蛇口を閉めて水音が止むと、それまでシャワーの湯と共に流れて掻き消されていた胸の鼓動がはっきりと肌を震わせている様が、耳にも目からも伝わって来た。
 ぽたぽたと水滴を落とす長い髪を一纏めに握り、軽く水気を絞ったエドガーは短くも深い溜息をつく。
 ──さて、困った。この後どうしよう。
 身体は隅々まで念入りに磨き上げた。不自然なほどに時間をかけ過ぎてしまった。これ以上洗うところがないのでシャワールームを出れば良いのだが、出た後はどんな格好で行くべきか。
 かねてから予感があった、マッシュとの関係がようやく前に進めるやりとりを交わしたのがシャワールームに籠る前。初めての口づけで唇を触れ合わせて、いざその先へと空気が色づいた瞬間に怖気付いたのが悪かった。
 シャワーを浴びて来る、と告げた後にマッシュの顔をまともに見ることもできず、この狭い空間に飛び込んで今に至る。思えば完全に失敗だった。
 雰囲気そのままに雪崩れ込んでしまえば、お互い多少の要領の悪さも高揚感に隠れて最後まで押し通せたかもしれない。しかし下手に考える時間を作ってしまったせいで、マッシュが冷静になってそんな気分ではなくなっていたら──眉間に皺を寄せて上目遣いに考え込むエドガーは、濡れた身体が冷えて来たのを感じて覚悟を決めてシャワールームの扉を開く。
 キイ、と小さく響く音はマッシュに届いているだろうか。早めに姿を見せないと変に思われるかもしれない。ただでさえシャワーを浴びている時間が長かったこともあり、マッシュの気が変わっていないか不安を募らせるエドガーは余裕なくタオルで全身を拭く。
 問題はこれからだ。何を着て出て行けば良いか。
 シャワーを浴びる前に着ていた服をきっちりと着込むべきだろうか? しかしシャワーを浴びた理由なんてただひとつ、この後の行為を考えると脱ぎ着が面倒な服を身につけて出て行くのはマッシュの気持ちが萎えてしまうのではないか。
 とは言え、腰にタオルを巻いただけ、なんてスタイルもやり過ぎだろうか。あまりにやる気満々で出て行くと逆にマッシュが引いてしまったりするかもしれない。それにもしマッシュもシャワーを浴びるとなれば、半裸でその時間をぼんやり過ごさねばならなくなる。見た目が哀れだし、何より風邪を引くだろう。
 では、やはりこれか──エドガーは脱衣所に備えられたバスローブを手に取った。これなら身体は隠れるが、脱ぐのに時間はかからない。待てよ、下着はつけるべきか? はだけて全裸だと変質者じみていないだろうか。しかし中途半端に下着をつけていても、それを脱ぐタイミングが難しい。自分でするりと下ろすのも、もしくはマッシュの手で下ろされるのも、どちらも余分な間を作りはしないだろうか──ぐるぐると頭を巡る、くだらなくも当人にとっては実に真面目な問題に何とか終着点を見つけたエドガーは、結局素肌にそのままバスローブを纏うことにした。
 何とかもう一度ムードを盛り上げて、バサッと脱いでガバッとマッシュの胸に飛び込んでしまえ。あれこれと細かく考えていたことを台無しにして大雑把に決意したエドガーは、鼓動がうるさい胸を押さえて一度深呼吸し、無理やり顔を引き締めてから脱衣所を後にした。


 ベッドにちょこんと腰掛けていたマッシュが気配に感づいて顔を上げる。そしてエドガーの姿を見てぱっと頬を赤らめ、あからさまに目を泳がせた。
「……お前も、シャワー浴びて来い。待ってるから」
 エドガーがぽつりと呟くと、小さく頷いたマッシュがぎこちない動作で立ち上がり、横をすり抜けてシャワールームへと向かって行った。マッシュも相当に緊張しているらしい、右手と右足が同時に前に出ている。反応からして気分が冷めたということはなさそうで、エドガーはホッと小さく息をついた。
 一人きりの空間で、湿った肌を包む質の良いタオル地のバスローブごと身体を抱き締めて、エドガーもまたベッドの端に腰掛けてマッシュを待つことにした。
 ──いよいよ、いよいよだ。温め続けていた想いが成就する時が来た。
 産まれた時からずっと一緒に在った存在に、肉親の情に留まらない感情を抱き始めたのはいつからだったのか。
 気づけば長い年月が過ぎ、お互いとっくに大人になって、それでもやはり変わらなかった心を向き合わせる瞬間が来たのだ。落ち着け、大丈夫だと胸に言い聞かせ、祈るように目を閉じたエドガーの耳に、大きな物音とマッシュの悲鳴が聞こえて来た。
 ハッと顔を上げて立ち上がる。尋常じゃない音だと判断したエドガーが足早に向かったシャワールーム、磨りガラスの折れ戸を開いたその先で、全裸のマッシュが床に尻をついて倒れ込んでいた。
「マッシュ!?」
 一体何事かとエドガーが腰を屈めてマッシュを見下ろすと、マッシュは顔を歪めてイテテと呻きながら腰をさすった。
「石鹸……、取ろうとして、落として、踏んで、転んだ……」
 弱々しく説明するマッシュの情けなく垂れ下がった眉を見て、エドガーはぽかんと口を開ける。そして数秒置いて吹き出し、堪え切れずにくつくつと笑った。
 焦り過ぎで余裕がなくて、何という愛すべき慌てん坊だろう。この格好悪い姿の全てが可愛らしくいじらしく、愛しくてたまらない。
 恥ずかしそうに顔のみならず全身真っ赤に染めたマッシュの目の前で、肩の力が抜けたエドガーはバスローブを豪快に脱ぎ捨てた。
 そして呆気にとられて目を丸くしているマッシュに向かって飛び込むように抱きついて、後ろ足で蹴り上げて行儀悪く折れ戸を閉める。
 磨りガラスの向こうで重なる影を、咎めるものなど在りはしない。

(2018.05.01)