空めぐる冒険







 誰にも気付かれないうちに出かけよう。












 空の色は夜明けにはまだ時間のある濃紺で、ぱらぱらと銀の星が鏤められていた。静まり返った石造りの重厚な城内に人気はない。ハイランドと同盟軍の戦いが集結を迎えてから、しばらくは廊下に立つ見張りも緊張感を伴っていたのだが、さすがに今では見張りそのものの数を随分減らしても特に問題が発生することはなかった。そう考えると、あれからかなりの時間が経ったものだと一人廊下を進むマイクロトフは思った。
 静寂に響く自分の足音はどこか淋し気に遠くまで響いていた。出発前から頼り無いことだと、苦笑まじりに溜め息が漏れてしまう。
 誰にも知られないよう、何処へでも好きなところへ行きたかった。そんな願望が沸々と現れてきたのは、手元に回って来る仕事の内容が戦後処理から新しいものへと以降し始めた頃だったかもしれない。
 何かに縛られているような無意識の感覚があったのだろうか、無性に今いる場所から飛び出したくなっていた。生まれ育ったロックアックスの地に戻って来た時は、ここに骨を埋めることができるのだとあれ程感慨深くなっていたと言うのに……マイクロトフは自分の心がいかにアテにならないかを痛感する。
 だからなのだろうか、誰に告げることも無く出発の夜を選んだのは。目的のない旅に出るという後ろめたさがそうさせるもかもしれない。皮肉にも夜空はよく晴れて月が映え、マイクロトフの旅立ちを祝福しているように見えた。何とも苦々しい気分になる。
 城を出る前に、マイクロトフには向かう場所があった。相棒であり親友であり、恋人でもあるカミューの部屋だ。
 今回の旅についてはカミューにも伝えていなかった。無論今も告げる気はない。この時間なら起きてはいないだろう彼の最後の寝顔を見ておくつもりなのだ。しかしマイクロトフの気配に聡い彼のこと、その場で目を覚まされた時の言い訳まではマイクロトフは考えていない。
 計画性が全くないためなのだが、いろいろ考えていると煮詰まってしまいそうだった。やりたいことをしたい。その原動力に迷いはないものの、いざカミューのこととなると動きが鈍る。基本的にマイクロトフはカミューに弱かった。その彼に何も伝えずに旅立つ心苦しさがマイクロトフの足取りを重くする。
 それならば旅立たなければ、とかいっそ一緒に、などの思いが浮かぶのも事実だが、この土地を第二の故郷だと言ってくれた相手に旅立ちを勧めるのは憚られた。いや、そんなことはただのタテマエで、断わられるのが怖いのだ――悶々としたまま、マイクロトフは彼の人の部屋の前で足を止める。
 ドアノブを握ろうとして今の時刻を思い直し、鍵を取り出した。カミューからもらった合鍵だ。勿論カミューはマイクロトフの部屋の合鍵を持っている。
 明日の朝、起きて来ない自分を不審に思って、カミューは合鍵を使うだろうか。そうして誰もいない室内にどう思うのだろう……マイクロトフは鍵穴に鍵を差し込む。いつものように右に回そうとして、回らないことに気がついた。
「……?」
 鍵を左に回すと、カタンという小さな音がして鍵が降りた。――鍵がかかったのだ。
(開いていた……?)
 マイクロトフは再び鍵を右に回し、今度こそ鍵を外した。こんな時間に、カミューが鍵を開けて眠っているなんて。信じられない気持ちで鍵を抜いたマイクロトフは、そっとドアノブを回して扉を開く。
 部屋の中は暗かった。やはり眠っているのか、とベッドに近付こうとして、暗がりでも分かるベッドの凹凸の無さに気付く。誰も居ない。マイクロトフが青ざめた瞬間、
「驚いてくれて良かった」
 突然背後から届いた声に、心臓がぎゅうっと縮んだ。慌てて振り返ると、ドアの傍の壁に人影が凭れている。人影は腕を伸ばして、電気のスイッチを押した。
 明るくなった部屋で、中央に佇んで呆けているマイクロトフと、壁に寄り掛かって立っているカミューの不敵な笑顔が映し出された。
「お前の来訪も抜き打ちなんだからな、これでおあいこだろ」
「あいこって……、カミュー、なんで……」
「なんでじゃないだろう。私に黙って出かけるつもりだったくせに。」
 マイクロトフは耳まで真っ赤になった。今日までうまく隠してきたと思っていたのに、完全にばれていたとは。カミューの上向きの口唇の端が憎らしくも思えてしまう。
「暗い部屋でポーズ決めて待ってるのは疲れたんだからな。さ、いろいろと白状してもらおうか」
「白状と言われても……」
「一人で行くつもりだったのか?」
「……」
 マイクロトフは俯きでそれに答えた。静かな寝顔と最後の別れをするつもりだったのに、目を覚ましているカミューは普通の返事では黙ってくれそうにない。おまけにマイクロトフはカミューを納得させられるような理由を持ち合わせていなかった。何たって自分でも意図がよく分からない、逃げ出すような旅に出るつもりだったのだから。
