しかった。マイクロトフは確かに最後かもしれないと頭を掠めたものを思い出した、それ以上にもしもこれから共に生きられたらと夢を見たことも本当だった。
 いつ果てるとも知れない命に永遠を重ねるのは馬鹿げている。だからこそ人は先を読むのだ。ここからそこまで、僅かとも遥かとも取れない道を決断するのだ。
 それがカミューとマイクロトフにとってのあの夜だった、選んだ道は同じでも見えていた景色が交差しなかった。
 マイクロトフは拳を握った、カミューに触れる勇気がなかったからだ。カミューが言うことは間違いでは無いが、彼は決定的なことを履き違えている。
「生きるか死ぬかなんて本当はどうでもいい。しかし生きていないとお前をつなぎとめておけない」
「カミュー」
「お前を抱いて、初めて私がどれだけお前を愛していたか分かったよ」
「カミュー」
「お前にこんなことを言っているが、私も“最後の夜”に気づいたんだ。このまま死ねば、このまま死なれれば、お前は二度と私を見ないし、私もお前を抱くことは無い……」
 ああ、とマイクロトフは細く深いため息を漏らした。
 ――これならば大丈夫。大丈夫だ、カミュー。
 安堵のため息をもう一度漏らした。カミューが気づいているかどうかは分からなかった。
 カミューがどうでも良く投げ出してしまいそうな命を、つなぎとめるものがある。
 この世に永遠など無い。
「死んだら忘れられるだけだ……」
 掠れた呟きを包むように、マイクロトフはようやくカミューの指に触れた。熱でカミューがゆるりと顔を覆う指を外す。現れた顔に浮かぶ怯えの色に、マイクロトフはやっと微笑むことができた。
 最初に抱かれた夜。最後になるかもしれなかった、しかしまた始まりにも成り得た。
 口唇を重ねて身体をつなげるのは、生きる間に身体に刻まれる記憶となる。記憶は生であり、忘却とは無である。
 その指を握り締め、カミューの目を見て、マイクロトフは彼がここに生きていることを改めて感謝した。
 死んだら忘れられるだけ。
 忘れるだけ。
 マイクロトフは口唇を開く。


「だから生きるんだ」
































Nobody cares when you're gone.
Therefore, we have to live.














I'm in the WIDE OPEN SPACE, it's staring.
There's something quiet bizarre I cannnot see.

Thanks for 2 years!
2002.11.30 Akira Aoba