「ひどくやられたな」 四肢の力を抜いて横たわる草むら、頭上から聞こえてくる穏やかな声と、まるで草を引き摺るような足音に、ゆったりと首を持ち上げる。 声の持ち主は横たわる黒髪の頭を挟むように立ち、顔を覗き込むように大きく彼を見下ろした。よく晴れた青空の下、陽の光が透ける髪は横たわる彼にとってやや眩しく、逆光で表情がよく見えない。 しかし血と泥で薄汚れた格好を見ると、彼もまた満身創痍であることは間違いなさそうだった。 「お前こそ」 横たわる男はそう呟いて、自分の声が思った以上に掠れていることに気づく。見下ろす彼が少し笑い、 「おいおい、相当バテてるんじゃないか。しっかりしろよ」 そう言いながら彼の傍ら、草むらに腰を下ろした。 「少し休んでいるだけだ。……もう少ししたら立つ」 「そうかい。……じゃあ私も便乗しようかな」 赤黒い血が滲む騎士服は、すでに目の覚めるような青を失っていた。横たわるマイクロトフは、その言葉に特に何も答えず、じっと空を見つめている。 破れた袖口を邪魔そうに千切るカミューは、腰を下ろしたことで自然に出てきたため息を利用し、目立たないように乱れた呼吸を整えていた。 遠くからはひっきりなしに地鳴りのような音が響く。 もう少し近づけば、馬の嘶きも、剣を交える音も、地面を揺らす大軍の足音も、人々の怒号や悲鳴も、この場所よりはっきりと聞き取れるのだろう。 よく晴れた空の下、地上に立ち込める血の臭い。 二人は前線からやや離れた森へ敵兵を追っていた。 不眠不休の身体は痺れ、乾いた風が傷口に染みる。何度限界を越えたと思ったことだろう、恐らく最後の戦いであるこの日、彼らは自分自身への奇跡を幾度も実感していた。 昨日までの自分なら、数時間前にこの状態になっていたはずだ。しかし今日は。明日からは。思いだけはどこまでも高く昇って行こうとする。 いよいよ容易に動かなくなった身体を横たえて、それでもマイクロトフは瞳だけをぎらつかせていた。傍に座るカミューも、涼しげな目の奥にじりじり燃える炎を揺らめかせている。 最早勝利は目前だった。今さら自分たちが奮闘しようとするまいと、結果は変わるまい。しかし、だからこそ動かねばという気持ちもあった。 カミューは軽く前方に身を屈め、腕を伸ばした。草むらに投げ出された、戦の真っ只中でありながら震え続けているマイクロトフの手を取るためだ。 「こんな手で剣が握れるのか?」 「馬鹿にするな。武者震いだ」 カミューは思わず吹き出してから、その手にそっと口唇を寄せた。マイクロトフは黙っている。 耳を澄ませば小鳥の声さえ聴こえてきそうな、木漏れ日の美しい森の中。 すぐ傍に戦場があることを忘れてしまいそうになる。 しかしこの場所から幾歩もいかないうちに、マイクロトフが最後に剣を振るった敵兵の死体がある。マイクロトフの手を取るカミューの手の甲は、紋章の使いすぎで薄ら焦げ黒く変色し、その手を覆っていたはずの手袋はすっかり焼け落ちてしまった。 束の間の休息は、端から見ると二人の足をこのまま留めてしまうかと思われた。 「私が来なかったら、いつまで休んでいるつもりだったんだ?」 「お前が来ることは分かっていた」 「……敵わないね」 カミューは背中を丸めて頭を下げ、強く空を見つめるマイクロトフに顔を近付け、泥で汚れたその口唇にやわらかく口付けた。鉄の味が広がる。マイクロトフは軽く伏せた目を閉じることなく、空の代わりにカミューの長い睫毛が揺れるのを見ていた。 口唇を離した後、カミューがぽつりと呟く。 「戦の前にたまに考えることがある。……もし今回の戦で私たちが死んだら、どちらかが女に生まれ変わってきたらどうだろう。そうしたら人前でもキスができる」 「……」 マイクロトフは何か言おうかと考えるような素振りを見せた。