鈍感




 そろそろ頃合いだろうかと控えめにノックした兄の部屋の扉の向こうからは思った通り気の抜けた返事があり、時刻を考えて静かに扉を開いたその視界の先で、机についた両肘で身体を支えて頭を垂らしているエドガーのくたびれた姿を発見したマッシュは、苦笑混じりの溜息をつきつつ中に入ってドアを閉めた。
 見上げた時計の針は日付が変わってしばらく経った時刻を指している。近づいて卓上を確認すると、手こずっていたらしい書類はすでに脇に揃えられているものの、まだ先端が黒く濡れている羽根ペンがぞんざいに転がっていることからまさに今仕事を終えたのだろう。マッシュの気配にのろのろと頭を上げたエドガーの目の下はくすんで落ち窪んでいた。
「終わったのか?」
 優しく尋ねたマッシュの声にほんの少し表情を和らげたエドガーが答える。
「ノルマは何とか」
「じゃあもう休めよ。明日は何時?」
「朝食を抜けば七時までは眠れる」
「六時半に起こすよ。すぐ眠れば五時間近く眠れるだろ。さあ」
 再び机に突っ伏してしまいそうなエドガーの肩に手をかけ、何とか立たせて身体を支えた。
 恐らくは書類の最後の一枚までは保っていた集中力が完全に切れたのだ。マッシュは糸の切れた操り人形のような、手足に力を入れてくれないエドガーを抱えるようにして移動させ、ベッド脇に座らせてから寝支度を手伝った。服を着替えさせ、髪留めを外して長い髪を緩く編み直してやり、毛布の中に横たわらせるとエドガーの瞼はすでに半分降りていた。
 すぐにでも眠りに落ちそうな兄を優しく微笑んで見下ろし、大きな手のひらで頭に触れながら重ねるだけのキスを落としたマッシュは、「おやすみ」と低く囁いた。するとエドガーの瞼がほんの少し持ち上がり、虚ろな目がマッシュを探す。
「……お前は?」
 エドガーの問いかけの意味がすぐに分からず首を傾げたマッシュは、隣に入ってくる気配のないマッシュについて尋ねているのだと理解してはにかむように笑った。
「部屋で寝るよ。疲れてんだ、広々ベッド使ってゆったり寝た方がいいだろ」
「……ん……」
「おやすみ」
 もう一度言葉をかけると、それが合図のようにエドガーは目を閉じる。
 数分と待たずに寝息を立て始めたエドガーに目を細めて、マッシュは再び時計を確認した。
 深く眠れば多少は疲れが取れるだろう。共寝できないのは寂しいが、ここのところの激務で明らかに疲労を蓄積させていたエドガーをゆっくり眠らせてあげられるならと、マッシュはエドガーに背を向け部屋の灯りをそっと落とした。


 胃に負担がかからない野菜スープをメインにした朝食を携えてマッシュがエドガーの部屋を訪れると、未だ兄はベッドの中で夢の世界の住人と化していた。
 しかし昨夜ベッドに吸い込まれるように熟睡したはずのエドガーの寝顔がやけに険しい。枕を抱えてうつ伏せになり、半分潰れた頬が息苦しそうで眉間にも深い峡谷が刻まれている。
 妙だなと首を傾げつつ、マッシュはエドガーを優しく揺り起こした。小さな唸り声を上げたエドガーは徐々に重そうな瞼を持ち上げ、眉間の皺はそのままにマッシュを見上げて気怠そうに瞬きをする。
「兄貴、おはよう」
「……、おは、よう」
 寝起きの掠れた声は痛々しささえ感じるほどで、マッシュは慌てて水差しを手に取った。コップに注いだ水を渡すと、二口ほど口をつけたエドガーが小さく息をつく。
「……もう、朝か」
 先ほどよりは僅かに声に潤いが出たが、まだ喉に何かが引っかかっているような掠れ具合だった。
「よく眠れなかったのか……?」
 緩慢な動作で上半身を起こすエドガーの目の下にはくっきりとクマができ、顔色も冴えない。
「いや……、充分寝たはずなんだが」
「でも全然疲れ取れてない顔してるぜ。今日は昨日より早く寝てくれよ……倒れちまう」
 心配そうにエドガーの乱れた前髪を掻き上げたマッシュに対し、エドガーはようやく苦いながらも微笑んだ。
「そんなにヤワじゃないさ。さあ、今日も気合を入れていくか」
 背伸びをして無理に身体を覚醒させようとするエドガーを不安げに見つめつつ、マッシュも無理に作った笑顔を返して朝食を乗せたサイドテーブルをエドガーの元へ引き寄せた。