「私にも黙って?」
「……」
「ひとつ聞いてもいいかな。お前と私は恋人同士じゃないのか? 違う?」
「……」
 カミューはマイクロトフにも聞こえるような、はっきりした溜め息をついた。
「まあ、お前がそう思ってなくても仕方ないけど」
「……違わない」
「……反応遅いよ、マイク。心配になるだろ」
 初めてカミューは複雑な苦味の混じった笑顔を見せた。それだけでマイクロトフの心の負担が軽くなる。
 カミューの表情というのは不思議なもので、笑顔でいる時はあんなにも豊かにマイクロトフを包んでくれるのに、一旦瞳から柔らかさが外れてしまうとどきっとするほど顔の色がなくなってしまう。端正な顔だちゆえなのだろうが、そんなカミューの様子はマイクロトフも不安にさせた。
 今までの彼がまさにそれで、色合いの変わったカミューの琥珀の目に、今度はマイクロトフが安堵の溜め息を漏らした。
「じゃあ、そんな恋人にも黙って何処に出かけるつもりだったのか話してもらおうか。その様子だと旅支度は終わったんだろ? 私にお別れしてすぐ発つ気だったな?」
「……何処に行くかは決めていなかった……。確かに、すぐ出かけようとは思っていたが」
「当てのない旅をするのに、どうしてこんなにこそこそ出発するような真似をしている? 明日、お前がいなくなっているのを見て、私を初め他の部下たちがお前をなんて思うだろうね……?」
「それは……、……」
 次々と振って来る、身を刺すようなカミューの言葉に、マイクロトフは自分の体温がどんどん上がって行くのを感じていた。カミューの言ったことにひとつも反論できない。正当な理由など自分には何も無いのだ。何故旅立つのかと聞かれれば、旅立ちたいからとしか言い様がない。何故黙って行くかと聞かれても、黙っていたいからとしか答えられないのだ。
「答えられない? ……そんなに後ろめたい顔をするくらいなら、何故出発する」
「……」
「お前に希望を見た人々を置いて、何処へ逃げるというんだ」
 マイクロトフの身体の内側からどっと汗が湧き出て来た。
 身体が熱い。眉を寄せ、痛みで知らず口唇を噛んでいたことに気がつく。カミューの言葉を頭で反芻し、渦巻いた重苦しい心がもやもやと大きくなって行く。
 ――俺にある希望とは?
「……そんな……、俺には希望なんて何も……何もない……」
 絞り出すようなマイクロトフの声に、カミューの横槍は入らなかった。
「所詮俺は、一度出たこの地にのこのこ戻って来た裏切り者だ……。故郷であるロックアックスを愛しているが、戻って来てからずっと居心地の悪さを感じていたのは本当だ……。俺の帰る場所はない。誇りだってエンブレムと共に捨てた。中途半端なままでこの城にいたくない、だから逃げ出すんだ。部下に俺の背中なんか見てもらいたくない。俺はもう誰の前にも立ちたくない、誰の後にも……」
 だんだんと加速していった早口の言葉を区切り、マイクロトフは息継ぎに肩を上下させた。
 何か、胸にこびりついていたものを一気に吐き出したような気分だった。自分でもこんなことを思ったことがなかったのに、一度堰を切ると溢れ出したものが止まらなかった。
 旅立つんじゃない。逃げ出すんだ――マイクロトフは真実を自分の口から知らされて、この身がどうしようもなく醜くて情けないものに感じた。重荷だったのだ。周りから受ける視線はいつも二分され、自分を英雄だ裏切り者だと訴える。あんなに戻りたかったこの城が、知らず知らず窮屈になっていった。それを認めるのが怖かった。
 カミューの反応を伺うことができず、マイクロトフは伏せた目を上げることができずにいた。壁際のカミューがこちらに近付いて来る気配がする。それでも俯いたままでいると、思いのほか優しい声が頭に振って来た。
「それが本音だな。……ちょっとはすっきりしたかい」
「……?」
 恐る恐る顔を上げたマイクロトフの目に移ったのは、軽く目を細めたカミューの笑顔だった。閉じた口唇が優しい角度で微笑んでいて、思わずマイクロトフは口を半開きにして彼を眺めてしまう。
「ずっと煮え切らない顔をしてたのは知ってるよ。いつ爆発するかなと思って見てたけど、発散する前に旅に出たところで根本の解決は難しいんじゃないかな」
「……俺は……」
「旅立つのは構わない。だってお前には誇りも帰る場所もちゃんとあるからね」
 目の前のカミューの笑顔に、マイクロトフは目を剥いた。
「誇り? そんなもの何処に」
「ここ」
 マイクロトフが言い終わる前に、カミューは突き出した人指し指でとんとマイクロトフの胸を叩いた。
 マイクロトフが呆気に取られる。思わずカミューが指した自分の胸を見て、それからすぐに顎を上げた。
「……帰る場所は?」
