30分の逢瀬




 時間通りに訓練メニューを終えた兵士達が引き上げた訓練場にて、ただ一人残ったマッシュは黙々と基礎鍛錬を続けていた。
 腕立て伏せの回数は三桁を超えていた。当初三百まで行おうと思ったが、ふと心に入り込んだ雑念に囚われた隙にどこまで数えたのか分からなくなった。二百を過ぎたのは覚えているが、面倒なので一から数え直してまもなく目標の三百を迎える。
 鼻先からぽたぽたと床に落ちる汗が作った水溜りに自分の青い目が映る。同じ色の眼を持つ愛しい存在を重ねて思い浮かべ、身体は止まらずとも思考が再び逸れ始めた。
 このところのエドガーの激務はここ数年で一番と思われるほどだった。
 主要国のトップが集う世界会議を目前にして、自国のみならず世界全体に関わる政務に追われるエドガーはまさに寝る暇もない毎日で、同じ城に居住しているというのに擦れ違い続けていたマッシュは、話すどころかしばらく兄の顔をまともに見ることも出来ていなかった。
 やれ会議だ、やれ使者との面談だと忙しく動き回るエドガーを労いたい気持ちはあるのだが、兄の仕事はマッシュにはさっぱり分からない。手伝うどころかいるだけでも邪魔だと言いたげな古狸の爺やたちに追い払われ、何も力になれない逞しい肉体を持て余したマッシュは手持ち無沙汰に自主鍛錬を繰り返す日々だった。
 鍛え抜いた身体は兄の盾にはなれるだろうが、有事のない今は活躍する機会が少ない。精神的に支えたくとも、傍にすらいられず役に立たない自分を呪いながら、昨日僅かに廊下で擦れ違った際に交わした会話を思い出す。
『すまんなマッシュ、なかなか一緒に食事も取れなくて』
『いや……、兄貴、身体大丈夫か?』
『大事無いさ。また後でな』
 部下に囲まれたエドガーが足を止めたのはほんの数秒、目を合わせた時間は更に少ない。
 隣の大臣と何やら話しながら会議室へと早足で向かうエドガーの背中をぼんやりと眺め、控え目な笑顔に隠し切れなかった疲弊を感じてマッシュの胸が重苦しく締め付けられた。後で、がいつになるのかはエドガーにも分かるはずがないだろう。
 会えないことで募る淋しさだけではない。あの調子で働き続けていては必ず身体を壊してしまう。以前は午後に紅茶で一息入れるくらいの余裕はあった。その僅かな休憩も許されないだなんて異常過ぎるではないか。
 世界会議が終わるまでの辛抱だと笑っていたのが遠い昔のことのように感じる。もう何日真正面から顔を見ていないだろう。
 あの蒼玉のような瞳を飽きることなく見つめていられた日々が幻だったかのように、今のマッシュとエドガーの間には物理的な距離が大きく広がっていた。
 抱きたい、と時折猛烈に湧き上がってくる感情を努めて抑え込む。
 多忙な兄に対して不謹慎だと理解はしている。だから行動に移さないよう夜半の接触は避けていた。それで会う時間が更に少なくなるのは否めなかったが、おやすみのキスでは済まなくなる自覚があるのだから仕方がない。
 疲れた身体をただ優しく抱き締めて眠らせてあげられるだけの甲斐性があれば、どんなに良かったか──汗溜まりが大きく広がりすっかり顔全体が映るようになった頃、マッシュはまた何処まで数を数えていたのか忘れてしまったことに気づく。
 もう千回くらいは過ぎただろうと、身体を起こして水気を飛ばすように顔を振った。髪の毛先からバラバラと振り散る汗が床を汚す。
 シャワーを浴びたに等しい濡れ具合の髪を掻き上げ、マッシュはフッと大きく息を吐いた。エドガーの顔を見たい。今日はまだ一度も会えていない──訓練場の壁の時計を見上げたマッシュは、しばし眉を寄せて葛藤した後に出口に向かって歩き始めた。


