6/5の老後の日によせて


 そういえば、珍しくこの村に旅人が訪れたよと昨夜両親が話していたのを何気なく耳にはしていた。
 転がしたボールが思いの外速度を上げて進んで行くのを追いかけて、ふと誰かの足にぶつかって小さく跳ねたのち止まったことにハッとした。
 座部の下の両脇に大きな車輪をつけた、変わった椅子に座った老人だった。
 透き通るような長い銀髪を一つに束ねて肩から胸に垂らし、落ち窪んだ瞳の色は勿忘草に似た空色だった。穏やかな表情ではあるが、真正面から向き合うと自然と姿勢を正してしまうような不思議な威厳を感じるその老人は、静かな目でじっと足元に佇むボールを見下ろしていた。
 その奇妙な椅子の後ろに、もう一人長身の老人が付き添っていた。背凭れの両端についているグリップを握り、ろくな舗装もされていないこの道を押して来たのだろうか、座っている老人よりは幾分若々しく見えたが、彼もまた陽に透ける銀色の髪と窪んだ空色の瞳を持っていた。
 小さな村で出逢った見たことのない二人をぽかんと見上げ、ボールを拾うことも忘れてしまった。ふと、座っていた老人がこちらを見て元より細い目を更に細めて微かに唇に弧を描いた。その厳粛な微笑みに魅入られたように動けなくなった目の前で、老人は肘置きに掛けた手に力を込めてゆっくりと腰を浮かせる。
 椅子の後ろに立つ老人が何か案じるような表情で身を乗り出しかけた。その彼を軽く振り返った長い髪の老人は、何やら目と目を無言で合わせる。後ろの老人が静かに頷いたのを見届け、実に緩慢な動作で酷く時間をかけて老人は立ち上がった。
 背中が曲がってはいるが、座っている時は小柄に見えた身体は意外にも大きく、後ろの老人程ではないがこの村に住む大人達よりも長身ではないかと思わせた。一歩地に踏み出した足が頼りなく震えているのが見て取れる。何か声をかけるべきかと惑ったが、物言わぬ気迫に押されて黙って老人のすることを見守っていた。
 老人は震える足を支えにもう一歩踏み出し、更にもう一歩、一歩と実に長い時間を使って前進する。ボールを拾おうとしているのだと気付き、永劫を感じるゆったりとした動きに戸惑った。自分で拾った方が余程早いと分かっていたが、何故だかそうしてはいけない気がして、口も手も出せなかった。
 あまりに遅く、しかし確実に歩みを進めた老人はボールが届く位置でのろのろと腰を屈め、伸ばした腕も指先もやはり痛々しいほど震えている。ガタガタと揺れる手でボールを掴んだ老人が、鈍く重々しく持ち上げたそれをゆるゆるとこちらに差し出してきた。
 息を呑んで一連の動作を見守っていたためすぐに反応できず、ハッと意識を取り戻したかのように慌ててボールを受け取る。老人の細い瞳の中心で深い光を放つ青色に見惚れているうちに、椅子の後ろに控えていた長身の老人が素早く近づいて今にも崩折れそうな老人の身体を軽々と抱き上げた。
 高い位置に抱えられた老人の顔はもう見えなくなった。代わりに振り返った長身の老人は、こちらに穏やかな微笑を見せて「ありがとう」と低く静かな声で呟いた。
 拾ってもらった礼を言うのはこちらであるというのに、何故だか喉が詰まって声が出ずに頭だけぺこりと下げた。椅子まで戻った彼は腕の中の老人をそこに下ろし、もう一度こちらに優しく微笑んでから椅子をゆっくりと押して歩き始めた。
 カラカラと回る大きな車輪の音が遠ざかって聴こえなくなるまで、彼らが過ぎていった方向をぼんやりと眺めていた。
 この村で旅人に逢ったのはそれが最初で最後だった。

(2018.06.05)