「帰る場所は、ここ」
 今度はカミューの人指し指がカミュー自身の胸を突いた。これにはマイクロトフも驚きに目を丸くした。呆れたといったほうが正しかったかもしれない。堂々と言ってのけるカミューがまた笑顔なのだから、何と答えたものか分からなくなってしまった。
「考え過ぎたんだよお前は。人々の持つ理想の自分に今の自分を重ねようとした。俺達があの少年に希望を見たようにね。……今のお前なら、何故彼が親しい人との旅立ちを選んだのか、分かるんじゃ無いかな……?」
「あ……」
 マチルダ騎士団から離反し、新たに忠誠を誓った同盟軍の主君はまだ幼さの残る少年だった。戦火が消えると共に彼は新しい国家から消えるようにいなくなってしまったが、全てを知っていた軍師は彼を止めなかったという。マイクロトフは何故、とあの時思ったものだ。これからではないか。全てはこれから始まるのだ、と……
「何が始まりかはその人によって違う。お前にはお前だけのものがある。お前は一人で悩み過ぎた。どうせ私にくだらない気を使ったんだろう。黙って置いて行かれる身になってみろ」
「……すまん……」
 笑顔で嗜めるカミューに、マイクロトフは素直な気持ちで謝った。
 カミューを置いて逃げようとした。今はそれが恥ずかしかった。もしカミューが眠っていて、このまま自分が出かけてしまっていたら、きっと後ろ向きの旅となったのだろう。
 そんなマイクロトフに、うんうんと満足げに頷いたカミューは、じゃあおさらいだと腕を組む。
「お前の誇りは?」
「……ここ」
 マイクロトフは恥じらいつつも、自分の胸を指差した。
「帰る場所は?」
「……、……ここだ」
 カミューの胸を指差す。頬が熱くなる。
「じゃあ、私はお前の何だい?」
「……恋人だ」
 カミューはひとつだけ、大きくゆっくり頷いて、それは綺麗な微笑みを見せてくれた。琥珀の瞳に被さる睫毛が何と美しいのか。マイクロトフは思わず見とれて、また半開きになってしまった口唇を慌てて閉じる。
「よし、決まりだな。ちょっと待て、支度するから」
「……、支度って……」
「当然だろ。私も行くんだよ」
「えっ」
「今、嫌そうな声出さなかったか?」
「い、いや……、だってお前、ここの土地が第二の故郷だって」
「お前がいるからに決まってるだろ。それくらい分かれよ、ばか」
 カミューは身を翻し、洋服箪笥を開いて旅装束を引っ張り出し始めた。マイクロトフが唖然としている中、カミューは長旅用の荷物を着々とまとめ、携帯の食料は何がいいかななんて悩んでいる。
「恋人の動向に聡い私はお前が今日辺りやって来そうな見当まではつけてたが、流石に身支度までは整える時間がなかったんだよ。もうちょっと待ってろ」
「カミュー……」
 本気で? 言いかけた言葉をマイクロトフはぐっと押し殺す。
 カミューが来てくれる。自分と一緒に来てくれる。旅立ちを咎められなかった。怒られたけど、それは別の理由だ。
 カミューが隣にいる。今まで当たり前だったことを、愚かな自分は放棄しようとした。それがどんなに心を苦しめるか、失った後に気づいたことだろう。――後悔する前にカミューが教えてくれた。
 カミューが来てくれる。カミューが一緒にいる。失わずに済んだ。これで自分は前を向ける。何処へだって行ける。行き先なんて決めなくていい。カミューがいるなら、迷いも不安も恐れも二人で分け合える。
 ふと、仕度途中のカミューが振り向いて、悪戯めいた笑顔を見せた。
「なんて顔してる。私がまた調子に乗るぞ」
「……カミューは調子に乗っててくれたほうがカミューらしい」
「なんだそれ」
 カミューが声を出して笑った。マイクロトフもここでようやく笑った。
 何て視界が広がったのだろう――カミューがいてくれるだけで、自分の世界が何処までも広がる。もう躊躇いはない。旅立つのだ――マイクロトフは目を閉じて空を想った。
「そうだ、手紙は何か残したか? 朝、私達がいないと副長が倒れるかもしれんぞ」
「いや、何も用意していない……本当にこっそり出るつもりだったから」
「書き置きくらい置いていったほうがいいかもな。誘拐と勘違いされても困る」
「しかしうまい理由が見つからんぞ」
「任せろ、そういうのは私が得意だ」
 ……旅立ちの頃には空が白んでいた。




 隣に愛する人がいる。
 たったそれだけで、この胸の高鳴りは何なのだろう。
 目的のない旅が、何て気楽で楽しい冒険に変わったのだろうか。
 空はひとつ、その下に広がる想いは無数にも広がるのだ。
 さあ、誰にも気付かれないうちに出かけよう。






初心にかえろうと思い、久しぶりに書いた普通騎士です。
あほのように書き続けたED話ですが、やはりうちの基本だと思っています。
いつもサイトに遊びに来て下さる皆様、本当にありがとうございます。