籠に皺くちゃの衣類を詰めて、らしくない困り顔で訪ねてきた兄のエドガーを出迎えたマッシュは、事情を聞いて苦笑を抑え切れずに頬を緩めた。 「そんなの、俺がやるのに」 「いや、ここでは皆対等でなければな。俺だけ免除という訳にはいかんだろう」 勇んで訪れた水場にて袖とズボンの裾を捲り、気合いを入れてマッシュからの指導を待つエドガーを前に、マッシュも快く頷いて着用済の兄の服を手に取る。 自分の汚れ物は自分で洗うという仲間内のルールを守るべく、人生初の洗濯を習うエドガーの表情は真剣であり、新鮮味にも溢れていた。 水を張ったタライに洗濯物を漬け込む様子をエドガーは真顔で覗き込んで、時折頷きながらマッシュの説明に熱心に聞き入る。 「こうして、足で踏むんだ。汚れが酷い時は石鹸を使うけど、みんなで使うからちょっとだけな」 「ふむ」 脛まで裾を捲った滅多に見られない姿で洗い物を踏むエドガーの、一生懸命でありながら子供のようにキラキラした目を眺めたマッシュは、この姿を城の人間が見たら卒倒するかもしれないと口元を綻ばせる。 産まれて今まで自分の手で、もとい足で洗濯などしたことがない王家の人間が進んで新しいことに挑戦する様は、同じ血を引く弟のマッシュの目にも誇らしげに映っていた。 再会して共に旅を始めてから、エドガーにとって日々が驚きの連続であるらしいことは傍に控えるマッシュにもひしひしと伝わった。 十年前に城を出て、身の回りのことは自分で行う生活にすっかり慣れたマッシュには当たり前のことが、エドガーには何もかも初めての体験なのだ。掃除洗濯炊事、ひとつとして自分でまともにしたことがないという事実に本人でさえ驚いているようだった。 「王というだけで恵まれた生活をしていたことに気づきもしなかった。子供でさえ出来ることが分からないとは情けない限りだ」 そんなことを零しつつも、知らない自分を誤魔化したりせずに積極的に学ぼうとする姿勢は先進的な兄らしいと、マッシュも支援を買って出た。 濯ぎを繰り返して洗い終えた洗濯物の皺を伸ばし、干し場に張られた紐へ一枚一枚干して行くエドガーの横顔は清々しい。全て自分の手で干し終えたエドガーは、腕で額の汗を軽く拭ってふうと息を吐いた。 「結構な重労働だな。溜め込むのは良くなさそうだ」 言葉の割には晴れやかな表情でしみじみ呟くエドガーの、達成感を得た笑顔にマッシュは目を細める。 改めて生活を共にしてから、かつて城で暮らしていた時以上に新しい兄の顔を見つけることができている気がする。そのどれもが物珍しさに輝き、時に無邪気ささえ感じられて見ていて胸がじんわり暖かくなるほど。 一国の王ではなく、個としてのエドガーが有りのままでいられる姿はマッシュにとっても喜ばしいものだった。 「助かったよ、マッシュ。また分からないことがあったらよろしく頼むな」 差し出されたエドガーの手を握り返したマッシュは、先程まで冷たい水に触れていたせいですっかり冷えた兄の手を、思わず温めようと両手で包んだ。 驚いたように軽く眉を持ち上げたエドガーは、すぐに嬉しそうに目尻を下げてふんわりと微笑む。 「暖かいな、お前の手は」 向かい合ったエドガーがマッシュに目線を合わせるために僅かに上げた顎のラインが綺麗で、その柔らかな微笑と相まってマッシュの胸が不思議な音を立てた。 咄嗟にぱっと手を放し、その手を自分の胸に当てたマッシュを、きょとんと眺めたエドガーも驚いたように瞬きをする。 「どうした」 「……いや、なんか、胸が痛くなって」 マッシュの返答でサッと顔色を変えたエドガーは、自身もその手をマッシュの胸に当てて心配そうに弟の顔を覗き込んだ。その距離の近さに再び胸が奇妙な音を立ててぎゅっと縮む。 「い、いてて」 「大丈夫か……? 医者に診てもらった方が」 「いや、そこまでは……」 作り笑いで兄の手をやんわり解き、何故だか熱くなっている頬をパタパタと扇子代わりの手のひらで扇ぐ。納得いかない様子でじっとマッシュを瞠るエドガーの視線が気恥ずかしくて、わざとらしく腕を振り上げたマッシュはさーて修行だ、と独り言を叫んだ。 「マッシュ、無理をするなよ。もしまた調子がおかしくなるようならきちんと病院に」 「分かったよ、何でもないって。もう治っちまった」 後ろ手に手を振りながらエドガーから離れると胸の痛みはゆっくりと消えて行ったが、先程の笑顔を思い出せばやはり不自然な鼓動がとくんと脈打つ。マッシュは背後のエドガーに気づかれないよう、もう一度胸をそっと押さえた。 ──なんだろう、これ。 不思議な痛みだ。心臓が跳ねたような、弾んで浮かれた何処と無く甘い痛み。 初めて感じた胸の異変、その正体にとんと見当がつかないマッシュはただただ首を傾げ続けた。 痛みの原因と理由が判明し、それをマッシュが認めざるを得なくなるのは、もう少し後のこと。 |