カラカラと頭上から落ちて来る小石が頬に当たって顔を顰めたエドガーは、なるべく首も身体も動かさないようゆっくりと目線を下に下ろす。
 足の下に広がる空間には底が見えず、吸い込まれそうな闇に目眩を感じて気を保つために顔を上げて天を見据えた。
 切り立った崖の窪みに爪を食い込ませてしがみつく左手が視界に入る。その腕の持ち主であるマッシュは険しい表情で歯を食い縛り、もう片方の右腕でしっかりとエドガーの身体を抱えていた。
 間一髪。マッシュが捕まえてくれなければ真っ逆さまだった。エドガーは落ちれば到底助からない高さで足が浮いている現状にごくりと喉を鳴らす。
「……兄貴。俺の身体、登ってくれ」
 マッシュが苦しそうな吐息混じりの声で呟いた。マッシュが先程の戦闘で左腕を負傷していたことは知っている。エドガーは微かに震えているマッシュの左手の指先がどす黒い血を滲ませているのをその目で確認し、眉を寄せて小さく首を振った。
「俺を岩壁に近づけろ。自分で登る」
「駄目だ。見た感じ脆い箇所が多い……崩れたらもう助けられない。大丈夫だから俺を伝って登ってくれ、頼む」
 厳しい目で地上を睨みながら早口で吐き捨てたマッシュにこれ以上負担をかける訳にはいかず、決意したエドガーは小声で「すまん」と囁き、マッシュの肩に手をかけた。
 背中を支えていた右腕が臀部を掴んで押し上げてくれる。厚い胸板を足場にして何とか地表に指を引っ掛け、靴底を支えたマッシュの手のひらをバネ代わりによじ登ったエドガーは、急いで崖を振り返り地面に膝をついた。
「マッシュ!」
 呼びかけながら手を伸ばすが、マッシュは薄い笑みを見せるばかりでその手を取ろうとしない。エドガーは焦燥に目を見開き、崖下を覗き込むように身を乗り出した。
「マッシュ、腕を伸ばせ!」
「……悪い、兄貴。こっち、もう支えらんねえ」
 顎先で軽く左腕を指したマッシュは、目を細めて穏やかに微笑んだ。
「ごめんな。愛してるよ」
「マッ……」
 何かを応える間も無くマッシュの左手がふわっと岩肌から離れ、重力に引き寄せられるがままに真っ直ぐ落ちていく姿を愕然と見下ろしたエドガーは、声も出せずに半開きの唇を戦慄かせて暗い谷底を凝視し続けた。





「本当に、あの時は寿命が十年、いや二十年は縮んだぞ」
「はいはい、心配かけて悪かったよ。兄貴、酔うとその話するの相変わらずだなあ」
 すっかり目が据わっている兄のグラスを取り上げてティーカップを滑らせたマッシュに唇を尖らせたエドガーは、銀髪に近い色になった白髪混じりの前髪を掻き上げて隣に座る弟の苦笑いを不満げに睨みつけた。
「まだ飲んでる」
「うん、もう身体に悪いからお茶にしような」
「また年寄り扱いして」
「年寄りだろ、お互い」
 ポットから樺色の液体をカップに注ぎながら、拗ねるエドガーに微笑むマッシュは昔を懐かしむように目を細める。
「腰紐が引っかからなかったら今ここにはいなかったなあ」
「全く、お陰で寿命が十年は」
「その割にはまだお迎えが来てないな?」
「百二十まで寿命があったんだ」
「じゃあもうしばらく一緒にいられるな」
 目尻に皺を刻んで嬉しそうに笑うマッシュを伏せがちの横目でちらりと見やり、尖らせたままの唇でエドガーがぼそりと呟く。
「マッシュ、キス」
「はいはい」
 笑顔のまま愛すべき尊大な兄に口付けて、尖っていた口元がほんのり緩むのを幸福に満ちた眼差しで見つめたマッシュは、痩せて細くはなったが美しいエドガーの髪に指を絡ませその頭を抱き寄せた。

(2018.02.11)