パーキングエリアにはヒカルが停めた車の他に三台のみ先客がおり、どれも動く気配がなくひっそりとしている。真夜中過ぎ、恐らく仮眠をとっているのだろう。 ヒカルは邪魔にならないようエンジンを切り、ドアの開閉にも気遣って車外に出た。少し肌寒くて両腕を抱き寄せる。時刻はもうすぐ午前の0時。見上げる空には珍しく星が煌いて、どこか山奥にでも紛れ込んだような気分にさせた。 高速で走り続けてすでに三時間。思った以上に時間がかかっているのは、予想外に延びた仕事と、それに見合ったヒカルの疲労がそれなりのものだったためだ。 「やっぱ自分の車で来るんじゃなかったかな」 誰に話しかけるでもなくぽつりと呟き、ヒカルは疲れた身体を労わるように車に凭れ、じっと夜空に魅入られていた。 なんとなく、気持ちがざわめく季節がくる。 新緑の匂いも身体に馴染んだ青い季節、五月がまたやってくる。 何年経とうと、心の奥が握り潰されそうな疼きは消えることがない。 優しい声、優しい眼差し、直接熱を感じることはなかったけれど、暖かさはずっとずっと覚えている。常にヒカルと共にあった、暖かな存在。 (お前がいなくなってから、すげーいろんなことがあったんだぜ) 俺ってば車の免許なんかとっちゃったりして。ヒカルは愛車を眺めて寂しそうに微笑んだ。 塔矢アキラと並ぶ期待の若手棋士として、様々な仕事が舞い込む日々。各リーグ戦にも順調に絡み、数多くの手合いをこなしつつ、今日のように出張を兼ねた仕事で遠出することもある。 テレビや雑誌に出たこともある。女の子からファンレターやプレゼントをもらうことなんてザラだ。十八歳になってすぐ免許をとり、来年には酒も飲めるようになる。まあ、多少フライングしているのはご愛嬌と思っているわけだが。 毎日が忙しく、充実している。碁のことだけを考えて生きていける幸せ。大好きな人が傍に居る喜び。 (あのさぁ、俺塔矢と付き合っちゃってるんだ) 毎年この時期になると律儀に報告するのだが、その度に自分で照れてしまう。 (なんと塔矢に告られちゃった) もう四年も昔の話なのに、昨日のことのように思い出す。 淡く甘やかな気持ちが、ヒカルの胸を覆って満たしてくれる。アキラと共に在った四年間、常にヒカルの傷を優しく撫でてくれたのはアキラだった。 唯一のライバルであり、親友でもあり、恋人。三つの顔を保ち続けるのは思った以上に難しい時期もあった。離れなければ分からないこともあった。悩んで、迷って、それでも一緒に居続けることに心を決めた、あの優しい時間がついこの前のような、遠い過去のような…… 大切で大切で、こんなふうに人を信じ切ることができるなんて、アキラに出逢って初めて知った。 (俺、すっごい幸せなんだよ) まだアキラには打ち明けていない。 (大好きなアイツと一緒にいられて。毎日碁を打って。幸せなんだよ) 自分の心の中だけに住まう、大切な人のことをまだ話すことができてない。 (……でも、やっぱり時々寂しいよ。なあ、佐為……) そのために用意していた自分の心の区切りが、今まではまだはっきりと見えていなかったから。 いつか、目指す道をこの手で得られたと確信した時――全てを話そうと決心した。 案外、時間がかかってしまったけれど……、ようやく「自分」に辿り着いた今、ヒカルの心は穏やかだった。 星空は広く、黒く、眩しく、ヒカルを包み込むように見守ってくれる。 こんなに優しい空の下で、独りきりで立っていると、昔のことばかりを思い出してほんの少しだけ切なくなる。 あの日、彼が消えたあの日、どんな別れ方なら後悔しなかった? 何度も何度も考えて、その度に自分なりの答えは出すのだけれど、それならどうして今でもこんなに胸が苦しい? 「寂しいよ」 寂しいけど…… 『ヒカル ヒカル』 あの柔らかく透き通った声が心の中で囁くと、その優しさに自分は赦されていると思いたくなるのだ。 佐為、本当はどう思ってた? 俺のこと恨んでなかった? 怒ってない? 思う存分碁を打てなくて、悔しくなかった? 渡してくれた扇子、あれはただの夢なんかじゃなかったんだろ? 俺は――お前が夢見てくれたように、真直ぐに進めているかなあ…… (佐為) あの空はなんて遠い―― 狂ったように佐為を探し回ったあの日、世界中でたった独り取り残されたような寂しい夜。 優しい夜空はあの夜に似ていて、五月になればまた繰り返す。 何度誓っても、何度も思い出し、何度も胸を痛める。一人勝手に約束をし、二度と泣かないと空に叫んで、でもまた涙を落とした次の年。 見上げるのが怖かった星を、今は笑顔で数えることもできる。 胸を這って、自分の道を歩いていることを空に報告できる。 少しずつ心も身体も大人になって、あの日の佐為の気持ちと、自分を諭してくれた行洋の言葉の意味が分かったような気になってきたこの頃。 少しだけ後戻りしつつ、確実に前に進んでいると思いたい――受け継いだ千年の歴史のためにも。 「今年は晴れるかな」 五月五日の夜はいつも一人で空を眺めていた。 今年は隣にいて欲しい人がいる。 その素敵な夜を叶えるために、忙しく動いている今、毎日が充実していて幸せだった。 きっと、何より素晴らしい夜になるだろう。ひょっとしたら、昔を思い出して少し涙が出るかもしれないけれど。 ふと、ヒカルの胸ポケットに入れていた携帯電話が震えた。電話を取り出したヒカルは、開いた着信画面に現れる名前を見て顔を綻ばせる。 「もしもし」 自分でも驚くくらい甘えた声を出してしまう。 たかが離れていたのは二日ぶり。それがこんなに懐かしく愛しく感じるなんて、もうこれは運命の相手ってやつなんだろうか、なんてことを時々考える。 正直、そんな陳腐な言葉じゃ割に合わないくらいいろいろなことがあったけれど。 「うん……まだ高速。もうちょっと早く着くつもりだったんだけど。うん、うん……」 ざわついた心を優しく暖めてくれる、ヒカルの一番大切な人。 「うん、大丈夫。今車出そうと思ってた。うん……あ、あのさ、」 彼と一緒なら、今よりずっと高い空に向かって飛び出せる。 やっと五年目の区切りをつけられる。 だって今一番傍にいて欲しい人の名前は、 「塔矢」 他の誰でもなく、……お前だから。 「塔矢……、待ってて。俺、真っ直ぐお前ん家に行くから……」 ――お前がいるから、独りなんかじゃない。 明日に進むその前に、いつも居てくれた人の前で、今年はうんと笑顔になれる。 電話を切ったヒカルはすぐさま車に乗り込み、エンジンをかけた。揺れる車内、フロントガラスから見える景色がぼんやり曇る。 ハイウェイを降りたら、この涙も止まるだろう。 愛する人の元へ、微笑みのその前に。 |
あんまり高速乗らないのでフィーリングで読んでください……
かなりドリーマーなお話になっちまいました。
恥ずかしげもなく。
メインの行先が固まって来たと同時に、この話にズレがでてきたので、
こっそり改変してみました……えへ(2006.10.28)
(BGM:微笑みのその前に/山下久美子)