 一言二言交わせたなら、それでささやかにでもエドガーの気分転換になるのなら。過度の期待はせずに、着替えを済ませたマッシュは執務室に向かっていた。
 室内の空気に緊張感が漂っていたら早々に退散しよう。僅かでも余裕を感じられたら、淹れたての紅茶と美味しい茶菓子でも勧めてみようか。
 傍に控えているだろう重役たちに睨まれない程度にこなせるかどうかは分からないが──立ち止まった執務室の前で軽く深呼吸したマッシュは、意を決して木製の扉をノックする。
「どうぞ」
 期待に反して中から聞こえた返事は兄の声ではなかった。訝しげに開いた扉の向こう側では、大臣が一人で卓上の書類を仕分けしている最中だった。
「兄貴は?」
 思わず尋ねたマッシュに大臣は軽く溜息をつき、「機関室です」と答える。
「潜行予定日が近いため、連日メンテナンスが行われているのですが。最終チェックはどうしてもご自身でなされると。ただでさえ目の回る忙しさなのに、自ら仕事を増やされなくても……」
 渋い表情の大臣もまたエドガーの身を案じているのだろう。城の心臓に等しいエンジンのチェックを他の技師に任せないエドガーをらしいと納得し、マッシュはここにはいない執務室の主人を想う。
「あと三十分程でお戻りになると思われますが……何か御用でしたらエドガー様にお伝え致します」
「……いや、いいんだ。大したことじゃないから」
 大臣に愛想笑いを見せたマッシュはそそくさと執務室を後にする。ドアの外で数秒迷い、急ぎ足で機関室へ向かった。
 ほんの数分、いや数秒でもいいから顔を見たい。作業の邪魔にならないよう、顔を見て声を聞いたらすぐに立ち去ろう。
 いつしか全力で走っていたマッシュは、地下に続く階段を素早く駆け下りた。機関室の入り口にて、マッシュの姿を認めて驚いたように敬礼した兵士が躊躇いながら扉の前に立ちはだかる。
「申し訳ありません、陛下よりこの時間はどなたも通すなと」
 軽く瞼を伏せたマッシュの眼力に兵士が身を竦ませた。
「……俺が無理矢理入ったって言えばいい。悪いな、少しだけだ」
 短く告げて兵士の肩を押し退けるマッシュの背中に制止の声はかからない。暗黙の了解に感謝したマッシュは、するりと扉の向こう側に飛び込んで後ろ手にドアを閉める。
 耳馴染みのある、しかし久しく聞いていなかったために懐かしさを感じるエンジン音が響く機関室の籠もった空気の中、辺りを見渡しながら奥へと進むマッシュは、ドアから死角になる大型エンジンの向こう側にて兄の姿をようやく見つけた。
 マッシュの予想に反して、それは作業中の姿ではなかった。エドガーは壁に背中を凭れさせ、床に尻をつき両脚を前に投げ出した格好で、視点の定まらない虚ろな表情を顔に乗せて何もせずに空を見ていた。
 思いがけない様子を視界に捉えたマッシュは驚きに目を見開く。
「……兄貴」
 声をかけるとビクリと大きくエドガーの身体が揺れ、焦点が戻った両目でマッシュを認めて即座に立ち上がった。脇に置かれていたエドガー愛用の工具箱に軽く手をぶつけたところを見ると、兄にしては珍しく動揺が大きかったらしい。
 エドガーは腰の埃を払いながら、取って付けたような笑みを見せてマッシュに向かって軽く小首を傾げた。
「マッシュか。どうした、こんなところに」
「いや……、執務室行ったら、兄貴がここだって聞いたから」
「ああ、最終メンテナンスをな。やはり自分で確かめないと気が済まなくてな……何か用でも?」
「用って訳じゃ……ないんだけど……」
 普段なら機関室に籠る時は汚れても構わない作業着を身につけているエドガーが、政務中の簡易的な正装のままここにいるところを見ると、着替える時間すらも惜しんだのは事実なのだろう。
