Number one,own sea






『夏のグラスランドはそれは美しいところだよ』
『まるで一面に広がる海原のようだ』
『晴れた空の下で青が重なる景色は……とても言葉に表せないよ』
『世界中探したって見つからない美しさだ』
『お前にもその目で見てもらいたいな。』

 遠回りに遠回りに、気づかれないほどの将来への誘い。





 ***



「マイクロトフ、本気で言ってるのか?」
「ああ、早く支度をしろ」
 カミューはもう一度窓の外を見る。正確には「窓の外」は見ることが出来ない……まるで磨ガラスのように曇った窓、外の景色などまるで見分けることが出来なかった。
 叩き付ける風とそれに煽られた雪のせいで、被われた窓の向こうを見通すことは不可能である。
「あのね、どう見ても猛吹雪にしか見えないんだけど」
「風が強いだろう。雪の感じからしてあと数時間でおさまる。」
 マイクロトフは着々と準備を進めている。……外出の準備を。
 厚手のコートに、飾り気のない手袋は機能性を重視したもの。防寒ばかりに気を使っていてはいざという時指先が自由にならないものが多いからだ。フードをしっかりと被り、風に奪われないようとめておく。ブーツも、寒気でも冷たく固くならない足にフィットしたものを揃えて、再びカミューを目で促した。
 ……ちょっとそこまで、という装いではない。
「出かけるなら晴れた日にしよう。何もわざわざこんな夜に外へでなくてもいいじゃないか」
 暖炉の灯が赤々と燃える暖かな室内、それに未練がありありのカミューは最後まで抵抗を示す。
 今夜の気温はマイナス20度。雪もちらちら、なんて生易しい表現ではなく、寒気を凝縮した少し小粒の塊が激しく全身に叩き付けられる天候だ。
 何だってマイクロトフは無謀なことを言い出すのか。カミューが何度止めるよう勧めても、マイクロトフは平気な顔をしてカミューを誘い続ける。
「言っているだろう、雪はじきに止む。早く支度をしろ」
 すっかり防寒対策を終えたマイクロトフは、未だ部屋着のカミューにそう告げて仁王立ちになった。
 こうなると動くまい。
 カミューは渋々、できるだけゆっくりと支度をし始めた。見兼ねたマイクロトフがカミューの手袋やらブーツやらを用意するほどだった。
 どんなに時間をかけようとも、30分もすれば支度は出来上がってしまった――カミューはマイクロトフに引きずられるようにして大荒れの雪の世界に放り出されることとなった。



 ロックアックス暮らしも10年近くになったとはいえ、毎年大量に降る雪だけは別で。
 冬の季節だけは身体が馴染むことを拒否するのか、四季で選ぶとしたら間違いなくワーストだとカミューはぶつぶつ呟いていた。
 昼間は寧ろ晴天に近かった冬空は、午後になるにつれて風が強くなって来ていた。夕方からぱらぱらと雪が降り始め、やがてそれは吹雪と呼ばれるほどに成長してしまった――窓を叩き、隙間から冷気を吹き付け、時折室内のランプの炎でさえ揺らすほどの風を伴って。
 そんな中にどうして出て行かなきゃならないんだ。
 カミューは先導するマイクロトフを追っていた。
 マイクロトフは黙々と歩いていた。ロックアックスを抜け、年に何度か訓練場所として使う郊外の森への道だった。
 昼間ならば、いや夏ならばなんてことはないただの森だ。だが今は夜だ。冬の大地だ。
 ましてやこんな荒れ狂う空の下で、何故森を抜けなければならないのか。
「マイクロトフ! 危険だ、引き返そう!」
 風に負けじとカミューが声を張り上げる。
「大丈夫だ! あと1、2時間我慢しろ!」
 前方からこんな返事が帰って来た。
 あと2時間もこんな雪の中にいろというのか?
 カミューの身体を脱力感が襲うが、マイクロトフから距離がつくとそれこそ危ない。ましてやマイクロトフを一人で行かせるのはもっと危ない。
 仕方なく、長年この森を遊び場にしていたという現青騎士団長の後ろに続くことにした。

 雪は水分の少ない、さらさらとした手触りなのだろう……風がなければ。
 次々に足跡を消してゆく降雪は、冬用に造られたブーツを砂の中に引き込むように纏わりつく。足が取られてスピードが上がらない――こればかりはマイクロトフも同じで、彼は急ぐというよりは慎重に新雪を踏み締めていた。
 足下はまだよかった。何しろ今日の零下は久々のレベルだ。黙っていればそれだけで全身を痺れさせるような、まさに刺すといった表現がぴったりな空気だろう。それも風がない場合でのことだ。
 強風は容赦なく二人の顔に雪を叩き付ける。雪の細かい粒が服の隙間から体内に潜り込む。あまりの凄まじさに一瞬呼吸がとまって心臓が怯える。慌てて顔を逸らして酸素の場所を確保する、前に進む――この繰り返し。
 視界は50メートルといったところだろうか。まだゼロではない。しかしカミューは初めてマチルダを訪れた時の冬に、視界ゼロの雪の中での訓練を体験したことがあった。一歩間違えば隊が全遭難しかねない、稀に見る天候での出来事だった。あの時の恐怖は忘れたことがない。
 マイクロトフの背中を追う。この形を見失ったらもう帰れないような気がした。……後でマイクロトフにそう告げたら、目と鼻の先の森で何を言っているんだと呆れられた。
 1時間は歩いただろうか。先ほどより風が弱まった気がする。カミューは空を見上げた、相変わらず濁ったようなグレイの空、降り続く雪が少し大粒になったかもしれない。
 吐き出した息の白さを確認することができる。風が苦しめていたコートの裾が、ばさばさからひらひらと擬音を変えていた。
 森の木々の輪郭が分かるようになって来た。天を突く枝の先が風に揺れている。
 カミューは手袋のまま前髪に触れた。風雪に晒されていた髪は、氷の束を幾つかぶらさげていた。指の腹で擦るとパリパリという音とともに髪の毛が解れて行った。
 マイクロトフの背中がはっきりと見える。
 カミューはフードを抜いだ。
 風の威力はほぼおさまりつつあった。降り続く雪の間隔が広くなり、小粒から大粒へと変化していたそれはやがてまた小粒になり、もう1時間ほど歩くと雪も完全にやんでいた。


