萌えシチュエーション15題より
「6.怖い夢を見て目覚めると、隣にあなた。」
(使用元:TOY様 http://toy.ohuda.com/)


『王位なんて、めんどくさいよな、自由もないし』

 声変わりが始まった頃だっただろうか、まだあどけなさの残る表情でありながら身体が着々と大人に近づきつつあったあの当時。

『王様なんて嫌だって言って、二人で逃げちゃうか』

 冗談ぽく笑った貴方は、それが叶うはずのない世迷言だと分かって言ったのだろう。少なくとも、自分のようにその言葉に希望を抱いたりはしなかったはずだ。
 あの時からとっくに覚悟を決めていたのだ。あまりに自分が無邪気に受け取るから。とても任せられない、背負うしかないと貴方を追い詰めた。

『恨みっこなしだぜ』

 あれは自身に言い聞かせるためでもあったのかもしれない。
 天にも刺さる勢いで高く放られたコインが、くるくるきらきらと月明かりを反射させて星の一部になった様を向かい合って見上げていたあの時、本当は裏と表のどちらが出るのを望んでいたのだろうか。
 この口で自由を選ぶと告げた時、複雑に微笑んだあの淋しげで何かを諦めたような顔は、どれだけ時間が経とうと胸から消えることはなかった。
 心臓に直に縫い付けられたかのように。寝ても覚めても、どれだけ修行に没頭しても、無にしたつもりの心の奥底を呪縛のように支配する。
 ゆらりと佇むその影が、じいっとこちらを見据えている。
 誰より愛する青の瞳が、嘆きの緋色に変わっていく。


 ──お前ばかりが自由を手にして、俺には束縛と重責だけが残った──



「──ッ……!!」
 視界の先は闇だった。
 漆黒かと思われたそれは時間の経過と共に少しずつ薄れ、現実に戻されたばかりで呆然と見開いていた目が最初の瞬きをする前に何やら動く輪郭を捉えた。
「……目ぇ覚めたのか」
 低い呟きを耳に受け、今度こそ完全に覚醒したマッシュは短く重い息を吐き出し、汗だくの身体を身動ぎさせる。
 気怠く上半身を起こしたのと、今し方マッシュを覗き込んでいた兄弟子が対面の壁に置かれた自分のベッドに戻ろうと背を向けたのは、ほぼ同時だった。
 一歩二歩で到達するほどベッド同士の距離は近くはない。兄弟子が起こしてくれたのだと察したマッシュは、ベッドに潜り込もうとしている彼に向かって気まずそうに声をかけた。
「……ありがとう」
 薄闇の向こう、ベッドの上の盛り上がった塊が一瞬動きを止めてから、小さな舌打ちが聞こえてくる。
「うんうんうるせぇから起こしただけだ。ホームシックなら早いとこママのところに帰んな」
 投げやりに吐き捨てられた言葉に苦笑いして、おやすみと小声で返すのみに徹したマッシュは、倒れ込むように背中をベッドに沈ませた。
 固くて狭いベッドに今でこそ慣れたが、最初の一ヶ月は腰が痛くて仕方がなかった。あの頃より少しは逞しくなっただろうか。
 濡れた額を腕で拭い、少しずつ汗が引いて冷えて来た肩に毛布をずり上げる。帰る場所はもうない。甘えられる存在もいない。今はここで生きるしかない。マッシュは冴えてしまった目をゆっくり何度も瞬きさせ、生まれ育った城の部屋に比べてずっと低い天井を見つめ続けた。
 熱を出したり寝込む回数は減ったように思う。早起きが辛いと思わなくなってきた。身体は新しい生活に馴染みつつあるのに、心が時折こんな風に引っ張られる。
 別れる前、最後に見た彼の人の目は穏やかだった。夢の中で出逢ったような、業火に見紛う緋色などではなかったはずだ。
 強くならねば。心も身体も。国を背負う彼の人を、支えるに相応しい男になるために。
 だから今のは悪夢などではない、弱い自分を戒めるための喝のようなものなのだ──小さく口元だけ微笑ませ、マッシュはその唇でもう一度おやすみと囁いた。魂の片割れに届くことを祈りながら。