 その日の夜は前夜より一時間早くエドガーをベッドに押し込んだ。昨夜同様に横たわるのとほとんど同時に眠りにつくエドガーをはっきり確認し、マッシュは翌朝こそエドガーのスッキリとした目覚めの表情が見られることを期待して兄の部屋を後にする。
 しかし朝を迎えて起こしに行くと、またもエドガーは寝苦しそうな険しい顔で枕を抱え、起こした後もどんよりと澱んだ表情で生欠伸を噛み殺していた。胃が受け付けないらしくボリュームのある朝食は食べたがらない。明らかに不調に見えるのだが、睡眠時間はそれなりに確保したはずだった。
 もしや何かの病気ではと医師の診察を勧めても、何でもないと笑って跳ね除け続けるエドガーの寝起きの悪さはそれから先も続き、エドガーを案じて早々に寝支度をさせるマッシュは日に日に不安を募らせていた。
 寝ても寝ても疲れが取れている様子がない。徹夜明けのような顔で怠そうに起き上がるエドガーがもしも重い病気だったら、と落ち着かなく独り寝のベッドで何度も寝返りを打つある日の夜、マッシュの耳に小さな音が届いた。
 誰かがドアを叩いている──先ほど兄を眠らせてから小一時間ほど経ち、とっくに日付は変わっている。一体誰がと警戒しながらベッドを降りてドアを開くと、寝支度のエドガーが就寝用に緩く編んだ髪を若干乱した姿で立っていた。
 ベッドを抜け出したそのままの格好であると気づいたマッシュが兄貴と呼ぶより先に、エドガーがマッシュの胸に飛び込んでくる。部屋の灯りを落としていたためエドガーの表情が見えず、マッシュは面食らいながらもエドガーの身体を抱き留めた。
「兄貴……?」
「……のむ」
「え?」
「頼む……、一緒に……」
 小さくそれだけ零したエドガーは、マッシュにしがみつきながら体重を預けてくる。脚から力を抜こうとしている兄を慌てて支え、仕方なく膝下に手を差し入れて抱き上げるが、エドガーの両腕はしっかりマッシュの背に絡みついていて動きにくいことこの上なかった。
「兄貴、どうした? ……眠れないのか?」
 尋ねるが、エドガーはむにゃむにゃと寝言のような言葉を小さく呟くのみで会話にはならない。半分眠りに落ちているのか、いつもより身体が重く感じた。
 マッシュに縋り付くようにくっついているエドガーを放っておけるはずがなく、エドガーの部屋に連れ帰るかを迷って、マッシュは結局そのままエドガーを自分のベッドに下ろして一緒に毛布の中へ潜り込んだ。何しろエドガーがマッシュを離さない。ならば距離の近い所でエドガーを眠らせる方が余計な時間がかからなくて良い。
 マッシュの胸に頭を乗せたエドガーが落ち着く位置を探してもぞもぞと動き、しっくりくる場所を見つけたのか満足げに息をつく。それから間も無くすやすやと規則的で実に穏やかな寝息を立て始めたエドガーに苦笑し、マッシュは心地好さそうに眠る兄の髪を撫でた。
 久しぶりに身体を寄せて眠るベッドは窮屈だが、暖かくて身も心も安らぐ。エドガーの髪の香りに癒されながら、マッシュもゆっくり目を閉じた。