 先程マイクロトフが目安に使った1、2時間はとうに過ぎていた。
 二人は無言で歩き続けた。
 風も雪もやんだが、今季一番とされる空気の冷たさは手を抜いてはくれないようだった。
 フードを脱いだことで顔を冬空の下に晒したカミューは、被っていない部分がことごとく痛むのを実感していた。触れて温めるとびりびりと痺れるだろう。いや、急速に熱を加えたら肌が割れてしまうのではないか――凍り付いた頬は小さな針で至る所を突かれているようだった。
 月が昇っているおかげで道に迷うことはなさそうだった。事実、マイクロトフは先程よりも真直ぐに歩いて行く。
 森の木々の背がだんだん低くなって行った。
 二人の他は誰も歩いていない白い道に、足跡が1列になって彼らの後を追う。
 雪を踏み締める音と、呼吸。最早枝さえ揺れることもなく、静かな森のハズレでマイクロトフはふいに立ち止まった。
「……?」
 カミューもマイクロトフの2歩後ろで同じように立ち止まる。
 マイクロトフは振り向いて、カミューに笑顔を見せた。
「この先だ」
「この先……?」
 そこからは並んで歩いた。語らない森を抜け、視界におさまり切らない広々とした景色が飛び込んで来た――
「――」
 カミューは声を失った。
 白い海。
 いや、銀の海だ。
 辺り一面、どこを見ても白銀の水平線が広がっていた。
 浮かぶ真円の満月の光、キラキラと小さな光を無限にも反射させた無の世界。
 建物も木も何も風景を邪魔することなく、ただただ大きな海としか言い様がなかった。
「……凄い」
「だろう」
「白銀の海だ」
「ああ、大海だ」
 カミューはマイクロトフをまじまじと見る。悪戯っぽく笑う彼の頬は冷気で真っ赤になっていた。
「お前、これを見せるために私を呼んだのか?」
「ああ、満月の日を数えたらな、今晩がチャンスだったんだ。月が出ていないとこの景色は完成しないからな」
「……何故?」
 そう、何故。
 マイクロトフは満月が出ていることを知っていた。2時間ほどで風も雪もやむことを知っていた。
 ならば何故、この海原をカミューに見せようとしたのか?
「何故って、お前が言っただろう。グラスランドの草原は世界中何処を探してもないほど美しいと。」
 カミューはどきりとする。
 その言葉には含みを持たせてマイクロトフに伝えたものだ。尤も、彼はその真の意味を分かってはくれなかったようだが――
「俺はこのロックアックスの冬の海ほど美しい景色を見たことがない。だからお前にも見せてやったんだ。俺の世界一はこれだとな」
「……成る程」
 マイクロトフの負けず嫌いに巻き込まれたというわけか。とことん失敗した訳だ……カミューは苦笑して、改めて光の海を見つめ直した。
「……とても神秘的だ。美しいよ。」
「だろう? グラスランドよりも?」
「……どうだろう、それは……」
 遠い故郷の夏の大地に思いを馳せる。全ての恵みが重なって産まれた緑の海。かの場所に必要なものは雲ひとつない青空と風の匂い、照りつける太陽だ。
 この静かなる白い世界とはまるで違う。
「比べられるものかどうかが分からないよ」
「そうだろうな。だから次はカミューの番だ」
「……え?」
 カミューはマイクロトフを見た。二人の間に白い息が浮かんで消えて、マイクロトフのはにかんだ笑顔を一瞬隠した。
「俺はここまで連れて来たぞ。……だから今度はカミューの番だ」
「……マイクロトフ」
「俺にも見せてくれ」
 ――ああ、そうか。
 彼は真の意味を理解していないだなんて。分かっていなかったのは自分だったのではないか……カミューは瞬きを2度繰り返し、睫毛も震えるほどの寒さを完全に忘れた。
 マイクロトフが首を少し傾ける。言っていることが分からないのではあるまいな?
 カミューは眉を垂らしたまま複雑な笑顔をマイクロトフに向けて、ひとつ大きく頷いた。
「冬が終わったら招待しよう。私の故郷へ」
 歯を見せて笑ったマイクロトフの口唇から白い気体が零れて消えた。
 月は大きく空に腰を据えて二人と海を照らしている。
 見上げれば降るような星空が夜の闇を彩っていた。
 空にも漆黒と光の海が広がっていた。






すでにお年賀というより寒中お見舞いの時期になってしまいました。
以前とちょっとネタが被っているのですが……アワワ。
遅れましたが今年もよろしくお願い致します。
今年も騎士で頑張る年にしようと思います。

2002.1.12 蒼玻玲拝

↑当時の文をまたまた残してみました。
ホント同じようなネタばっかりですね。