バームクーヘン




 今日中に山越えは難しいと判断して野営の準備を始めた夕間暮れ、携帯食の干し肉に野草ときのこを集めたスープで夕飯の支度をするマッシュの横でガウが腹を鳴らして待っていた。
「もう少し待ってろよ、すぐできるからな」
 しかし笑顔のマッシュに対してガウの表情は晴れない。
「ガウ、スープ、きらいだ」
「ええ? 好き嫌いしてたら大きくなれないぞ」
「くさたっぷり、にがい……」
 マッシュは困って眉を下げる。スープなしで干し肉のみでは腹持ちが悪いだろう。
 今日のメンバーは自分たちの他にはティナと兄だ。干し肉をガウに多めに回すと他の三人が物足りなくなる。
 マッシュはスープに仕上げで流し込もうとしていたセルピアスの卵を見つめ、ハッと閃いた。
「よし、いいもん作ってやる」
 マッシュはスープの味を手早く整え、入れる予定だった卵は割らずに脇に置き、火の元から離れて何かを探し始めた。その様子をガウが不思議そうに見守り、薪を集めてきたエドガーもまたうろうろと歩き回って地面を睨む弟の姿を不審げに眺めた。
「ガウ、私の弟は何をしてるんだい?」
「ガウ……わかんない」
「なあに? どうかしたの?」
 テントの中で荷物を整理していたティナも出てきて、三人に見守られながら何かを見つけたマッシュは、木肌の滑らかな棒切れを一本拾い上げた。上機嫌で火の傍に戻り、炊事用の水で棒切れを濯いでから油を塗り始めるマッシュの行動を、エドガーもガウもティナも時折顔を見合わせながら見ていることしかできなかった。
 小麦粉に砂糖を混ぜ、水を適当に注いでから最後の卵を割り入れる。ぐるぐるかき混ぜるともったりと重みのある生地が完成し、マッシュはおもむろにその生地を棒切れに塗りたくって火にくべた。
「何を作る気だ、マッシュ」
 焦れて尋ねたエドガーにニヤリと笑ったマッシュは、まあ見てろと火の上で棒切れをぐるぐる回す。ぽたぽたと垂れ落ちる分は無視して火で炙り続けると、棒を覆う生地が徐々に狐色に変わってほんのり焦げる香ばしい匂いが漂ってきた。マッシュは再び生地を塗り足して焼き始め、それを何度も何度も繰り返し、作った生地を塗り終えた頃には棒切れの周りにごろんと厚みのあるケーキのような塊が出来上がっていた。
 空きっ腹に直に訴えるような良い匂いにガウが目を輝かせて鼻をヒクつかせる隣でマッシュは器用に棒を抜き、出来上がったものを輪切りにカットしていく。倒れた断面はまるでひしゃげた大木の年輪のようにも見えた。
「山で修行してた時におっしょうさまと作ってたんだ。バームクーヘンって言うんだよ」
 歪な切れ端を口に放り込んだマッシュは味を確かめて頷き、三等分にした一切れをガウに渡す。ガウは熱さでしばらく右手と左手に行き来させて湯気を逃し、ようやく一口噛り付いた時にはすっかり笑顔になっていた。
「美味いか」
「うまい!」
「そっか。ほら、ティナも」
「ありがとう!」
 受け取ったティナも恐る恐る小さな口にバームクーヘンを含んで、そしてガウに続いてにっこり笑う。
「美味しい……! ケーキみたいだわ」
「そりゃ良かった」
 では次こそ我が最愛の兄へと後ろから興味深げに覗き込んでいるエドガーを振り返ろうとした時、
「もっと!」
 あっという間に食べ終わったガウがにゅっと顔を突き出してきた。思わず動きを止めたマッシュは、ゆっくりと振り向いて兄の様子を伺う。視線の先で優しく微笑んだエドガーは、マッシュを宥めるようにガウを手のひらで指し示す。
「お代わりだそうだよ。あげなさい」
「でも、兄貴の分」
「俺はスープをいただくよ。ほら、ガウはすっかり気に入ったようだ」
 顔を戻すと今にも涎を垂らさんばかりのガウの期待に満ちた眼差しに射抜かれ、苦笑したマッシュは最後の一切れをガウに手渡した。
 満面の笑みでガウが頬張るのを嬉しく思う反面、上品にスープを口に運ぶエドガーに一口も食べさせられなかったことを淋しく感じてもいた。



 外の物音に薄目を開いたエドガーは、耳をそばだててテントの向こう側の気配を探る。離れたところから何かが近づいて来ている。今の時間はマッシュが見張り番のはずだがまさか気づいていないのだろうか、知らせがない。
