四月の撹乱




『……そんな訳で、無事視察を終えられそうだ。
サウスフィガロを出るのは四月一日の正午過ぎを予定している。夜には城に戻れるよ。
早く会いたい。』


 執務室に向かう道すがら、擦れ違った女官が何か良いことでもおありですかと尋ねてくる程度には顔が緩んでいたらしい。
 エドガーは揃えた右手の指先で頬の肉を持ち上げつつ、自然と浮かんでくる笑みをどうにか引っ込めようと努めるのだが、昨日届いた手紙の文面を思い起こす度にそれは徒労に終わるのだった。
 執務室のドアを開け、誰もいない空間を迎えたエドガーは心置きなく顔を綻ばせた。壁掛けの時計を見上げる。短針はまだ『1』の数字を少し過ぎたばかり。正午からそれほど時間が経っていないことに焦れつつも、やはり顔は笑ってしまう。
 マッシュがサウスフィガロに視察の名目で向かったのは丁度一ヶ月前。世界の崩壊による周辺環境の悪化も伴って進みが悪かった道路整備を中心に、復興支援を兼ねて国の代表としての勤めを果たすマッシュが飛ばした伝書鳥が昨日到着し、本日の夜には帰城する旨を記した手紙を受け取ったエドガーはもうずっと上機嫌だった。
 滑らかで気品を感じる文字の並びは紛れもなくマッシュの筆跡。あの無骨な手からは想像もできないほど美しい字を書くマッシュの、報告書なのか恋文なのか判断に迷う手紙を昨日から何度も読み返していたエドガーは、再び時計を見上げて苦笑した。先ほど時刻を確認してからほんの数分しか経っていない。我ながら恥ずかしい浮かれ具合だと自覚しつつ、自然と鼻歌など歌ってしまう。
 正午過ぎにサウスフィガロを出たのなら、手紙の通り夜には顔を見ることができるだろう。あるいはマッシュであればチョコボを飛ばして夕刻には到着するかもしれない。
 それまでに旨い酒を用意して、夕食もマッシュが帰るまで待っていようか。ああしかし視察の報告も聞かなければ。……いや、それは落ち着いた明日になってからでも──あれこれ出迎えの準備を考えながら、エドガーは浮き浮きと午後の政務に取り掛かろうとした。
 ドアの向こう、廊下をバタバタと走る靴音が耳に入ってエドガーは眉を顰める。間も無く執務室のドアがやや乱暴にノックされた。
 エドガーが返事をすると扉は優雅さの欠片もなく粗暴に開け放たれ、中に飛び込んできた大臣の彼らしからぬ振る舞いを見てエドガーは呆れて小言を言おうとした。が、それより先に血相を変えた大臣が余裕なく捲し立てる。
「エドガー様、ハブーブが発生致しました……!」
 さっと顔色を変えたエドガーが椅子から立ち上がった。
「何……? まだ雨季までは二ヶ月もあるぞ」
「地形が変わったことで天候にも異変が生じているのかもしれません。……見張り塔から確認できる限りでは、南東方面より時速は凡そ八十キロで北上中、幅は百キロ近い大型とのことです」
 エドガーが目を見開く。
 雨季が近くなると時折発生する大型の砂嵐──ハブーブは、暴風に撒き散らされた砂塵がまさに砂の壁と化して地を走る砂漠の脅威のひとつだった。
 例年であれば発生にはまだ早く、警戒の布令など出す時期ではない。報告通りの規模であるのなら、数年に一度の超大型クラスのハブーブがこの城を直撃することになる。
 直ちに城の潜行準備をと命じかけたエドガーは、ハッと時計を振り返った。──まだ二時にもなっていない。
 くらりと視界が揺れるほどの目眩を感じた。大臣に悟られないよう両脚を踏ん張ったエドガーは、即座に頭の中でマッシュの現在位置を計測する。
「……ハブーブは今どの辺りだ」
「海岸より五十キロほど北に」
「ここに到達するのは」
「あと三時間足らずかと」
 たまらずエドガーは額に手を添えた。いつになく厳しい表情のエドガーに大臣も眉を寄せる。
「……マッシュがサウスフィガロから城に向かっている」
 苦々しく零すエドガーを前に大臣が絶句した。互いに無言の時は数十秒程だったが、実に長く息苦しい時間となった。
 砂嵐が発生しやすい時期であれば、この地域の人間は砂漠越えに慎重になる。天候を見極めて無理はせず、いざという時の備えも万全に砂を駆る。
 しかし雨季より二ヶ月も早い今、誰がハブーブの発生を予測したか──正午過ぎにサウスフィガロを出発したという旅慣れたマッシュであれば、今はすでにこの城に向かって砂漠をチョコボで駆けている頃だろう。
 伝書鳥は記憶した場所でなければ飛ばせない。例えマッシュに書面が届いたとしても、忠告だけでは役に立たない。砂漠の真ん中で何の対策も無しに砂嵐を迎え撃つことは不可能だ。
