「危ねえっ……!」
 声と同時に伸びた手がほんのニ秒遅かったら、束ねて掴んだ四本の指は触れることも叶わずに、崩落した地面と共に闇の底へ落ちて行ったのだろう。
 節くれ立ったエドガーの長い指をきつく握り締め、僅かな足場で万が一にも共に転げ落ちたりしないよう、マッシュは岩壁に爪を突き立ててエドガーを引き上げた。
 傍目には軽々と引っ張り上げられたように見えるだろうが、完全に足が浮いた状態の成人男性をバランスを崩さず片手のみで引き上げるのは容易なことではない。他の人間には到底無理な芸当を見事にやってのけたマッシュは、持ち上げたエドガーの身体を自分の胸に押し付けるように引き寄せて、その背にしっかりと腕を回した。
 薄地のタンクトップ越しにエドガーの身体の熱が伝わってくる。はあ、と安堵と思われる溜息を耳の傍で受けたマッシュは、崩れ切っていない残りの地面に注意深く足を乗せ、エドガーを強い力で抱えながら難所を越えた。


「すまん、助かった」
 エドガーの控え目な笑顔と肩に触れた手のひら、順に見やったマッシュもまた静かに微笑んだ。
「危なかったな。近くにいて良かった」
「いや、全くだ。あそこの地面が脆いのは分かっていたんだが、ああまで大きく崩れるとは。お前がいてくれなければ真っ逆さまだったな」
 やや戯けた口調で肩を竦めたエドガーの前で、マッシュが力強く口角を上げて優しい目を光らせた。
「大丈夫だ。俺が必ず兄貴を守る」
 きっぱりと告げるとエドガーは眼を細め、少し照れ臭さを醸し出しながらも実に嬉しそうな微笑を浮かべる。
 その時、先を進む仲間たちが遅れた兄弟を案じる呼び声を二人は揃って耳にした。エドガーは声の方向に顔を向けて今行くと声を張り上げ、マッシュを促すように振り返る。
 マッシュはにこりと笑い、軽く手を上げてエドガーに手のひらを見せた。
「さっき、少し擦り剥いた。応急処置して行くよ。兄貴は先に行っててくれ」
 エドガーが微かに眉を寄せる。
「怪我か? 手当てなら俺が手伝うぞ」
「いや、あんまり遅いとロックたちが引き返してくるかもしれない。大した傷じゃないし、手間をかけると悪いからな。数分で追いつく」
 マッシュのきっぱりとした言葉に軽く目を伏せたエドガーは、小さく頷いてから分かったと口にし、逞しい二の腕をぽんぽんと手のひらで優しく叩いた。
「早く来いよ」
「ああ」
 マッシュの返事を確認してマントを翻したエドガーは、一度だけ振り返ってマッシュと目線を合わせてから、再び前を向き颯爽と歩き出した。
 エドガーの後ろ姿を見送ったマッシュは、その揺れるマントの裾が視界から消えたことを確認し、岩壁にどんと背中をつける。
 そのまま重力に引き寄せられるかのように、ずるずると腰を落としてしゃがみ込んだ。立てた両膝に伸ばした腕を乗せたマッシュは手首から先をだらりと垂らし、頭も同じく項垂れる。そして深く長い息をゆっくりと吐き出した。
 ──掴むのがほんの二秒遅かったら、助けることができなかった。
 記憶が巻き戻される。先ほどの映像が苦痛を伴なって閉じた瞼の裏に蘇り、凛々しい眉を歪ませた。
 ほんの二秒。今回は間に合った。もしもあの二秒を取り零していたら。
 万が一が起こった時、やり直しなどできるはずがない。確実に、間違いなく守り切る方法もない。
 今回は偶々運が良かった。伸ばした手と手が噛み合った。あの時兄の指先が僅かに曲がっていたのなら、この手は虚空を掻いただろう。
 額に浮かぶ汗が前髪に染み込む。鼓動はもうずっと速度を上げたまま緩やかになる気配がなく、露出している腕は小刻みに震えてびっしり鳥肌が立っている。瞬時に青ざめた顔はとても人前に出せるものではなく、荒い呼吸は理性をなくした獣のようだと自虐的に思った。
 心臓を握り潰されるに等しい強烈な不安だった。もしも最悪の時が来たら。もしもあの人を喪う時が訪れたら。
 想像するのも悍ましい「もしも」は、恐怖となって怯えた心を追い詰める。

 あの人のために強くなった。身体を鍛え技を磨き、確かに大きな力を手に入れた。
 だけど再びあの人に出逢って、心は何より弱くなった。失うことが怖くなった。
 あの人のために誰より強くなったのに、あの人がいるから誰よりも弱くなった。

 確実にあの人を護る道があるというのなら、悪魔に身を捧げても構わない。
 それが出来ないのだから、恐怖を堪えて傍にいるしかない──立ち上がったマッシュは顔を上げ、エドガーが消えた方向を見据えて足を踏み出した。
 身体の震えは止まっていた。

(2018.07.16)