萌えシチュエーション15題より
「5.相手を庇ってできた怪我」
(使用元:TOY様 http://toy.ohuda.com/)


 覆い被さって来たものが体温のある存在だとかろうじて認識できた、その瞬間にはすでに鮮血が視界を塞いでいて、肉の重みを受け止めるだけでそれ以上の反応など出来はしなかった。
 遠くで誰かが大声を張り上げている。血飛沫が収まった後の景色はよくは覚えておらず、恐らくは魔法の発動で起きた閃光が空の色を何度か変えたとぼんやり把握する程度だった。
 胸にずしりと伸し掛かる身体を自然と抱き留めていた腕が、無意識のままその背をあやすようにひと撫でした。触れたのは布越しの肌の温もりではなく、ぬるりと滑る液体に塗れて崩れた肉の感触だった。
 途端、完全に止めてしまっていた息を思い出したように吸い上げて、その弾みで大きく心臓が握り潰されたかに等しく縮む錯覚に襲われた。
 胸に蹲るものはピクリとも動かない。カラカラに乾いた口から漏れるのは浅く不規則な呼吸ばかりで、肝心の名前を呟くことができない。
 こちらに向かって走ってくる人影がある。長い金髪を背後に流した細身のシルエットはセリスだ。セリスが何か叫びながら近付いてくる。普段冷静な彼女らしからぬ必死の形相で、その口がマッシュ、と悲鳴じみた声で呼びかけた。
 ──ああ、これはマッシュか。
 腕の中で動かないものを抱き留めながら、未だ呆然とした表情のエドガーは、ようやく自分を庇ったのがマッシュであると理解した。







 いつもと変わらぬ笑顔を再び目にしても、素直に喜びの言葉を伝えることはできなかった。
「悪かったよ。なあ、そろそろ機嫌直してくれよ……」
 悪いだなどと思っていない口調でマッシュが軽々しく笑う度、沸々と胸の中で怒りとは違う感情が沸き上がってくる。
 昨日の戦闘で瀕死の重症を負ったマッシュはセリスの魔法で回復したものの、大事をとって今日は一日休むことになっていた。それが本人には不満らしく、体を持て余してうろうろと飛空艇内をうろつき、こうして城から持参した書類に目を通しているエドガーの元へやって来ては形ばかりの謝罪を口にしていた。
 魔法がなければ死んでいた。それもセリスが間に合ったから免れたのであって、完全に心の臓が止まってしまえば死者を蘇生させる術など存在しない。
 その危機感が全く見られない笑顔に腹を立てている訳ではない。寧ろ普段通りのマッシュの態度は安堵さえ覚える。それなのに燻った靄が胸の真ん中に閊えているようで薄気味悪かった。
「……怒っている訳ではない」
 チェックを終えた書類を纏めて卓上で揃え、エドガーが小さく呟く。机の端に両手を乗せて兄に向かって身を乗り出していたマッシュは、納得していない表情を見せた。
「でもあんまり口聞いてくれないだろ……。心配かけて悪かったよ。もうあんな無茶しないから」
 その返答にエドガーの眉がピクリと揺れた。
 ──嘘をつけ。と反射的に溢れそうになった悪態を噛み殺す。
 あの時マッシュは考えてなどいなかった。頭で判断するよりも先に動いた身体を、どう制御する気でいるのか。
 そしてその事実こそがエドガーを最も不安に陥れるものだった。あの攻撃がマッシュ自身を狙ったものであれば、間違いなく弟は護身を第一に対処したはずだった。エドガーはそうしたマッシュの闘い方を何度も見て来た。
 それがエドガーに危機が迫っていると認めるや否や、まさにその身を盾にこの弟は飛び込んで来たのだ。迷いも恐れも何もなく、自ら頭に刷り込んだ使命を果たすべくマッシュはエドガーに身を挺した。
 無意識下の行動を改めるのは容易いことではない。それを承知しているエドガーは、もしまた似たような局面が訪れた場合はマッシュが迷わず同じことをすると確信していた。
「……魔法がなければ、今お前はここにいなかったんだぞ。それがどういう意味か分かっているのか」
「分かってるよ……。見通しが甘かったんだ」
「見通し? そもそも見通してなどいなかったはずだ」
 語調は自然と荒くなった。この息苦しさをどう表せばマッシュに伝わるのか分からない。怒りではない。怖れなのだ。
 マッシュが身を投げ出すということは、マッシュが自らエドガーからマッシュを奪ってしまうことであり、そこにエドガーの意思は入る隙がない。それがどれだけ怖ろしいことか、マッシュは少しも理解していない。
 それなのにマッシュと来たら、憎らしいくらい無垢な顔で悪いことなどしていないとでも言いたげに、本質を悟らずにその場凌ぎの謝罪を吐く。
 エドガーを護るためという大義名分を盾にして、エドガーの心を殺す唯一の手段をいつでも行使できる、その恐怖をどう説明すれば分かってくれるのか。
 苦々しく唇の端を噛んだエドガーの逡巡は、しかし意外にも早くマッシュに伝わることとなった。


 常に広い視野が必要であると肝に銘じていたはずの自分でさえこれかと、後から思い起こせば自嘲の笑みしか浮かんで来ないほど。
 『それ』を食らえば死をも免れないと予想ができた瞬間、身体は勝手に動いていた。
 ──ああ、これはどうしようもない。エドガーはあのもどかしい胸の靄が馬鹿馬鹿しくなるくらい、あっさりと自分をマッシュの盾として差し出した。他の迎撃方法もあったのかもしれない、しかしあの場ではそこまで頭は巡らない。
 閃いたのは、助けたいという強い想い。その向こう側にある、この身が消えることで助けたい存在が苦しむことになるだなどと考える余裕はなく、ただただ自分のエゴを通すために行動した、それだけのことだった。
 相手を思いやっての行為ではない。自己満足の最たるものがこの形ではないか。
 痛みというより強烈な熱を背負って仰ぎ見たマッシュの顔は、呆然として色がなかった。きっとかつての自分も同じ顔をしていただろう──意識を失う寸前に込み上げた笑みはマッシュの目にどう映っただろうか?
 魔法がなければ助からなかった。エドガーもマッシュも、一度は死んで相手の心をも殺したのだ。

 
 あれから、マッシュは二度と自己犠牲の手段を選びはしなかった。

(2018.05.09)