 広い黄金の大地に砂を遮るものなどひとつとしてありはしない。押し寄せる砂の壁は視界の全てを奪い方向感覚を出鱈目に変えて行く。直撃を受けると巻き上げられた砂塵で呼吸困難を起こし、窒息死もあり得る。
 報告を聞く限り、その大きさはまともに食らえば逃げようがないだろう。運良く嵐に追いつかれずに駆けたとしても、目的地のこの城は潜行中──
 臓腑を掻き回すような心の乱れが冷静さを欠いていく。落ち着かなければ、とエドガーは自身に何度も言い聞かせた。どうすれば最悪の事態を免れるか、何パターンもの手段を脳裏に閃かせてはメリットとデメリットを素早く比較したエドガーは、青白い額からようやく指を離し、険しい目つきはそのままに顔を上げた。
「周辺の警備兵を城内に呼び戻せ。……それから、私のチョコボの準備を」
「エドガー様!」
 強めの語調で諌めるように声を放った大臣に対し、エドガーは鋭く細めた眼差しで怯むことなく見返した。
「我が国で砂の動きを誰よりも把握しているのはこの私だ」
「ですが、お立場をお考えください!」
「他の者では無理だ。時間が惜しい、急げ」
「……エドガー様!」
「私が発ったら城を沈めろ」
「しかし……!」
「くどい」
 圧を込めた有無を言わせない命令に大臣は深く暗い息を吐き、御意、と小さく口にしたその直後のことだった。
 開け放たれた後にしっかりと閉められずに半開きのままだった扉が、ノックも無しに軽やかに開いた。
 その不意の動きにエドガーと大臣が同時に戸口へ顔を向け、そこからひょこっと顔を出した人物を認めて硬直する。
「ただいま、兄貴!」
 一ヶ月前よりも浅黒く陽に焼けた笑顔で、他でもないマッシュがその場所に立っていた。
 砂避けのフードつきのマントを纏い、旅装束のマッシュは服の端々が薄汚れて、今まさに帰城を果たしたのだとはっきり分かる様相だった。一声も発することなく呆然と目を瞠るエドガーと大臣に対し、実に朗らかに笑っているマッシュは砂嵐の脅威などまるで無関係の顔をしていた。
 ぽかんと口を半開きにしている二人の様子がおかしいことに気づいたのか、マッシュが笑みを浮かべたまま不思議そうに首を傾げる。その小さな動きでようやくエドガーは意識を取り戻したかのように、それまで忘れていた呼吸を再開して軽く目を擦った。──やはり幻ではない。
「……マッシュ、お前……、正午過ぎにサウスフィガロを出たのでは……」
 掠れた声を絞り出したエドガーに向かってにんまり笑ったマッシュは、悪びれずに両の手を腰に当ててしてやったりと胸を張った。
「ははっ、騙された? ホントは朝一で出発してたんだ。ホラ、今日エイプリルフールだろ? 驚かせようと思っ……て……」
 マッシュの笑顔が徐々に解けていく。エドガーと大臣の冷ややかな視線に気づいたらしく、マッシュは何とか弧を保った口元を強張らせながら、もう一度首を傾げた。
「……なんか、マズかった……?」
 はーっと大きな溜息ひとつ、眉間にくっきり皺を刻んで瞼を下ろしたエドガーは軽く首を横に振って、その目を開いた後は大臣に向き直り、声色低く指示を出した。
「……警備兵に伝令を。潜行の準備と狼煙もだ。それから」
 エドガーは一度深く息を吸い、吐き出すと同時に肩からすとんと力を抜いた。
「……チョコボは必要なくなった」
「御意」
 大臣が頭を下げ、ちらりと意味深長な視線をマッシュに寄越してから目礼して執務室を足早に去って行く。
 未だ事態を把握できていないマッシュは頭を掻きながら大臣を見送り、何やらピリピリとした気配の兄を横目に戸惑っていた。
「マッシュ」
 低く棘のある呼びかけにマッシュがビクリと肩を竦める。
「中へ。ドアを閉めろ」
 短い命令に頷いたマッシュは、言われた通りに素早くドアを閉めて室内で背筋を正した。
 苛立ちを隠さないエドガーの不機嫌さを察しているのだろう、それまでのにこやかな笑顔をすっかり消して緊張の面持ちで佇むマッシュの元へ、エドガーはカツカツとわざとらしく踵を鳴らして近づいた。そしてマッシュの目の前に立ち、顎を上げて狼狽える弟を睨みつけ──その砂埃で汚れた身体をおもむろに抱き締める。
 マッシュの身体が強張ったのが布越しに伝わってくる。広い肩に額を擦り付けたエドガーは、きつく瞼を瞑って心からの安堵を込めた吐息を深く長く零した。
 砂埃に混じるマッシュの確かな日向の匂い。夢でも幻でもない、正真正銘本物のマッシュを抱き、力の抜けた身体を遠慮なく凭れさせる。何が何だか分からずに、辿々しく抱き返してくるマッシュの耳に唇を寄せ、エドガーは震える声で囁いた。
「……嫌いだ、お前なんか」
「えっ!?」
「大嫌いだ……」
 せめてもの仕返しに下手くそな嘘をついたエドガーは、厚みのある暖かい胸を潰さん勢いで両腕に力を込めた。