萌えシチュエーション15題より
「9.いつもよりドキドキするキス」その2
(使用元:TOY様 http://toy.ohuda.com/)


 ようやく仕事に区切りがついて急ぎ足で向かった弟の部屋では時すでに遅し、部屋の主がお気に入りのカウチソファに寝転がって口を半開きに微かな鼾をかいていた。
 時計を見上げて苦笑混じりに溜息をついたエドガーは、仕方がないかと横たわるマッシュの腹の横に空いた僅かなスペースに腰を下ろす。黙ってマッシュを見下ろして、その平和な寝顔に優しく目を細めた。
 閉じた瞼は時折ピクピクと睫毛を震わせ、それに呼応するように鼻翼もまた広がったり縮まったりしている様が可笑しく、思わずエドガーの口角が上がる。薄っすら開いた口のせいで乾いてしまっている唇が小さく動き、何やらむにゃむにゃと聞き取れない言葉を呟いているのがあどけなくて、愛おしくてたまらなくなった。
 寝顔を見ていると随分と幼く見える。顎に散らばる無精髭がミスマッチに思えるほど子供っぽく、心地好さそうに鼾混じりの寝息を立てているマッシュは見る者に幸せを運ぶような表情で眠っていた。
 かつてはこんな寝顔をしょっちゅう見ていたものだ──エドガーは昔を懐かしみながら軽く身を乗り出した。幼少時、病気がちで寝込むことが多かったマッシュの枕元に誰より通ったのはエドガーであり、この世で一番長く弟の寝顔を見守って来た人間だと自負している。
 片手を握って傍にいるよと囁くと、何の不安もない顔をして嬉しそうに眠ったマッシュ。その時間、エドガーはマッシュのためだけに在り、マッシュもまたエドガーに安らぎを与えてくれる無二の存在となっていた。
 無垢なまま成長し、立派な体格となって再会した後も、マッシュの可愛らしさはそのままだと安堵した。大きな身体を緊張で震わせ、愛の言葉を辿々しく伝えてくれた日のことは忘れない。何と愛しくいじらしい姿だったか──恋愛や色事に不慣れな弟を導く優越感も伴って、エドガーにはこの同い年の弟がずっと子供であるかのように思っている節があった。
 大人になってもこの微笑ましい寝顔は変わらない、と悪戯心で乾いた唇に人差し指をちょんと当てた時だった。
 それまで何とも穏やかな表情で眠っていたマッシュの眉が、ピクリと動いた。みるみるうちに眉間に深い皺が刻まれ、顰めっ面となった寝顔にエドガーが驚く間も無く、半開きの唇の中で歯を噛み締めるような動きが見える。
 その口から苦しげな唸り声が漏れ、だらりと力の抜けていたはずの手脚が身動ぎ始めた。規則性がなくなった荒い寝息にいよいよ心配になったエドガーは、悪い夢からマッシュを呼び戻さんと逞しい両肩を揺さぶった、次の瞬間閉じられていた瞼がばちっと開いてまん丸の青い目がエドガーを捉えた。
 ……と思ったが、何処か焦点が合わないその目は大きく開かれたまま黙ってエドガーを見つめている。寝惚けているのかとエドガーが声をかけようと開いた口に、突然弾かれるように身を起こしたマッシュは噛み付くように口付けて来た。
 何をされたのか把握できずに硬直したエドガーの身体を荒々しく捕まえて引き寄せたマッシュは、そのまま身体を入れ替えるようにエドガーの背をソファに押し付ける。握られた肩に痛みすら感じて顔を顰めたエドガーが苦情を言う間も無く、唇は再びぶつかった。
 酷く乱暴な口付けだった。向かい合って目を閉じ、優しく重ねるキスばかり交わしていた相手が、首を深く曲げて唇と唇の隙間を全て塞ぐかのように強く濃く食らいついてくる。
 息が出来ない、と抗議を込めてエドガーがマッシュの背中を拳で叩くと、僅かに顔を上げたマッシュが至近距離でエドガーと向き合う。青い両目は相変わらず視点が定まらず、ギラギラと血走ってエドガーを見据えていた。その獣じみた目にゾクリと背筋が寒くなると同時に、戦いでしか見たことのない殺気立ったマッシュの気配がエドガーの胸を甘く竦ませた。
 こんな目で射抜かれたことはない。日頃エドガーを優しく穏やかに見守る青い目が、獲物を狙うかの如く爛々と輝き、その視線の鋭さでまるで裸にされたような気分になったエドガーは薄っすら頬を赤らめる。
 荒い呼吸が漏れる唇の隙間から僅かに舌が覗いて見える。舌舐めずりに似た先端の動きを見てドクンと心臓が大きく音を立てたことに動揺したエドガーは、弱々しくマッシュの肩に手を当てた。
 抵抗のつもりだったのだが、マッシュは眼をギラつかせたままエドガーの手首を掴んで雄々しくソファに縫い付ける。動きを封じられた瞬間、恐怖よりも期待で四肢から力が抜けてしまったエドガーは、情けなくも眉を垂らして強請るように顎を上げてしまった。
 エドガーの望み通り、余裕なく浅い呼吸を漏らす唇がマッシュの唇にすっぽりと呑み込まれる。深く長い口付けだった。
 もっと、もっと全て奪って欲しいと招き入れた舌に口内を捧げて好きに蹂躙させた。胸の中心を鷲掴みされたに等しい力強さだった。
 腰が震えて理性ごと吸い取られて行くような凶暴なキスで、くたりと手足を投げ出したエドガーの上に伸し掛かっていたマッシュの開かれていた目が、時間と共に少しずつ澄み始める。
 刺すような光が萎んで行き、何度かの瞬きの後にきょとんと青い目でしっかりとエドガーを見たマッシュは、ハッとして一言「夢か」と口の中で呟いた。そして兄を押さえつけている自分の手に初めて気づいた顔をして、慌てて手を離す。それは普段の優しいマッシュそのものの仕草だった。
 ごめん、ちょっと変な夢を、と口ごもりながら言い訳するマッシュへ、エドガーはまだ指先が震えたままの手を弱々しく伸ばす。寝癖がついて髪が解れたマッシュのうなじに触れて、爪の先で引っ掻くことで意思表示をするのが精一杯だった。
 どんな夢を見ていたのか興味がない訳ではない。しかしそれを尋ねるのがどうでもよくなるほど、今はこの翻弄された心身を早く攫って欲しかった。
 初めて見たマッシュのもうひとつの顔を戸惑う目の前の顔に重ね、エドガーは自分がどれほど浅ましく蕩けた顔をしているか自覚しながらも、それを正すことができずに甘えた目でマッシュに請うのだった。
 もう一度全てを奪うような口付けを、と。

(2018.07.02)