CALLING






 ベッドの上で携帯が震える。
 さして驚きもせず、それどころかメールが来ることを分かっていたかのように、ヒカルはひょいと携帯電話を取り上げた。
 画面を開き、少し眉を動かす。
「五の十、か」
 ヒカルは少し上向きがちの視線で何事か考え込み、それから目線を携帯画面に移すと返信を打ち始めた。
「四の八……と」
 送信。数秒経たず、すぐに送信完了画面が表示される。
 その画面を確認すると、ヒカルはまたベッドの上に携帯電話を投げ出し、脱いだままの服や漫画が散らばった床に手を伸ばした。
 いい加減に片付けなさいと怒鳴られたヒカルの部屋は、泥棒に荒らされた後のように崩壊していた。唯一碁盤の周りだけは自分が座れるスペースを確保してあるが、他の場所には見事に隙間がない。埃も溜まり放題である。
 母親の雷を食らい、渋々部屋の片付けに取り掛かった。そんな時だった、名古屋に出張中のアキラからメールが来たのは。
 初めは掃除の片手間に適当な話題を送りあっていた。しかしどうやらアキラはヒマをもてあましているようで、いつもより返信が早い。
 俺、他の事やりながらだけど。前置きをしてから、ヒカルとアキラはメールで対局をし始めたのだった。
 脱ぎっ放しの服をまとめて部屋の隅に置く。掘り出したらもう少し出てきそうだ。
 読みかけで投げ出して、少しページが折れたりめくれたりしている雑誌を集め、積み上げた。
 また携帯の震える音がする。
 ヒカルはベッドに戻り、画面を確認する。
「……三の十一ね。」
 ヒカルはまた視線を軽く上に向けてきょろきょろと動かし、少しの間の後に四の十、と打ち込んだ。
 またメールを送る。携帯をベッドに投げ出す。
 さっきからこの繰り返しだ。
 ヒカルはまとめた服をよいしょと抱え、そのまま部屋を出た。一階まで降りて行き、そのまま洗濯機まで向かう途中で母親が悲鳴を上げる。
「ヒカル! あんたって子は、またそんなに洗濯物溜めて……!」
「ごめんってば」
 悪いとも思っていないような口調で母親の前を通り過ぎ、そのまま服を洗濯機に突っ込んだ。踵を返すヒカルの背中に、また母親の怒号が届く。
「もう、何度言ったら分かるの! 洗い分けしないといけないんだからそのまま洗濯機に入れないで!」
 うるさいなあ。ヒカルは口の中でぶつぶつ悪態をつきながら階段を駆け上がった。
 こんな時、和谷のように家を出てしまいたくなる。しかし、今の状態で一人暮らしをしても、和谷のように家事全般は実家で済ませ、部屋では碁を打つだけの暮らしになるだろう。両親がその状況を許すはずがない。
「和谷ん家って寛大だよなあ」
 再び戻ってきた自分の部屋は、多少床の面積が増えたものの、相変わらず乱闘の後のようだ。
 ベッドを覗くと、携帯電話のバックライトがピカピカ光っていた。
 ヒカルは迷わず携帯を開き、メール画面を確認する。
「どれどれ……四の十一か。」
 ヒカルはまた少しだけ考えて、五の十一、と返事を送った。
 我ながら、なんて無駄なことをしているんだろうと思う。
 一手一手をメールで送りあうなんて。
(アイツ、どんな顔してメール打ってんのかな)
 想像すると少し楽しくなる。
 今頃ホテルの部屋で、何をするでもなく携帯片手に考え込んでいるのだろうか。
 頭の中に広げた碁盤の宇宙に揺蕩いながら。
 ヒカルは五の十一、と返信を返し、さて、と床を見渡した。
 服を片付けて、本を積んだらかなりマシに見えてきた。本当ならこの積んだ本をどうにか片付けないといけないはずだが、またもや部屋の隅に追い込んだだけで満足する。
 後は掃除機でもかければ充分だろう、とヒカルは頷き、中途半端な掃除は終了してしまったようだった。
 また携帯が震えた。ヒカルは画面を開く。