「薪、割っとけよ」
 振り返れば声の主はすでに立ち去りかけている。返事はしたが、聞こえてはいないかもしれない。マッシュは積まれた薪の山を見下ろして溜息こそついたが、不満げな顔をするでもなく素直に薪割りに取り掛かり始めた。
 慣れてしまう程度にはこのようなやり取りは日常茶飯事だった。兄弟子とマッシュ二人に言いつけられた仕事は大抵がマッシュのみに押し付けられ、だからと言って口答えをする気になれないのは、自分の方が立場が下という他にその間兄弟子が遊んでいる訳ではないことを知っているからだった。
 雑用をこなすより、より実践的な修行に時間を使いたい。技を編み出し高めることを優先する兄弟子には彼なりの考えがあるのだろうと、マッシュは二人分の仕事を無心で片付ける。日に日に要領を得て作業速度は上がり、薪割りだろうと畑打ちだろうと苦ではなくなっていった。
 師から受ける修行は厳しく辛いものではあるが、幸い同じことを黙々とこなすことに長けていたマッシュは師匠の指示をきっちりと守った。
 小屋をスタートし、山頂の大木を回って再び小屋に戻るまでが一周、それを午前中に五周走れと言われたら、文句も言わずにきっちり走る。傾斜でバテて足が震え、息が上がって心臓が潰れそうでもマッシュは根を上げることはなかった。
 対して兄弟子は、忍耐といった言葉が似合う修行を嫌う傾向があった。走って体力をつけるなんて馬鹿馬鹿しいと、鼻で笑って山へ消える。昼を迎える頃に薄汚れた姿で戻って来るところを見ると、彼なりの独自の修行はして来たのだろう。
 元より格闘センスに優れていた兄弟子は、基礎鍛錬に長々時間をかけるより技を如何に磨くかに重きを置き、意見の相違で彼の父である師と衝突する光景もしばしば見られた。
 それでも兄弟子の恵まれた体格から繰り出される豪快な技はマッシュの憧れであり、尊敬する人であることは間違いなかった。
 彼のように技を使いこなすことができたら、怖いものなど何もないのだろうな──眩しいものを見つめるように、ほんの少しの悔しさを込めていつも羨望の眼差しで追っていた。
 あんな形で別れが来ることになるだなんて想像もしていなかった。


 向き合った兄弟子の瞳に炎が見えた。
 見覚えのある緋色だった。
 もしや全ての元凶は自分なのではないか──この身には人の心を傷つけ狂わせる魔の力が備わっているのではないだろうか?
 確かに慕った兄弟子をこの手で討つのが宿命だと言うのなら、国を背負った彼の人に対して自分が負うのは業なのだ。
 あの瞳と同じ色の緋色の炎が追って来る。
 視界が真っ赤に染まるこれは、怒りの炎か血の涙か──……



「……シュ、……マッシュ……」
 身体を優しく揺すられて、ハッと開いた目が捉えたのは、神妙な顔つきで隣の位置からマッシュを覗き込む優しい輝きだった。
 ベッドサイドで付けっ放しのランプが照らす瞳は僅かにオレンジ色を帯びているものの、その奥で確かに光る二つの青を認めてホッと息を吐いたマッシュは腕を伸ばす。身を起こしてマッシュを見下ろしていた兄を抱き寄せ、その髪に顔を埋めた。
「……酷い汗だ」
 胸を撫でる兄の呟きに、マッシュは慌てて兄の身体を引き離そうとした。汗に濡れた身体で抱き締めては不快だろうと思っての行動だったが、反して兄は自分から身を擦り寄せて来る。
「悪い夢でも、見ていたか」
 兄の問いかけに数秒黙り、うん、と小さく頷いた。
 見上げた天井はランプの灯火が微かに揺れて明るく染まっている。燃え尽きる寸前にも、産まれたばかりの火種のようにも思える緋色だった。
 まだ呼吸は荒い。マッシュの胸の動きに合わせて上下する兄の髪が擽ったい。柔らかさなどない身体は、しっかりと暖かかった。
「胸を貸そうか」
 ふと、マッシュの肩に頭を乗せた兄が囁く。思わず笑っていいやと答えかけて、マッシュは声を詰まらせた。
「……、……うん」
 照れ臭そうに返事をすると、兄は頭を持ち上げ赤味がかった闇の中で微笑み、元いた場所にごろりと仰向けに横たわってそこからマッシュに腕を広げた。
 マッシュも目を細めて笑い返し、兄に身体を預けようと背中を浮かせる。ふと視界を照らす灯に視線をやり、身を乗り出してランプを消した。
 世界が黒く染まったことに安堵し、マッシュは兄の胸に頭を乗せて頬擦りした。深く長い息を吐き出す。肩から力が抜けるのに反して、背中を抱き寄せてくれる兄の腕の力は強くなった。
 目を閉じても瞼の裏は暗いままだった。目を焼くような緋色は見えない。柔らかく髪を撫でられ、心地よさに口元が綻ぶのに眉間の幅は狭くなる。
 この人を護ると決めた。自分のしてきたことが何もかも正しいとは思わない。この先何度だって悪夢は襲い来るのだろう。その時に目を覚まさせてくれるのが常に貴方で在りますように。
 願わくば、貴方の瞳がいつまでも澄んだ青でありますように。
 この青を護るためなら、何だって耐えられる。

(2018.05.30)