 エドガーが眠るテントの隣、並んで立てたティナとガウのテントを案じて、エドガーは懐に忍ばせていた短剣を確認してから身を起こす。音の出所は草を分けて近づいてきている。一刻の猶予もないとテントから飛び出したエドガーの前に草陰からぬっと現れた大きな影は、その時丁度良く月を覆っていた雲が風に流れて光を射したことでマッシュの姿となった。
「マッシュ」
 驚きに目を見開くエドガーからやや離れた向かい側、マッシュも同じ顔で瞬きをする。
「こんな時間に何してんだ、兄貴?」
「それはこっちの台詞だ……不審な物音がすると思ったらお前か。こんな夜更けに何をやってた」
 恐らくは熟睡しているだろうティナたちを気遣い、エドガーは小声で囁きながらマッシュの元へと歩み寄った。見張り役がテントを離れていたことも問題である。眉を寄せるエドガーに対して申し訳なさそうに笑ったマッシュは、手の中に抱えているものを差し出して見せた。
 子供の拳ほどの卵が三つ、マッシュの手のひらに鎮座している。見せられた意図が分からず首を傾げたエドガーにもう一度笑いかけたマッシュは、焚き火の傍に置いたままの鍋の中に卵をそっと転がした。
「ここに来る少し手前にセルピアスの巣があったろ。さっき思い出してさ。ひょっとしたら卵があるかもって、チラッと見に行ってたんだ」
「なんでまたわざわざ卵なんか取りに行ったんだ。夜が明けたら山を降りるんだ、今更新しく食材を調達しなくたって」
「うん……、兄貴にさ、食べてもらいたくて」
 照れ臭そうに鼻の下を擦るマッシュを不思議そうに眺めたエドガーは、再びマッシュが取ってきた卵を見下ろした。
「バームクーヘン」
 観念したように呟いたマッシュの言葉であっと口を開いたエドガーは、夕飯の支度の際にマッシュが作ったあの珍しい菓子が漂わせた香ばしい匂いを思い出した。その途端に小さく腹の虫が鳴き、エドガーの頬が赤く染まる。
「腹減っちまったか? ガウのやつ結局干し肉もほとんど一人で欲張って食っちまったからな」
 苦笑したマッシュは、鍋の中の卵をひとつ手に取りエドガーを見てウィンクした。
「作ろっか、バームクーヘン」
「今からか?」
「うん、腹減らしたまま眠れないだろ」
 テントから残った小麦粉と砂糖を持ち出してきたマッシュは、夕食時に使った棒切れを再利用して手際よく準備をし始めた。
「初めて山籠りして修行受けた時、ヘトヘトになってさ。身体ガタガタで、情けなくて凹んでる俺におっしょうさまが作ってくれたこれが無茶苦茶美味くてなあ。……兄貴と食べたいなあって思ったこと、思い出したんだ」
 焚き火の明かりでオレンジ色に染まったマッシュの横顔を見つめながら、エドガーは黙って隣に腰を下ろす。昔を懐かしんで目を細めたマッシュは、夕暮れ時と同じように棒に生地を塗ってはくるくる回してバームクーヘンを焼き上げていった。
「兄貴はさ、ちょっと変わったものが昔から好きだったから……こんな作り方する食べ物なんて絶対喜ぶなって思ったんだよなあ。今思えば、あの時がホームシックのピークだったかも」
 自嘲気味に肩を竦めたマッシュは、隣のエドガーを振り返って作りかけのバームクーヘンを振ってみせた。
「面白いだろ、これ」
「……ああ。鍋やフライパンを使わずに直火で炙るとは興味深い作り方をするものだと思って見ていた。若干効率が悪いともね」
「改善点は?」
「そうだな、俺なら鉄の棒を使うな。それだと熱伝導が良くなる代わりに手では持てなくなるから……、機械仕掛けで回すシステムを作ろう。うん、風車のように……何本も鉄の棒を取り付けて生地を潜らせて焼いていけば、一度にたくさん作ることができる」
「さすが兄貴だ」
 楽しそうに笑ったマッシュは最後の生地を塗り終えて、ゆっくりと棒を回しながら焼き具合を見定めた。
「本当はバターやミルクを入れて作った方がずっとコクがあって美味いんだけど。あの時の気持ちを思い出したら、今無性に兄貴に食べてもらいたくなった。……あの時、一緒に食べられなかったから」
 焼き上がったバームクーヘンを棒から外しながら、出来立てをナイフで切り分ける。マッシュが差し出した一切れを受け取ったエドガーは、湯気越しに弟を見つめて微笑んだ。
「じゃあ、城に帰ったらもっと美味いバームクーヘンを焼いてもらうか」
 マッシュは瞬きし、すぐに目を細めて嬉しそうに笑い返す。
 帰る場所があることを暗に伝えたエドガーは、先程は食べ損ねたバームクーヘンをひと齧りして「美味い」と破顔した。