ほんの少しだけ迷った目が揺れ、マイクロトフが言葉を探し出す前に、カミューは再び口を開く。 「でも、そうなってしまったら、戦場でこうして隣にいることはできないな」 「……」 「元々私とお前は戦いがある故に出逢ったようなものだ。男と女に別れてしまえば、出逢うことさえ難しいかもしれない」 「……ああ」 「ならば私は、確実にお前に会って一番近い場所を選びたい」 「馬鹿なことを考えるのが好きだな、お前は」 カミューはからかい半分のような口調ではあったが、その端々に重大なヒントを隠していた。まもなく戦争が終わろうとしている今の時勢、マイクロトフにはその謎掛けの意味が分かったが、敢えて答えは出さないことにした。 先のことなんてあまり考えるな。――マイクロトフは言いかけた言葉を呑み込んだ。 一瞬の間の後、カミューはすっと立ち上がる。半ば足を引き摺るように現れた最初とは別人のようだった。 カミューの伸ばす腕を取り、マイクロトフもまた立ち上がる。そのまま勢いをつけて、油断していたカミューの口唇を噛み付くように奪ってやった。面食らった表情が見えてマイクロトフは満足する。 「……続きは戦が終わった後だ。余計なことを考えている暇などないぞ」 「……やっぱり敵わないよ」 顔を見合わせて笑う二人が、腰に収めていた剣を再び手にした時、もうその表情は武人のそれに変わっていた。 くたびれきった身体には闘気が満ち、そうしてまた二人は自分の身体に奇跡を見るのだった。 剣を持つのには理由がある。しかしお互いの隣を守る存在に理由はいらない。そして改めて思う。自分に生まれてきてよかった。二人に生まれてきてよかったと。 鍛えられた足で地面を蹴り、土煙がこもる大地へと飛び出していく。剣を振るたび、目の前の道が少しずつ開かれていくと信じてきた。すでに人生の半分近く、この手で人の血を流し続けている。信念はひとつ。揺らいだことも数え切れない。それでも時の流れは止まらない。自分と時代を信じるしかなかった。 腕を伸ばせば一番大切な人に手が届く。――そのことに気づいたのはいつ頃だっただろう? 決して心安らぐ存在ではない。陳腐な言葉は使いたくないが、しかし運命があるのなら相手は彼だろう。恐らくお互いがそう思っていた。 カミューの言葉を借りるなら、とマイクロトフは考える。何度生まれ変わったとしても、自分と彼がいればそれだけで時は動く。 マイクロトフの気持ちを汲むなら、とカミューは思いを巡らせる。何度生まれ変わったとしても、自分が彼を見つけ出しさえすればそこから全てが始まる。 右手に、剣。 左腕に、彼を。 今の身体が終わっても、いつかまた知らないうちに巡り合う。命はそうして繰り返す。 (生きるべきは今) マイクロトフの剣が唸る。後方で火柱が立つ。 自軍の旗が掲げられた瞬間、これまで内側深く押さえ込んでいた疲労がどっと降りてきた。 これまで覚えのなかった体中の痛みが騒ぎ出す。安堵半分、苦痛半分でマイクロトフは複雑なため息をついた。 緩んだ気の間合いに、慣れ親しんだ気配を感じた。振り向いて確信する。何故だか二人は苦笑いした。 「終わったな」 カミューの言葉に、 「いや、始まりだ」 マイクロトフは力強く返してみせた。 「……本当に敵わんよ」 肩を竦めたカミューはどす黒く変色した手の甲を撫でながら、空を見上げて目を細めた。 「ああ、いい空だ」 マイクロトフも空に魅かれる。 ひとつの時代が終わろうとしていた。それはまた、新たな世界の幕開けでもあった。 |
去年のカミマイ祭のデジタルアンソロジーに
贈らせていただいたものです。
自分なりのテーマが「原点復帰」だったのですが
これを書いて原点そのものがずれているんだということに
やっと気付きました。うーむ。