それは突然の出来事だった。 ガクン! と普段体感しないような衝撃と共に、小さな箱は2人の人間を乗せたまま急停止した。 「……」 「……」 2人の男は思わず顔を見合わせる。 毎日使っているエレベーターだが、こんなことは初めてである。 「……故障だろうか」 黒髪の男が呟く。 彼はこのマンションの15階の住人、職業はと聞かれたら会社員と答えるだろう。名はマイクロトフといった。 「停電……ということではなさそうだね……」 エレベーターの電気を確認したのは亜麻色の髪の男。 彼は同じく12階の住人で、職業を尋ねられればサラリーマンと答えている。名はカミューといった。 2人が出逢ったのは今日、このエレベーターの中が初めてである。 過去に擦れ違ったことくらいはあるかもしれない。が、記憶に残る形で言葉を交わしたのは今日が最初であった。 マイクロトフが15階から下に降りるエレベーターに乗り込んだ時、中には誰も人がいなかった。1階を目指したエレベーターは12階で止まり、カミューを乗せて再び下に降りて行く。 異変が起きたのは8階を過ぎた辺り、ふいに揺れたエレベーターはそのまま上にも下にも動かなくなった。 「……動かないのだろうか」 「そうみたいだね……」 2人はしばらく狭い箱の中で様子を伺った。 完全に故障してしまったのなら管理人に助けを求めるべきだか、もしすぐに動くのだとしたらあまり大事にはしたくない。 今の時刻は午後11時を回った頃。下手に騒ぐと他の住人にも迷惑がかかる。 「……」 「……」 無言の時が流れた。 決して居心地はよくない……何しろ知人同士でも何でもない間柄だ。 気まずさに耐えかねたか、マイクロトフがおもむろに口を開いた。 「俺はマイクロトフだ。15階に住んでる」 それを受けてカミューも答える。 「私はカミュー。12階の住人だよ」 よろしく、とお互い奇妙な自己紹介を交わした。こんなことがなければおきっと名前など知る機会もなかったに違いない。 エレベーターは全く動く気配がなかった。 初めこそほんの少しの我慢だとタカを括って緊張していた2人も、段々身体がだれてくる。 ついにカミューは背中を壁につけしゃがみこんだ。 「……駄目みたいだね」 「やはりそうか……」 マイクロトフは腕の時計に目をやる。11時20分。 大体15分くらいは待っただろうか――2人には1時間程にも感じていた。 「もう限界……管理人呼ぼうよ」 カミューは疲れのせいか気遣いを忘れ、大分くだけた口調になっている。対するマイクロトフは立ったまま姿勢を崩さず、ああ、とカミューに同意した。 そんなマイクロトフの様子をカミューはしゃがみこんだまま見上げ、面白そうに観察していた。 「ねえ、君幾つ?」 エレベーターに備え付けられた非常用のボタンに手を伸ばそうとしたマイクロトフに、ふいにカミューが話しかける。 「俺は26だが……」 「へえ年下か。1つしか変わらないけど」 「そうなのか」 「あんまり下に見えないなあ。言われない?」 「さあ……」 マイクロトフは少々困惑した。 エレベーターが動かないという緊急事態の筈なのだが、この男の調子はどうだろう。まるで楽しんでいるようである。 「…てボタンを推してもいいだろうか」 「ああ、ボタンね。はいはい、いいよ。管理人呼んでよ」 やはり緊迫しているようには見えない。マイクロトフは何だか拍子抜けしながら非常用のボタンを押した。 「……」 「……?」 指先は確かにカチッと音がするまでボタンを押し込んでいる。だがそれらしい手応えがない。 2人は顔を見合わせた。うんともすんとも言わないのだ。 「……見せて」 カミューが立ち上がりボタンを確認する。押してみるが返答はない。 同じく備え付けられた受話器を取り上げるが、音が聞こえることはなかった。 「……出ない」 「ということは?」 「動かないよ」 「……」 「動かない……」 ここで初めて2人は青くなった。 地上から何階目にいるかははっきり分からないが、ぶら下がった状態の箱の中に閉じ込められてしまったのだ。 「ど、どうする!」 「どうするったって……」 2人はあてもなく小さなエレベーターの中を見回す。しかしこの狭い空間に何があるというのか。 それから何度かボタンを押したり受話器をいじったりを繰り返してみたが、やはり結果は同じだった。 