眠りの浅さを実感したのは即位してすぐの頃だった。 まだ深夜にまず一度目が覚める。 時刻は午前二時前後。 枕元に置いた時計を見ずとも分かる、眠りにつく時間がバラバラでも目覚めの時間は毎度驚くほど正確だった。 薄っすら開いた瞼の隙間から闇を見上げ、ぼんやり時を過ごして小一時間近く。それくらい経てば再びウトウトと二度目の眠りに落ちる。 夢の入り口には似合いの不思議な景色に引き込まれかけては、微かな物音で現実へと引き戻されたりしながら、微睡むこと数時間、今度は夜明けの手前にまた目が覚める。 午前四時を過ぎた頃だろう、季節によっては薄っすら陽が昇り始めている。早朝の肌寒さに肩を竦ませ、毛布をずり上げて心地良く身体が収まる場所を探し、あと二時間と自分に言い聞かせて目を閉じる。 すんなり眠れることもあればそうではない日もあり、どちらにせよ本来の起床時間にはスッキリとはいかなくとも自然と目が開く。 疲労回復の点では効率的な睡眠ではないのかもしれない。とはいえ眠りが浅くて悪いことばかりではない。 深夜の緊急事態に飛び起きるのが苦ではないし、異変に対する察知も早い。真夜中に城に火を放たれても知らせが来る前に身支度を整えられた実績もある。 仕事に支障が出たこともなし、そういう体質なのだろうといつしか疑問にも思わなくなった。 長い長い旅を終え、城に戻って五日目の夜のこと。 眠る前に明日必要となる書類を軽く整理していたところへ紅茶を運んでくれたマッシュが、ソファに背中を預けて眠そうに目を擦っている。 十年ぶりに城での生活を再開し始めたばかりのマッシュは、にこやかに振舞ってはいたがほんの少し疲れているように見えた。落ちかける瞼を何度も無理に見開こうと奮闘する様を横目で認めて微笑み、早めに休むといいと声をかけた。 その声に顔を上げたマッシュが、こちらを見て照れ臭そうに苦笑いを零す。 「なあ、兄貴……、一緒に、寝ちゃダメかな」 大きな身体を丸めて上目遣いに請うマッシュに向けた目を見開き、束ねた書類を手にしたままキョトンと瞬きをしてしまった。マッシュの頬が薄っすら赤らんだのを見て、思わず軽く吹き出しながら尋ねた。 「なんだ、どうした? 久し振りの城は落ち着かんか」 「なんかさ、ベッドが広過ぎて……、よく眠れねえんだ」 「逆ならまだ言い分も分かるんだがなあ」 くつくつと笑いながら、書類の端を整えて机上に置き、眼鏡を外して髪を解いた。緩く編み直して背中にはね退け、すでに着替えは終えていたのでそのままベッドへ向かう。腰を下ろしてマッシュを手招いた。 マッシュの目が輝き、頬が嬉しそうに緩んだのが見える。まるで子供のようだとこちらまで顔が綻んでしまった。 呼び寄せられたマッシュが立ち上がるのを確認し、灯りを落とせと手振りで示してから先にベッドに潜り込む。 横たわって間も無く部屋が薄暗くなり、ギシッと音を立ててベッドの半分が揺れ沈んだ。それからもぞもぞと近づいて来る大きな塊の動きが可笑しくて、つい忍び笑いで目尻が下がる。 「何年振りかな、同じベッドで眠るのは」 「ガキの時以来だもんな。十年どころじゃないよな」 独り言のように呟くと、隣から返事がある。その事実がじんわり胸を温める。肩と肩が触れ合って、そこからマッシュの人より少し高めの体温が伝わってきた。 「お前の身体に合わせて大きめのベッドを用意させたんだがな?」 「うー……ん、城出てから狭いベッドで寝るのに慣れちまって、なんか寝返りうったら何処までも行っちまいそうな感じが落ち着かなくてさあ」 「なんだそれは」 堪え切れずに肩を震わせて笑うと、マッシュの小さな笑いも耳に届く。 「それにさ」 笑いながら、マッシュが一度言葉を区切って軽く深呼吸したのが分かった。笑うのを止めて顔を向けると、暗闇に慣れた目がすぐ傍にあるマッシュの顔の輪郭を読み取った。 「城に戻ってから、昼間は兄貴も忙しくてなかなかゆっくり話す時間もなかっただろ。折角帰って来たし、……もう少し近くにいたいなって」 顔色も表情も見えない明るさで、しかしマッシュがどんな顔をしているかは容易に想像がつき、思わず目を細めて微笑みを返す。答える代わりに頭を寄せ、マッシュの頭に触れる位置で目を閉じた。 「さあ、明日も忙しいぞ。眠ろう」 「うん、おやすみ」 優しく低い声が心地よく耳を擽る。瞼の裏の闇を見つめて、もしかすると夜中にマッシュを何度か起こしてしまうかもしれないと懸念した。 