その朝はよく晴れていた。 風はやんでいた。 そろそろなのだ、と不思議な感覚で解っていた。 焦がれる程の渇望は今まで見せたことがなかった……しかしその時がやって来れば、全てを投げ出すことも躊躇わない自信があった。 いや、投げ出すのではない。 自分にはとうに何もないのだ。 騎士の誇りも魂も、3年前に戦争が集結してから――本当はエンブレムを捨てたあの瞬間から、なくなってしまったもの。 ここにいるのはただのぬけがら。 置いてきぼりのただのぬけがら。 置いて行かれることを受け入れたのは、それが必要だったからだ。 自分にはやるべきことがあり、彼にもまた行くべき場所があった。 そして自分の仕事を果たす毎に失われてゆく誇りと、求めることを望まなくなった輝き。 もう、いいのだ。 全ては必要のないもの。 自分が必要としない、そして自分を必要としない世界。 分かっていたから辛くはなかった……しあわせだった。 何もかも失った後で、必ず残るものがあることを知っていたから。 それがもうすぐ自分を迎えに来ることが、よく分かっていたから。 全て消えてしまうことがこんなにも楽になることだなんて知らなかった。護り続けていた物から手を離した瞬間、縛り付けられていた何かがぽろりと外れる音がした。 これでいいのだ。これでよかったのだ。 自分一人がいなくなっても、世界は変わらず時を刻んでいる。 世界の軸になる必要はない……ただひとつの為だけに在れば。 だから、諦めてしまった。 諦めることを恐れずに、ぬけがらのまま待ち続けていた。 迎えがもうすぐやって来る。 *** 「マイクロトフ様、少々お時間宜しいでしょうか」 ノックの後にそう告げて入って来たマイクロトフの元部下は、数十枚の書類の束を抱えていた。 座ったまま窓の外を眺めていたマイクロトフは、現在の青騎士団長の来訪に椅子を回転させ立ち上がる。 「いえ、そのままで。座ってらして下さい」 彼は長年の癖が抜けずに恭しい素振りでマイクロトフを押しとどめ、自ら歩いてマイクロトフに書類を示した。 「新しく制定された条項について二、三御助言を賜りたいのですが……」 「俺の助言に価値などあるまい……。」 「そのようなことをおっしゃらないで下さい。今のマチルダを導かれたのはマイクロトフ様ではございませんか。」 マイクロトフはふっと目を細めた。自嘲気味な笑いであった。 「いつかは空想となることだ……」 「……マイクロトフ様」 不安げに書類を抱えたまま青騎士団長を立たせておく訳にも行かず、マイクロトフはやや表情を和らげて手を伸ばした。 「では目を通すだけ通してみよう。しかし責任は取れんぞ。俺はいついなくなるか分からんのだからな」 それはマイクロトフの口癖でもあった。 同盟軍が長い戦いに勝利をおさめ、各都市が建て直しを計る中、マチルダ騎士団もまた同盟軍に参加したカミューとマイクロトフによってより新しく復興を進めていた。 しかし新上役が誕生する前にカミューはひっそり旅立ち、マイクロトフもまた新たに肩書きを持つことを頑なに断った。 その上、騎士を辞職し城下に降りようとさえしたマイクロトフを、いわばお目付役としてとどめるのが精一杯であった。 カミューがマチルダを出てから、騎士団内ではマイクロトフも後を追っていなくなるのではないかと噂された。 しかしマイクロトフはそんな素振りを見せず、三年経った今でも相変わらず穏やかだった。 よって何度となく繰り返されたマイクロトフの口癖も、あまり元青騎士団長に頼らずに自分たちの力で騎士団を支えよとの戒めと受け取られていたのだった。 ある朝、彼は唐突にやって来た。 それを急と感じていなかったのはマイクロトフだけであったらしい。 いつものようにマイクロトフの執務室にやって来た青騎士団長は、微笑んで窓の外を見下ろしているマイクロトフを不思議に思い、自らも窓辺に立ってはっとした。 城下の街が見渡せる眺めの良いこの窓からは、ロックアックス城に栗毛の馬に跨がった一人の男が入城してくる姿がはっきりと見えた。 青騎士団長が声を失って思わずマイクロトフを見ると、今まで無言で微笑を浮かべていたマイクロトフが、 「人払いをしてくれないか。」 驚いたままの青騎士団長に、落ち着いた声色でこう告げた。 