すっかり途方にくれた頃、マイクロトフがあ! とポケットを探る。 「携帯があった!」 「それを早く言ってくれ!」 カミューはほっとして肩の力を抜いた。 「カミューは持っていないのか?」 「すぐ下のコンビニだからいらないと思ったんだよ。酒を買って帰るだけのつもりだったから……」 財布しかない、とカミューはポケットを叩く。金があっても今は役に立たないのだ。 「でもこれで何とかなりそうだな。どこか助けを呼んでくれよ」 「ああ……」 マイクロトフが二つ折りの携帯を開いて表情を険しくした。 「……どうしたの?」 「電池が」 マイクロトフはカミューに画面を見せる。電池の残量レベルはあと1つ。 「……少しくらいなら大丈夫だろ。早く」 「分かった」 マイクロトフはカチカチとボタンをいじり携帯を耳に当てる。 数十秒そのままで、やがて彼は困ったように眉を寄せながら一旦通話を切った。 「出ない」 「他の所は!」 「……」 マイクロトフは再び他の番号にかけたようだが、それも反応はなかったらしい。 「駄目だ、出ない」 「他にはいないのか?」 マイクロトフがしゅんとするのを見て、カミューはつい口調がきつくなってしまったことを反省した。 電話が通じないのは彼のせいではない。 「……ごめん」 「いいや……。でも他に何とかしてくれそうな知人が思いあたら……」 言いかけて、マイクロトフははっと顔を上げた。 「警察」 「えっ?」 「警察にかければいいんじゃないのか?」 「警察か……」 カミューはしばし考え込む。 エレベーターが止まったくらいで警察を呼ぶなんて、管理人が快く思わないのではないだろうか? しかも今は11時半を過ぎた真夜中だ。騒ぎ立てられていい気はしないだろう……寧ろ迷惑な域に違いない。 しかし非常ボタンを押しても何の反応もないのだ。これはこちらではなく管理側の落ち度である。 このままどうすることもできないのだ、多少騒ぎを起こしても文句を言われる筋合いはないだろう。 (でも、警察まで呼ぶのはみっともない気がする……。) カミューは状況を思い浮かべ、救助される様を想像して身震いする。 「……もう少し様子を見よう」 「え!」 「こんな時間にパトカーがやってくるなんて周りに迷惑だろう?」 「しかし……このままどうすればいいのだ?」 「動かないかどうか試してみよう」 カミューはそんなことを言って、エレベーターの中をうろうろと歩き回った。といっても広さがないのでその場をぐるぐる回っているだけなのだが。 「ちょっと揺らしてみようか」 「え……」 マイクロトフの許可も取らず、カミューは軽くジャンプし始めた。ぐらりと箱が揺らぐ。 「か、カミュー!」 マイクロトフは慌ててやめさせる。 「ワイヤーが切れたらどうするんだ!」 「それくらいで切れるような太さじゃ……」 ミシ。 「……」 「……」 このエレベーターそのものからなのか、それとも別の何処かからなのかは分からないが、不審な物音は人を不安にさせる。2人は大人しくなった……行き過ぎて身体をほとんど動かすことができなくなってしまった。 隅の方に小さくなり、とうとうお互いに地べたに腰を下ろす。 「……やはり電話をしたほうがよくはないか?」 「……そうだけど……」 「もう12時になる……。いつまでもこんなところに閉じ込められている訳には……」 「もう12時か……。」 カミューは明日の予定を考えた。いつも通り仕事に行って、他に特に際立った予定はない。 今夜はコンビニで酒を調達した後、軽く身体を温める程度に飲んで、そのまま寝てしまおうと思っていたのだ。それがこんなことになってしまって、ほんの5分の距離がすでに1時間だ。 「仕方ない、呼ぼうか。」 「そうしよう……ああっ」 マイクロトフの奇妙な声にカミューは振り向いた。携帯を握ったままマイクロトフが青ざめている「……まさか」 「そのまさかだ……」 マイクロトフが差し出した携帯は画面が真っ黒。カミューはそれを奪い取り電源を押した。――反応がない。さきほどの電池残量1の表示を今になって思い知らされる。 「なんで今まで電源切っておかなかったんだ!」 「し、しかし……」 「どうするんだ、もう連絡しようがないんだぞ!」 「……すまない」 マイクロトフは俯いた。