『五の十二。 ちょっとシャワーを浴びてくる』

 律儀なアキラに肩を竦め、ヒカルはそれならと立ち上がり、碁盤を部屋の中央に持ってくる。
 コンポや壊れた冷蔵庫がすっかり埃を被った部屋の中で、碁盤だけはいつもきれいに磨かれていた。
「並べてみるか」
 先ほどからのアキラとのやりとりの一局を、ヒカルは初手から並べ始めた。
 ヒカルが黒。アキラが白。
 本来なら馬鹿馬鹿しいと言われそうなこんなやりとりも、アキラは真剣につきあってくれる。
「なるほどこう来たか。じゃあ……どうしようかな」
 棋譜並べとはまた違った先の読めない一局。こういう対局も面白いかもしれない――ヒカルはアキラの次の手をあれこれ予想しながら、自分の一手を碁盤に放つ。
 パチ、と気持ちの良い音が部屋に響いた。
 これだけ距離が離れていても、すぐ近くで打っているようにやりとりができる。
 文明の利器ってすげぇな。ヒカルは誰に話しかけるでもなく呟く。
 今頃、アキラもシャワーを浴びながら次の手を考えているのだろうか。
 見えない相手と次の一手を鬩ぎ合う。
 頭の中だけで繰り広げられる贅沢な対局。
(……?)
 何かが胸をチクリと刺した。
 ヒカルは思わず碁石の下の碁盤を見つめる。何百何千と、今まで数え切れないほど一人で碁石を打ってきた碁盤だった。何ら変わった素振りは見られない。
 それなのに、この感覚は……
(なんだ……?)
 息苦しいようなこの気配は。
 ヒカルはぶるぶると頭を振った。
 何か奇妙な感覚が胸を覆いそうな、そんな予感を振り払う。
「……掃除して疲れたかな」
 誰も居ない部屋でわざと大きな声を出す。
 時計の音が耳障りだった。
 部屋の真ん中で、碁盤に向かうただ一人の自分の影がやたらと気になる。
「塔矢、早くあがってこねぇかな……」
 小刻みに胡坐をかいた膝を揺らし、何かに苛立ちながら返信を待つ。
 自分が何にこんなに焦りを感じだしたのかは分からなかった。
 ただ、嫌な気配。胸の中の黒い不安。どこかで覚えのある景色。
 やがて携帯はメールの着信を知らせて震えた。ヒカルは待ちかねたそのメールを開き、確かめたアキラの一手を碁盤に叩きつける。
 即座に自分の一手を返信した。アキラからのメールを待つ時間がやけに長く感じる。
 返信が届く。打つ。返信する。待つ。届く。打つ。返す。待つ。
 いつかの記憶がヒカルの心の中でさらさらと揺れる。
 ――いつもこんなふうに打っていた。自分の一手と、彼の一手を交互に。自分の手で二人分。
「……」
 『違う』と。
 違う、と自分の心に呼びかける。
 あの時とは違う。あの時に打ち合った相手ではない。
 これは心も身体も自分とは別々の場所に在る塔矢アキラの一手だ。常に共にあった扇子の先が指し示す一手ではない。
「なんだよ、長考してんなよ……」
 苛立ちを隠せず、何度もメールの問い合わせを繰り返した。
 碁石の並んだ碁盤の前で、ヒカルは過去の記憶を振り払おうと口唇を噛む。違う。これは違う。
(混ぜっかえすな、俺!)
 ふいに携帯が震えた。
 飛びつくように画面を開き、アキラの新たな一手を碁盤に打った瞬間、ヒカルの中で押さえ込もうとしていたものが声となって溢れ出そうになり、ヒカルは咄嗟に口を押さえた。
 それが何なのかは分からなかった。ただ、酷く後ろめたい感覚であることだけは理解した。
 誰に対して後ろめたくなったのかは、あまり考えたくなかった。
 この嫌な感覚から逃れるために、ヒカルはメール画面を閉じた。電話帳を呼び出してアキラの名前を表示し、通話ボタンをもどかしく押す。
 声を。声を。声を。

『ヒカル』

 違う、俺の中のアイツはひとりだけ――


『進藤?』
 コールが一回鳴り終わるか終わらないか程度の時間で、すぐにその声はヒカルに応えた。
 ヒカルは思わず深く長く息をついた。安堵のため息だということは自分でも分かった。では何故、何にこんなに安堵したのか?
「もしもし? 塔矢?」
 アキラ以外の誰が出るはずもないのに、自分の口で相手を確認する。
 ――ああ。どうした? アキラの声は少し驚いていた。
「あのさ、まどろっこしくなったから。電話のほうが早いだろ? このまま打とうぜ。」
 アキラは特に不審に思わなかったようで、すぐに同意を示した。
「よし、じゃあ俺な。十の――」
 ヒカルの一手にアキラの声が次の一手を告げる。
 声の導くまま、ヒカルは碁石を碁盤に打った。
 今ヒカルと対局しているのはアキラ。姿は見えなくてもアキラの声がヒカルに応える。
 そう、アキラなのだ。この打ち筋、この攻め方、他の誰でもない。
 遠い場所にアキラはしっかりと存在している。
 それなのに、何故自分は心の中に違う影を見出そうとしている?
(違う、これは塔矢だ)
 他の誰でもない。
 ……誰の代わりでもない。






 その夜遅くまで対局は続いた。
 結果はヒカルの一目半負けだった。







この話以降からヒカルの混沌期が始まります。
ちょっと混乱しがちですが、なるべくさらっと進めたい。
アキラとのメール対局の内容は
かなり適当なんですいません……
(BGM:CALLING/氷室京介)