「俺とカミュー二人だけにしてくれ。」 *** ノックもそこそこに扉を開けて入ってきた彼に、どんなリアクションをとるか考えてはいたのだった。 しかし、予定の落ち着いた素振りはとうとう見せることができず、彼の姿が見えた途端一も二もなく駆け寄ってしまっていた。 「カミュー!」 カミューはマイクロトフの身体を抱きとめ、日に焼けた顔で微笑んだ。 「ただいま、マイクロトフ……」 カミューは太陽の匂いがした。マイクロトフはカミューの肩に顔を埋めて、その変わらぬ暖かさに目を閉じた。 「……元気そうだ……よかった」 「カミュー、お前も」 「待っていてくれた?」 「ああ。ずっと、待っていた」 胸を合わせたまま、顔だけを起こしてお互いを見つめあった。 三年ぶりのその表情は、変わっていないようでほんの少し変わっていた。 ふいにカミューが破顔した。マイクロトフも笑い返した。 待ち切れないように口唇を合わせて、それぞれの衣服を脱ぎ捨てた。 久方ぶりに触れる他人の体温が、これほど心地よいものだとは知らなかった。 マイクロトフは熱に浮かされたように目を細めて、自分の上に重くのしかかってくるカミューの背中へと腕を伸ばす。 カミューの背には腫れ上がったような痕があった。刀痕だとすぐに分かった。 「……どうした、これは……?」 カミューは細く息を吐き出してから、マイクロトフの頬へと鼻をすり寄せる。 「盗賊の類いに。……少し油断したら後ろからバッサリやられた」 「馬鹿だな……こんなに、大きな痕を残して」 「うん……、マイクの傷、つけてよ」 カミューの口唇がやんわりとマイクロトフの首筋に噛み付く。 「マイクの新しい傷痕、つけてよ……」 それが合図のように、カミューは入り口で燻っていた自身の肉塊をマイクロトフの内壁に鋭く押し付けた。 マイクロトフは短い悲鳴を上げ、その広い背に深く爪を潜り込ませた。 肉を掻く感触に、カミューも切な気に目を閉じる。 飽きる程の口付け。 長いこと他人が触れていなかったその部分は、驚く程敏感になっていた。 カミューの感触にマイクロトフの口唇は震えた。 温かい舌がそっと歯並びを確かめ、口内に潜む舌を誘い出し、糸を引いてはまた深く絡み付いてくる。 上口唇への啄むようなキス。 下口唇への摘むようなキス。 息も苦しくなるくらいに長い口付け、マイクロトフが眉を顰めた。 ほんの少しずらした隙間から長い息をつき、うっすらと瞼を開くとカミューもこちらを見ている。 思わず口唇を合わせたままで吹き出した。 カミューも可笑しそうに肩を震わせていた。 半分声に出して笑いながら、長い長いキスの続きを始める。 「……三年、私がいなくて淋しかった……?」 カミューの腰の動きに合わせてマイクロトフの前髪が揺れる。 渇いた口唇を舐め、マイクロトフは掠れた声で答えた。 「思っていた……ほどでは、なかったけれど」 「なんだ……私は淋しかったのに」 カミューが回転させるように腰を押し付けて、マイクロトフは息がとまったように喘いだ。 「戻ってくることが、分かっていたから……」 「……うん」 固く立ち上がった胸の突起に口唇を寄せ、転がしながら空いた左手でマイクロトフの下肢を弄る。 最早多少の刺激でも反応を見せるマイクロトフの身体は大きく揺れ、我慢できないといったふうにカミューの首にしがみついた。 受け入れることも数年ぶりの身体はひどく固くなっていた。 脚を広げられるのが辛くて、しかしそんな様子を見てカミューは嬉しそうだった。 「誰にも触れられてないんだ?」 「あ……たり前だろう……!」 たくさんの赤い斑点が散った胸や内股を愛おしそうに撫で回し、汗と唾液に濡れたマイクロトフの身体の至る所に舌で触れた。 あれだけ離れていたのに、素直に応えてくれるマイクロトフがたまらなくて、カミューもつい動きを焦らしてしまう。 腹の下で耐えている表情にくらくらする。 あれだけ離れていられたのが不思議なくらいに。 「逢いたかったよ。抱きしめたかったよ。でも……来るべき時まで我慢した……お前を、信じていたし」 お互いに果たすべきことがあった。 そのために離れることは必須だった、しかし再びひとつになることは無言の約束だったから。 ようやくその時を迎えることができた。