こと、と床に携帯を落とす……カミューはその音にどきりとした。 こんな狭いところで言い争いをしている場合ではない。大体警察に電話を、と彼が言い出した時に渋ったのはカミューのほうなのだ……それを責めないマイクロトフにカミューは恥ずかしくなった。 「……あ……」 「……」 「そ、その……ごめん、言い過ぎた」 「……」 「マイクロトフが悪いんじゃないよ……私が悪いんだ。すまなかった」 「いいや、俺も考えなしに……」 「もうよそう。それよりどうやって脱出するかを考えよう」 カミューの言葉にマイクロトフは頼り無い上目遣いで頷く。 先ほどまでぴしりと姿勢をただしていた彼の姿とはがらりと違う。この表情なら年下と言われても驚かないな……カミューは呑気にそんなことを考えていた。 非常ボタンは役立たず、電話は使えない。助けが呼べないこの状況で何ができるのか。 「思いきってドアを開けてみるってのはどうだろう」 「ドアを?」 「ホラ」 カミューが指差したエレベーターの壁には、緊急停止時の脱出法法が描かれた紙が貼ってある。緊急レバーでドアを開け、そこから脱出する仕組みが図解入りで記されていた。 しかし先程から目に入っているにも拘わらず、何故それを早く実行しなかったかというと、一重にその表記が妖しいからである。何しろ紙は赤茶けてセロテープも変色、内容は手書きで描かれている上に、万が一足を踏み外してエレベーターの下に落ちてしまった時の様子が簡略化された人の絵でしっかりと示されている。 棒状の手足を持つ人間が落ちる様を漫画にされて、よし実行しようと思うことができなかった。 「意外に古かったんだなこのエレベーター……」 「本気で出る気か? この図みたいに落ちたらどうする」 「もしこのエレベーターが止まった場所が各階の丁度中央なら、その危険も充分考えられるけどね」 マイクロトフが青くなる。目の前が本来エレベーターのあるべき場所ならともかく、今はそれが分からないのだ。 「確か止まった時は8階は過ぎていたな……ひょっとしたら7階と8階の間くらいかも」 「そ、それではドアを開けるのは危険ではないか!」 「でもこのまま朝を迎えるつもりかい?」 「しかし……」 安全であるならここでじっと我慢することも悪くはなかった。だが、実際段々温度が下がって来て、ほんの少しの外出を予定していた2人の薄着では肌寒さが気になって来ていたのも事実だ。 「万が一ということもある。もう少しここで待っていよう……心配だ」 マイクロトフの言葉にカミューは驚いた顔をする。 「心配? ……私が?」 「他に誰がいる?」 「私のこと心配してくれるのかい?」 「当たり前だろう」 へえ、とカミューは嬉しそうに笑った。 「そうか、じゃあもうちょっと待ってやろう」 再びどかりと腰を下ろしたカミューはいい気分になっていた。 誰かに心配されるのは嫌いじゃない。おまけにさっきからマイクロトフを責めてばかりいたのに、この男は相当なお人好しだ。そう考えると楽しくなって来たのだ。 「マイクロトフも座りなよ。しばらくどうしようもないよ」 「あ、ああ……」 マイクロトフはエレベーターの視角の隅で、カミューとちょうど対角線で結ばれる向こう側に腰を下ろす。カミューはそれが気に入らなくてむっとする。 「何でそんなに離れるんだい?」 「だって、重みが片寄ると……」 「それっくらいで落ちやしないよ。こっちに来てくれ、私は寒いんだ」 そうか、とマイクロトフは恐る恐るカミューの隣にやってくる。流石に男2人の体重が集まったくらいではエレベーターはごくともしない。されては困るのだが。 「さっきみたいに思いっきり揺らしたりしなければ大丈夫だよ」 「そうだな……」 マイクロトフの口調に大分疲労が見えて来た。カミューは反対に元気になって行くのだが、彼は目に見えて疲れているようだ。 「マイクロトフ、疲れた?」 「ん……、いや、眠くて……」 マイクロトフは瞬きを繰り返している。まだ12時半くらいなのでカミューは全く眠気を感じない。 「もう眠いの?」 「ああ……普段ならもう寝ているから……」 「もう? まだ12時半じゃないか」 「だってもう日付けが変わってるんだぞ」 どうやら生活スタイルが全く違うらしい。お互いに不思議そうな顔をして、それからしばらく自分達のことを話し合った。 