一人で眠るより落ち着かなくさせてしまうかもしれないな──浅い眠りを申し訳なく思いながらも、触れた部分からこちらの身体を包むように忍び込んで来る熱に全身を温められ、普段よりもすんなりと眠りの世界に引き込まれて行った。 「……き、兄貴」 頭の上から響く声に眉を顰め、しかししがみついているものの暖かさからは離れ難く、身動ぎしながら柔らかな感触に顔を埋めて頬を擦り付けた。 「う……ん」 「兄貴、そろそろ起きないと。朝だよ」 「ん……、あ、さ……?」 背中をぽんぽんと優しく叩かれ、渋々開いた瞼の向こうはすっかり明るく、寝惚けた頭でその景色の意味がすぐには理解できなかった。 徐々に覚めてきた目が半開きから大きく開かれるまで、まるで抱き枕のように抱えているものがマッシュの身体であり、その逞しい胸の上で頬を潰していること、何より完全に陽が昇った時刻であること、それまで一度も目が覚めなかったことなど、沢山の衝撃に頭はすっかり混乱した。 「朝!?」 ガバッと身を起こして辺りを確認するが、間違いなく自分の部屋のベッドの上、そして見上げた時計は普段よりも半刻近く遅い。 昨夜の会話は覚えている。マッシュと並んで眠ったことも。 しかし目を閉じてから一瞬で訪れたかのような朝の存在に動揺を隠せずにいると、マッシュが同じく身体を起こしてから不思議そうに小首を傾げた。 「どうかしたのか? ひょっとして起こすの遅かった? ごめんな、よく寝てたからつい」 「よく……寝てた? 俺が?」 「うん、グッスリ」 「夜中に起き上がったりしていなかったか?」 「? いや、多分。俺のこと枕にして寝てたよ」 歯を見せて笑うマッシュの悪戯っぽい顔を間の抜けた表情で眺め、確かに夜中に起きた記憶がまるでないことに呆然とする。 ただの一度も目が覚めなかった。この十年、旅の間ですら必ず二度は起きていたというのに。それどころか夢すら覚えていない。目を閉じたら即朝が来た、こんな感覚は一体いつ振りなのか── 「ガキの頃とおんなじだな、兄貴。よく言ってたよな、寝たらすぐ朝が来て勿体無いって」 「え……」 「寝る前に、チョコレートたらふく食べる夢見られますようにってお祈りしてから眠ったのに、グッスリ寝過ぎて夢も見られなかったって怒ってたよな」 目を見開くと同時に過去の記憶が脳裏に閃く。 『寝たら朝になっちゃうの、もったいないよな。どうせならいい夢見たいのにさ』 『兄貴はいっつもグッスリ眠れていいなあ。俺、夜中に何回か起きちゃった。でもほんの少しだけ夢見たよ』 『どんな夢?』 『兄貴と遊んでた』 『マッシュこそいいなあ! 夢の中でも遊べるなんてさ!』 ──ああ、そうだった。子供の頃は寝つきが良く眠りも深かったではないか──今の今まで忘れていたことを思い出し、いつもなら気怠く感じる目覚めが妙にスッキリとしていて頭が軽いことに驚いた。 マッシュは両手を天に突き上げ大きく伸びをして、朝の鍛錬サボっちまった、と呟く。しがみついていたせいで起きられなかったのだと分かって顔が熱くなった。 腕を解しながら身体を覚醒させるマッシュを横目に、その胸に自身がつけただろう涎の跡を確認して、居た堪れなさに目を逸らす。 マッシュは軽く上下させた肩を最後にストンと下ろし、よし、と小さく口にしてベッドから足を床につけた。その大きな背中にハッとして、思わず「マッシュ」と呼びかける。 マッシュは軽く振り返り、尋ねるように優しい目を細めてみせた。その淡い青に口籠もりながら、一言すまんと告げる。マッシュが不思議そうに瞬きをした。 「……俺のせいで、お前がよく眠れなかったんじゃないか……?」 怖々と問いかけた相手はキョトンと目を丸くしてからにっこり笑い、首を横に振る。 「いや。あったかくて、落ち着いた」 「まさか」 「ホントだって。ガキの頃思い出して懐かしかったよ。だからさ、兄貴さえ良ければ」 今夜も一緒に寝てもいい? ──微笑みに魅入られたようにぼんやりと頷いた時は、マッシュを拘束する申し訳なさ半分と期待も半分だった。 こんなによく眠れたのは本当に久し振りで、マッシュと一緒ならまたあっという間に朝を迎えるほど深い眠りを味わえるのではないか、と。 しかしマッシュがいなければ眠れなくなることに悩むようになるとは、この頃は考えもしなかった。 あの暖かい腕と厚い胸に抱かれていなければ、安心して眠りにつくことさえできなくなるだなんて、思いもしなかったのだ。この頃はまだ。 |