「兄貴、セッツァーが……」
 形ばかりのノックを二回、中にいると確信し切って返事も待たずにドアを開け、話まで始めて一歩部屋に足を踏み入れたマッシュが見た光景は、予想外の兄の寝顔だった。
 少し書類の整理をすると言って、飛空艇の割り当てられた部屋にエドガーが入って行ったのは一時間ほど前。次の目的地まで到着が大幅に遅れそうだとのセッツァーの言葉を伝達すべく遣わされたマッシュは、一人用のソファに身体を預けて瞼を下ろしているエドガーを前に眉を上げた。
 机上に顔を向けると、何かしらの書類が纏めて脇に置かれている。部屋に入って宣言通り書類の整理をしてからソファに移動したのか、はたまた最初から休むのが目的だったのかは分からないが、とにかくエドガーは眠ってしまっている。規則的に上下する胸を見る限り、今マッシュが訪れた際に立てた音で目を覚ますことはなかったようだ。
 戸口で少し考えて、マッシュは静かにドアを閉めた。入って来た時とは真逆で、注意を払って極力音を出さないように。
 そして机に収められた椅子まで足音を殺して歩き、背凭れにかけられているエドガーのストールを外して手にする。ここからは自分の呼吸音にすら気を遣い、そうっと近づいた眠る兄の胸から膝下辺りまで、無骨な指からは想像できないほど繊細な仕草でストールを掛けてやった。
 マッシュはしばらく息を潜めてエドガーを見下ろす。呼吸に乱れはなく、身体の何処かが動いた気配もない。起こさずに目的を遂げられたと自負し、穏やかに微笑んだ。
 エドガーが腰掛けているソファは一ヶ月ほど前にたまたま立ち寄った古物商で手に入れたものだった。
 一人掛けではあるが男性の身体全体を包み込める大きめのソファで、使い古されたブラウンの革の質感とフレームの意匠の緻密さを、口には出さないもののエドガーが大いに気に入ったのはその表情でピンと来た。
 気乗りしないフリをするエドガーを焚き付け、ドアを外さねば部屋に入れられないと渋るセッツァーを説き伏せて、全て自分がやるからとの約束通り運搬から取り付けまでマッシュが手ずから行った。案の定エドガーはソファを愛用し、今も身体を任せて人の訪れにも気づかないほど熟睡してしまっている。
 恐らくは書類だってきちんと処理した後のほんの転寝のつもりだったのだろう。あれだけ豪快にドアを開け放っても目を覚まさなかったのだから、疲れが溜まっていたのかもしれない──マッシュは耳を澄ませば微かに聴こえるエドガーの寝息に目を細めて、開く気配のない瞼の先に揃った睫毛をぼんやり眺めた。
 内向きの仕事が主であるためか、顔立ちは同じであるはずなのにエドガーの肌はマッシュに比べて格段に白かった。年中陽射しの下で修行三昧のマッシュが浅黒くなるのは仕方がないが、その環境の差か双子でありながら今では髪質すらも違う。
 肩から胸に垂れたエドガーの艶やかな金髪の房は、先程マッシュが掛けたストールで毛先が隠れてしまった。リボンの先でほんの少し波打つ金色が好きなマッシュは、それをじっくり眺められないことを少々残念に思った。
 丈が長めの背凭れに頭を乗せ、軽く上がった顎の肌がつるりと滑らかなのを覗き込み、マッシュは自分の無精髭を撫でながら双子と言えども印象の違うエドガーの顔を瞠り続ける。
 何しろ本人は眠っていて、どれだけ見つめても文句を言われないまたとない機会である。普段であれば何をじろじろ見ていると釘を刺されてしまう頃だろう。
 その文句を吐く唇も今は緩く閉じられて、微かな隙間からも呼気が出入りしているのか、いつもは艶やかな珊瑚色が少々乾いて見えた。
 昔は鏡を見ているようだった。今はとてもそんな風に思えない。鏡の中の自分を綺麗だと思うことなどありはしないと、マッシュの眉間が少しずつ狭められていく。
 軽く吸い込んだ息を、マッシュは意識的に止めた。そのまま喉を大きく上下させ、腰を屈めて顔を近づける。
 閉じた瞼が震えることも、形の良い眉がピクリと揺れることもないのを注意深く見つめながら、少しずつゆっくりと。
 エドガーの乱れのない呼吸がマッシュの鼻先にかかる位置で、逡巡は数秒と言うにはもう少し長かった。
 近づけた時に比べて性急な動きで身を起こしたマッシュは、続かなくなった息を天に向かってフッと短く吐き出した。そして眉根を寄せたまま目を閉じ、苦痛にも近い表情でややしばらく佇んで、もう一度深く息を吐くと共に肩をすとんと落とす。
 細めた目でエドガーを一瞥し、口元に苦い微笑を湛えたマッシュは、近づいた時と同じく足音を忍ばせてドアへ近づいた。そして音を立てないように開いたその向こうへ、するりと身体を滑らせて部屋を出て行った。

 マッシュが立ち去って少し後、指先一つ動かさないままに瞼だけを静かに開いたエドガーは、誰もいない空間を伏せ目がちの青い目で長いこと見つめてから、胸を温めているストールの端をくしゃりと握り締めた。
 それから乾いた珊瑚色の唇で、小さな溜息と共にポツリと零す。
「……意気地無し」
 そうして背凭れに乗せていた頭をごろりと転がし、程良い柔らかさの皮革に頬を当てて、身代わりの温もりに唇を寄せた。

(2018.05.15)