 一晩マッシュを抱き枕代わりに抱えて眠ったエドガーは、翌朝マッシュがほんの少し肩に触れただけでぱっちりと目を開いて意識を覚醒させ、気持ち良さそうに腕を伸ばして身体を解した。
 ほんのり桜色の頬に潤った唇、乱れた前髪はそれまでのように疲れを感じさせるどころか仄かな色気に様変わりして、瞼にも腫れぼったさは見られない。
「おはよう、マッシュ」
 機嫌良くエドガーから小さなおはようのキスまで仕掛けてきて、ここしばらく絶不調な兄の寝起きばかりを見てきたマッシュはぽかんとしつつも嬉しさに頬を緩める。
「今日は凄く調子良さそうだな」
 エドガーの肩に乗った編んだ髪の束を背中に流しながらマッシュが声をかけると、エドガーは横目でマッシュを見てから照れ臭そうに視線を逸らしてしまった。
「……よく眠れたんだ」
 やや早口で零したエドガーの不自然な目の動きを訝しがりながらも、マッシュはエドガーがぐっすり眠れたことを素直に喜んだ。
「そりゃ良かった。ここ最近酷かったからなあ。でも狭くなかったか? のびのび寝られなかっただろ?」
「……今まで眠れなかったのは、その……、よく言うだろ、枕が変わると眠れないって……」
「……? だって兄貴、ずっと自分の部屋で寝てたのに」
 寧ろ枕が変わったマッシュの部屋で眠った方がスッキリとした目覚めを迎えているように見える。納得できずに眉を寄せたマッシュをチラリと伺ったエドガーは、マッシュを指差してボソリと「枕」と呟いた。
 意図が分からずマッシュは首を傾げたが、もしやと同じく自分を指差し「枕?」と尋ねる。エドガーが気恥ずかしそうに小さく頷いた。
「……お前はあったかくて、抱えていると寝心地がいいんだ……」
 その頬を薄っすら赤く染め、口ごもりながら答えたエドガーに向かい合ったマッシュも首まで赤くなり、照れ隠しにがりがりと頭を掻いた。
 成る程、広いベッドを提供しようと隣に潜り込むのを遠慮していたのが裏目に出ていたのか──マッシュは自然と緩んでしまう表情を隠すように口元に手を当て、目線だけで面映く唇を尖らせるエドガーを伺って堪え切れずににんまりと笑った。


 差し入れのつもりで準備した茶を手に訪れた兄の部屋、マッシュの予想に反してエドガーはすでに机には向かっておらず寝支度を始めているようだった。
 見上げた時計の時刻は普段ならもうひと頑張りと気合いを入れ直す頃だ。驚くマッシュにエドガーは得意げな笑みを見せた。
「ぐっすり寝たせいか今日は頭が冴えてな。随分と捗った」
「そっか、じゃあちょっと来るの遅かったな。眠気覚ましによく効く紅茶持ってきちまった」
 マッシュが手にしたトレイの上には二人分のティーカップと、すぐに提供できるよう蒸らしの時間を計算してお湯を注いでいたポットが乗っていた。無駄にしたかとトレイをサイドテーブルに置くと、着替えを済ませたエドガーがベッドサイドに腰掛けて「くれよ」と小さく呟いた。
 小声でよく聞き取れなかったマッシュが小首を傾げてみせると、エドガーはもう一度、今度はもう少しはっきりと「お茶、くれ」と告げる。マッシュは何処か照れ臭さそうなエドガーの様子を不思議に思いつつ答えた。
「うん、でもこれ飲んだら頭スッキリしちまうかも。違うお茶持って来ようか」
「いや、それでいい」
「? これから寝るんだろ? 寝付けなくなるぞ」
 マッシュの言葉を聞くなり若干不機嫌気味に睨みつけてきたエドガーは、爪先で軽く床を叩いて焦れたように僅かに肩を揺すった。
「これから寝るとしても、……すぐに眠らなくたっていいだろう……」
 気恥ずかしそうな上目遣いで口を開いたエドガーの語尾は掠れ、マッシュは最初こそきょとんと瞬きをしてエドガーの言葉の意味を考えていたが、やがて全てを理解して火がついたように顔を赤くした。
 寝るけれど、まだ眠らない。……確かに今夜は時間がある。
 何と答えるべきかうまい返しが思いつかなかったマッシュは、わざとらしく咳払いをしてからポットに被せていたコゼットを外し、十分に茶葉が開いた紅茶をカップに注ぎ始めた。