 しかし秒刻みで仕事をこなしていたエドガーが先程見せた、地べたに座り込む姿はマッシュを戸惑わせた。
 今のように多忙を極める時期でなくとも、あのようにぼんやりと何もない空間を見つめる様はこれまで見たことがなかった。兄は常に手と口を動かしながら余裕綽々として事をこなす人で、抜け殻のように呆けて時を無駄に過ごすのを誰より嫌う男だった。
 マッシュの狼狽はエドガーにも伝わったのだろう、エドガーはバツが悪そうに視線を彷徨わせてから眉尻を下げて苦笑する。
「……メンテナンスが思ったより早く終わったんだ。少し時間が出来たと思ったら、何だか気が抜けてしまった」
 チラリと床に置いたままの工具箱を見下ろして、軽く目を細めたエドガーは小さな溜息をついた。
「ここしばらく頭を使い過ぎていたようでな……仕事のことを考えない時間というのが、あまりに久しぶりで……」
 マッシュは頭から爪先までまじまじとエドガーを見た。この距離でじっくりと姿を目にするのは本当に久しぶりだった。
 下瞼に薄っすらクマができている。顔色はそこまで悪くはないが、髪が乱れているせいか酷く疲れているように見えた。
 その窶れた佇まいに強烈な色香を感じ、マッシュは胸に受ける鈍くも重い衝撃に息を飲む。
 何か気の利いたことをと頭を巡らせるが、うまい言葉ひとつ出てこない。それどころか疲労を滲ませる兄に対して不埒な思いが頭を擡げようとしている。
 下腹に力を入れたマッシュは、邪念を掻き消そうと細く長く深呼吸する。何も言わないマッシュを不思議に思ったのか、顔を上げたエドガーとマッシュの視線が正面からぶつかった。
 口を開くも何を言うべきか戸惑うマッシュの目の前で、エドガーもまた困惑したように眉を寄せた。いつもの兄らしからぬ決まりの悪い顔をして、サッと頬を朱に染めたと思ったら、またマッシュから視線を逸らしてうろうろと辺りの床を見渡している。
 所在無く持ち上げた右手を口元に添え、照れ臭そうに目線だけを横に流すエドガーの瞼の上で、長い睫毛がいじらしく揺れる。明らかにおかしい様子の理由をはかりかねて混乱しかかったマッシュを前に、エドガーは何かを決意したように、気恥ずかしさも残したままでそっと口を開いた。
「……久しぶりに時間が出来て、……お前のことを、考えていた」
 マッシュが瞬きをする。エドガーはまだ視線を合わせようとしない。
「しばらく、ろくに話すらできていなくて」
「う、うん……」
 ようやく相槌を打つために絞り出した声はカラカラに乾いた口内のせいで酷く掠れていた。
「長いこと、お前に……触れて、いないと……」
「う……ん」
 どう返事をしたものか迷って中途半端な声を出したマッシュは、背中からドッと汗が噴き出してきたのを感じて身を竦める。火照ったように熱い顔は傍目にも真っ赤になっているだろう。
 エドガーはうろつかせていた視線を上目遣いに持ち上げ、ようやくマッシュの目を捉えた。そして自分にも言い聞かせるように、小さな声ではあるがはっきりと呟いた。
「三十分、時間がある」
 マッシュの喉が大きく上下に動く。
 じっとマッシュを見つめるエドガーの、僅かに潤んだ青い瞳に被さる睫毛の先が震えていた。
「……抱いてくれ」
 エドガーが言い終わるか終わらないかのうちにその身体を掻き抱いて壁に押し付けたマッシュは、乾いてカサついた唇へ噛みつくようなキスをした。
 エドガーも即座に伸ばした腕をマッシュの背とうなじに絡ませ、同じ強さでキスに応える。互いに乾き気味だった舌を絡めるごとに口中は唾液で溢れ、酸素を取り込むために開いたまま離れた二人の口が糸で繋がった。
 エドガーは荒い息のまま床に膝をついてマッシュの下半身へと手を下ろし、もどかしい手つきで腰紐を解き始める。ずり下ろした下衣の隙間から硬くなりかけたものを引っ張り出したエドガーは、躊躇なくそれを口に含んだ。