ようやく全てを捨てる決心がついた。 何もかも諦めてしまったけど、ただひとつ残っているものがある。 「カミュー、……カミュー、頼むからっ……」 マイクロトフが耐えきれずに目尻に涙を浮かべ、自ら腰を揺らしてカミューに哀願する。 その媚態にカミューの口唇もきゅっと閉められ、締め付ける蕾をこじ開けるように腰を打ち付けた。 脚を高く上げたままマイクロトフが声を上げた。 こうして、何の怖れもないような。 何の不安もないような、ただ抱き合っていられるだけのような。 明日の事を考えずに暮らしていけるなんて都合のいい世界、本当はあるはずがないのだけれど。 それでも、今こうして繋がっている瞬間だけは、身体に同じ血が流れているのだと。 そんな錯覚を思わせるほどに互いの考えていることが分かる。 身体も心も別々だから、そんなはず決してありえないとしても、そう信じることはできる。 愛しいという想いだけで生きていける、愛情のために生きて行く。 少し前までは思いもしなかった。 だけど今、確実に自分たちには何もない。 あるのは愛という名の感情だけ。 夢も希望も何ひとつなくて、必要なのは互いの存在だけ。 誇りも未来も全て必要なくて、あるのはこの身体の温もりだけ。 何も望まない。何も求めない。 何もかも捨ててしまえる。そんなこと怖くも何ともない。 今なら何にも縋りはしない。剣に誓いをたてたりなんかしない。 全てはこの一瞬、二人でいられるそれだけが全てなのだと……。 全ては必要のないもの。 自分が必要としない、そして自分を必要としない世界。 互いの存在があればそれでいい……狭く深い世界を造り上げて閉ざしてしまえ。 そうして生きることに悔いも躊躇いも、何もなくなってしまった。 諦めてしまったのだ。 貴方を除いて。 *** 「……いつ出発する?」 「明日の朝早くに」 ソファから聞こえた返事に、カミューが振り返った。 その表情からすると予想外の答えだったようだ。 「いいのか?」 「何がだ?」 「……ここの騎士達に何も言わなくて」 「前からいついなくなるか知れないと告げてはある。冗談だと思っていたようだったがな。だが今日お前がやって来たことは今頃城中に知れ渡っているはずだ。……きっと納得するだろう」 裸のまま窓辺に立ち、カーテンの隙間から懐かしい風景を見下ろしていたカミューは、同じく裸のままソファに身体を横たえているマイクロトフの元へと近付いた。 「……そんな身体で本当に馬に乗れるか? 西方への道は険しいぞ」 「これでも早朝訓練は欠かしたことはないんだ。甘く見るなよ」 そう言いながらも随分とまいっているようで、マイクロトフは起き上がろうとしない。 カミューは笑いながらソファに腰を下ろし、マイクロトフの黒髪に指を差し込んだ。 気持ち良さそうに目を閉じるマイクロトフへ、身体を屈めて瞼にそっと口づける。 「……じゃあ一眠りしたらすぐに支度をしよう。お前の荷物を纏めて」 「荷物はもう纏めてある」 「何だって?」 マイクロトフは目を開き、悪戯っぽく笑って身体を起こした。 少し痛みが走るのか眉を瞬間寄せたが、すぐに笑顔をカミューに向けた。 「お前が来る予感がしていたからな」 「……まいったな、愛されてるんだ?」 「お前が俺を愛しているのと同じくらいにはな」 その返答にカミューは吹き出した。 「それは相当だ」 マイクロトフも声に出して笑い、それはすぐにカミューの口唇で塞がれた。 眠るのはよそう、と囁きあう。 今すぐ出よう。早く二人になりたい。 全てを捨てて行くのだから、早いほうがいい。 この手を握り合わせれば、それだけで生きる理由になる。 その目で見つめあえば、それすらも生きる理由になる。 今までの自分にさよならを。 これからは一人ではなく、二人でひとつに。 どこまで堕ちていけるのか、試してみるのもいいかもしれない。 |
騎士であることをやめた二人がゲーム中で、
何度も「騎士の名に〜」と連発するのがどうしても納得いかなかったのです。
“騎士ではない”と言っているにも拘わらず。不思議な矛盾。
いっそ何もかも捨ててしまって、それでも幸せでいられるような、
そんな都合のよい二人が最大の理想でした。
何も考えて生きていけるわけではないけれど、
不可能ではないかもしれないと。