何も初対面の相手にこんなことを話さなくてもいいのに、と思わなくもなかったが、会話をとめるとマイクロトフが寝てしまうのでカミューは喋りっぱなしである。 マイクロトフもまたカミューを置いて寝てしまうのが心苦しく、そしてこのまま寝てしまうと風邪をひくこと間違いなしなので気力を振り絞って目を開けていた……彼にしては長かった。 それから時計が3時をさす頃、マイクロトフはすっかり寝息をたてていた。 カミューは四角い空間でため息をつく。 もうすぐ4時になる。一体いつまでこうしていればいいのか。 エレベーターの床に座っているものだから腰は痛いし、おまけにぐっすり寝入ってしまったマイクロトフが左肩に寄り掛かっているので重い。寒さは解消されたが……。 それにしても長いこと話をした。カミューは隣で子供のようにすうすうと寝ている男を見る。 (変だな……) もう長いこと一緒にいたような気がする。実際その通りではあるが、なんだか月や年単位の知り合いだったように感じるのだ。 不思議な縁もあるもんだな、とカミューは目を閉じる。 目を瞑ると自分も段々眠くなって来た。 マイクロトフの体温が温かい。 いけない、ここで眠ったら…… 「……!」 飛び起きた――つもりだった。 マイクロトフは目を開けてすぐに全身の痛みに顔を顰め、そして右肩にかかる重みに振り向く。 亜麻色の髪ががっくりと項垂れている……ではなく、眠っている。 一瞬誰だろう、と考えかけてすぐに思い出す。そしてこの場所が何処かも気づいて時計を見た。――午前5時。ほぼ朝である。 こんな時間に未だエレベーターに閉じ込められていることに愕然とした。そしてカミューがすっかり眠ってしまっていることにも驚いた。 夜には強いと言っていたのだが、さすがに疲れてしまったのだろう。マイクロトフはカミューを起こさないように彼の身体をはがし、ジャケットを脱いでかけてやる。 そしてどうしたものか、と立ち上がってふと気づいた。 エレベーターのボタン、8階部分にランプが灯っている。 これは突然急停止してから騒いでいる間には消えていたはずだ――その微かな明かりに酷く違和感を感じたマイクロトフは、恐る恐る「1階」のボタンを押す。 すると1階にランプの点灯が移ったと思った瞬間、いつも通りに少しの振動を従えてエレベーターが下へと動き始めた。 マイクロトフは呆然と口を開ける。 エレベーターは何事もなく1階に到着し、その扉を開いた。見慣れた景色。マイクロトフは脱力した。 「……何だったのだ……」 その声に反応したらしいカミューが、うーんと唸りながら身体を捩らせた。マイクロトフははっとしてカミューを起こしにかかる。 「カミュー、カミュー!」 「う……、もう少し……」 「そんなこと言ってる場合ではないぞ、エレベーターが動いた!」 カミューがはっと顔を起こす。そして開いているエレベーターのドアに呆気にとられた様子だった。 「ど、どうやったの?」 「いや、起きたら動くようになっていた……」 「なってたって……あ」 しばらく放置された扉が閉まろうとする。マイクロトフは咄嗟に「開」ボタンを強く押し込んだ。ドアは再び開く。 「……ちゃんと動くみたいだね」 「ああ……」 「……とりあえず、出ようか……」 2人はエレベーターを出て、閉まった扉を背中にうーんと背伸びをした。そして顔を見合わせ笑う。 「とんだ目にあったな」 「全くだ……もう朝じゃないか」 どうする? とお互いの反応を確認し、そして苦笑しながら階段を使って自分の部屋へと戻ることを決める。 もうこりごりだ。……でもあんなのも悪くない。 「辛いな、脚ががくがくする」 12階でカミューは膝を押さえた。 「俺はあと3階残ってる」 「頑張れ」 カミューは苦笑いするマイクロトフに笑って、じゃあ、と自室へ向かった。 振り返り、 「……またね」 右手を軽くあげる。 マイクロトフも、 「ああ、また」 右手を上げ返した。 数年後、これが思い出話として何度も語られることになろうとは、2人はまだ想像していなかった頃のこと。 |
密室の2人。……というリクでした。
しかし2人が力を合わせて脱出する、
というものをリク下さっていたのですが、
力合わせて喧嘩してましたね……。
ちょっとリーマンとかぶってますな。
無駄に長かったです……。