6/2のロニの日によせて(こじつけ)


 資料整理で重い本も運びたいから付き合えと、時刻と場所を念押しされてきっちり出向いた五分前、約束の時間を三十分過ぎても兄は姿を現さなかった。
 またすっぽかされたと頬を膨らましながらマッシュがエドガーの部屋を訪ねると、案の定兄は机に向かって何やら真剣な顔をしている。マッシュがドアをノックしたことも、開けたことすら気づいていない。
 いつもの兄の悪い癖だな、と溜息をついたマッシュは、エドガーが何に熱中しているのか確認するために近づいた。背後に立って覗き込むがエドガーはピクリとも反応しない。机上に広げられた何かの設計図にはびっしりと文字や数字が書き込まれている。これは完全に自分の世界に入ってしまっている──呆れてわざとらしく息を吐いても兄の耳に届かないのが癪だった。
 一度こうなってしまうと、エドガーはちょっとやそっとでは現実世界に帰って来ない。恐らくは頭の中が、広げた設計図から成る構想中のものの完成形やそれを実現させるための計算式で埋め尽くされ、外の音をシャットアウトして集中し切っているのだろう。
 そもそもこの時間を指定したのはエドガーなのだ。設計図と睨めっこする予定ではなかったのだから、強引にこちらの世界に引き戻したって構わないだろう。
 決意したマッシュは一言「兄貴」と声をかけた。ごく普通の大きさの呼び声に、しかしエドガーは振り向くことはなかった。
「兄貴」
 今度はもう少し強めに声をかける。無反応のエドガーの後頭部を睨んで唇を尖らせたマッシュは、「あ・に・き」と苛立ちを声に乗せて怒鳴るように呼びかけた。それでもエドガーは動かなかった。
 マッシュはすっかり焦れて、とうとう肩を揺さぶってやろうかと手を浮かしかけ、ふと妙案が浮かんで少し考えたのちにその手を静かに下ろす。
 そしてエドガーの耳元すぐ傍に唇を寄せ、吐息混じりの低い声で擽るように秘密の名前を囁いた。
「……ロニ」
 途端、ビクンと大きくエドガーの肩が跳ね上がり、恐らくは不本意に振り返った顔の見開いた青い瞳の上に添えられた眉は垂れ下がって、火がついたように赤く染まった頬の薔薇色は眩しいほど鮮やかにマッシュの目に飛び込んできた。
 半開きになった唇が何かを言おうとしているのか音もなく戦慄き、その震えぶりがいじらしくてマッシュは思わず息を呑む。不意打ちに弱いエドガーの過剰反応は、普段の兄よりもずっと所作を子どもっぽく見せて愛らしささえ主張してきた。
 エドガーは紅潮した頬のままあたふたと動かした手で顔を触ったり髪を弄ったり、あからさまに狼狽してどもりながら目を泳がせる。
「え? レ、いや、あれ? マッシュ、なんで、……あ、そうか、資料……」
 ようやく自分のいる世界に戻ってきた挙動不審の愛しい兄を前に、辛抱できなくなったマッシュは椅子をガタンと乱雑に動かしエドガーと向き合って、まだ動揺しているその身体をひょいっと抱き上げた。
「うわっ……、ま、マッシュ、何を」
「もう我慢できねえ。抱く」
「な!? ちょ、ちょっと待て、俺は資料の整理を、」
「設計図見てたぐらいだ、急ぎじゃないんだろ」
「いやしかし、まだ昼間……」
「ロニが可愛いのが悪い」
 じたばた暴れる身体を胸にきつく抱き込み、耳朶を食めば大人しくなる。すっかり腰が砕けたエドガーが絶え絶えの息で零した「レネ」の呼びかけで、身体中の血を滾らせたマッシュはベッドへ一直線、の前にドアに鍵だけはしっかり掛けて、後はどうでも良いと理性を放り投げた。

(2018.06.02)