 ベッドの上で焦らしながらじりじりと舐め上げるのとは違う、舌の根と唇を駆使して性急に追い立てる動きはマッシュの雄の部分を粗野に刺激した。思わず壁に左手をつき、もう片方の手でエドガーの髪を緩く握りつつ、腰を屈めたマッシュが奥歯を噛み締める。
 耐え切れずにカハッと開いた口から熱い呼気を吐き出すと、マッシュは両手でエドガーの頭を掴んで咥えているものを引き抜くように持ち上げ、壁に背をつけて立ち上がらせた。深く唇を合わせ、余裕のない手つきで兄の腰周りを弄ると、エドガーも自ら下半身の衣類を脱ぐべく留め具を外しにかかる。
 焦りから二人とも手つきが覚束なく、やや乱暴に下着ごと下ろされた衣服をマッシュが脚で踏み落とし、床に蹲った下衣から引き抜くためにエドガーが浮かせた右足首を掴んでそのまま脚を開かせた。エドガーの首が一瞬で赤く染まるが、マッシュの行為を止めようとはしない。
 すでに腹の下で緩く頭を擡げているものの奥へ、右手の人差し指と中指を揃えて口に入れたマッシュは、唾液を絡めた二本の指をその秘所に突き入れた。エドガーの顎が跳ねるように上がる。久々に触れたそこはきつく窄み、指を押し返すように肉を締めていた。
 それを半ば無理矢理に、割り入るように指先を潜らせる。第一関節まで潜り込んだ後は、抵抗の少なくなった狭い道を二本の指で拡げるように掻き回す。エドガーが浅く息を吐きながら壁に後頭部を擦り付けた。
「マッシュ……ッ、もう、いい、早く、」
 我慢できないと言った様子でエドガーがマッシュのものを掴んで扱く。後孔をまだ慣らし切っていないことに一瞬の逡巡を抱いたが、その哀願するようなエドガーの目に胸を射抜かれたマッシュは、指を抜いて更に質量のある自身のものを当てがった。
 肉壁を突き破るように中へと押し入るものの動きに合わせ、エドガーがしがみ付いたマッシュの肩へ爪を立てる。それでも恐らくは意識して長めに息を吐き出し、力を抜いて侵入者を受け入れようとしていた。
 半分ほど潜らせたものをゆっくりと突き上げると、エドガーの半開きの口から掠れた喘ぎ声が漏れた。マッシュはチラリと背後に視線を配る。ドアまでの距離は遠く、また機関室に響くエンジン音で掻き消されると判断し、遠慮を捨てて腰の動きを速め、より奥へと突き挿れて行った。
「あ、ああっ、あっあっ」
 突き上げられる度に背中を壁に擦らせて、高く右脚を掲げたエドガーが眉根を寄せて嬌声を上げた。身体を支える左脚ががくがくと震えているのが触れ合う肌から伝わり、マッシュはエドガーの身体を壁に押し付けて固定させ、左脚も抱え上げた。
 尻臀を割り開くように広げた奥に杭を打ち込むように、腰を深く突き上げる。マッシュの首に齧り付くように腕を回したエドガーが悲鳴じみた声で鳴いた。その声の高さを気にしたマッシュは唇で出所を塞ぎ、更に強く腰を振る。
 マッシュの唇に声を吸い取られたエドガーは、鼻から短い呼吸を繰り返しながら口内へ舌を突き入れて来た。そしてマッシュの腰に両脚を絡めてきつく締め上げ、より奥へと自ら迎え入れる。
 混じり合う荒い息とくぐもった声、エンジンが駆動する規則的な音の中、獣じみた動きで交わる二人は狂おしく腰を揺らし、ほぼ同じタイミングで精を吐き出した。
 きゅうっと後孔を締め付けて体内にマッシュが放ったものを受け止めたエドガーは、恍惚の表情で逞しい肩に頭を乗せる。
 うっとりと目を閉じて荒い呼吸だけを繰り返すエドガーの身体を強く抱き締め、マッシュもまた目が眩んだように瞼を伏せた。

 エドガーが王ではないただの人に戻った、たった三十分の逢瀬だった。