10/1の、珈琲の日、日本茶の日、食文化の日、
日本酒の日、ネクタイの日、眼鏡の日、香水の日によせて
(詰め込めるだけ詰め込んでしかも二日遅刻)


 手にしたカップを優雅に鼻先へ近づけて、湯気から香る芳ばしい匂いを満足気に吸い込んでから、一口飲み干してほうっと息を吐く。
 対面に座るエドガーの艶然とした表情をにこやかに見守っていたマッシュもまた、手の中のカップを唇に寄せた。
「たまにはいいな、珈琲も」
 がぶりと口に含んだ程良い苦みを喉に通して、エドガーの言葉に頷きつつ、次いでマッシュは茶菓子に用意したアマレッティに手を伸ばす。
「紅茶の方が好きなんだけど、時々飲みたくなるんだよな。この前カイエンが送ってくれたお茶と迷ったんだけど、アマレッティなら珈琲の方が合うかなと思って」
「ああ、カイエンのお茶ならあれだ、アンコ? アンコの菓子が欲しくなる」
「兄貴が食わず嫌いして結局どハマりしたやつね」
「うるさいぞ。異国の食文化は奥深いが、俺は用心深いんだ」
 もう一口珈琲を味わって、エドガーもマッシュに倣いアマレッティを口に放り込んだ。サクサクと咀嚼しながら不貞腐れたように軽く頬を膨らませるエドガーを見つめ、マッシュは愛おしげに目を細めながらカップに口をつける。
「ドマならお茶もいいけど酒もいいよな。酔っ払ったカイエンの介抱は大変だったけどさ」
「近くカイエンとドマの酒を酌み交わせるかもしれんぞ」
「え?」
 カップを顔に寄せる手を止めたマッシュが顔を上げると、にんまりと笑ったエドガーがカップから離した手を膝の上で組んでいた。
「実は話というのはそのことなんだ。旧帝国の幹部とドマも交えて会合を行う案が持ち上がっているんだが、出来れば内々に済ませたくてな。うちに招くのが手っ取り早いと思っていたが、未だ復興途中のドマだからな、指導者が不在となるのを渋っている様子だった。ならば俺が出向けば話が早いだろう?」
「う、ん」
 早口で説明するエドガーの言葉は半分程度しか頭に入って来なかったが、とりあえず頷いたマッシュはカップの縁に唇を当てたまま上目遣いにエドガーを見ていた。
「まだドマ近辺の情勢は安定していない。俺が旧帝国の人間とコンタクトを取るのを快く思わない人間も少なからずいる。そこで今回はフィガロ王としてではなく、素性を隠して秘密裏に訪れるつもりなんだが、そうなると大々的に護衛を付けるわけにはいかなくなってな。……お前、ついて来てくれないか」
 そこまで告げて珈琲で口を湿らせたエドガーの依頼の内容を、ワンテンポ遅れて理解したマッシュはそんなことかと安堵の息を漏らす。
「勿論。俺一人で充分だ」
「そうか、頼もしいな。……ただし、先に言った通り飽くまで内々に済ませたい。お前のなりは目立つからな、軽い変装をしてもらおうと思うんだが……構わないか?」
「変装? う、うん……ま、まあ軽くなら」
 曖昧に頷いたマッシュを見るエドガーの目が一瞬光った──マッシュがそんな馬鹿げた錯覚に眉を顰めているうちに、エドガーは嬉々としてソファから立ち上がり、少し待ってろと言い残して何かを取りに席を外してしまった。
 何だか兄の様子が浮ついている気がする、とマッシュが首を傾げて待っていると、程なくして戻って来たエドガーがマッシュの胸に変装用具一式を押し付けた。
「お前は俺の秘書ということにした。オーダーで作らせたスーツだ、試着してみてくれ」
「お、オーダーっていつの間に!?」
「お前の返事を待ってからじゃ遅くなるだろう! さあさあ早く」
「だって、ここ執務室……」
「大丈夫だ、人払いは済ませてある」
 爛々と輝くエドガーの眼差しに気圧されて、マッシュは渋々立ち上がる。
 ここ数日ではダントツの満面の笑みでマッシュを見守るエドガーを前にして、マッシュは居心地の悪さに背中を丸めながらも今着ている服を脱いだ。用意されたシャツに袖を通し、堅苦しいスーツを身に付けて行く。
 着慣れない類の服ではあるが、気味が悪いくらい身体にフィットしてマッシュは顔を顰めた。採寸された覚えはないが、エドガーは何故こうも正確にマッシュのサイズを把握しているのだろう。
「似合うじゃないか! グッと知的に見えるぞ」
 拍手をしながら賞賛をくれるエドガーの頬が薄っすら興奮で赤らんでいる。やけにテンションの高い兄に若干寒気を覚えつつ、マッシュは無理をして愛想笑いを浮かべた。
「普段とはガラッとイメージが変わるからな、傍目にもお前だとは気付かれまい。顎少し上げろ、ネクタイ締めてやる」
「え、今そこまでしなくても……」
「完璧な変装かどうか確認するためだ」
 ネクタイの端と端を両手に持ち、まるで獲物を捕獲するかのように近づいてくるエドガーの目には一分の隙もない。
 観念したマッシュは、玩具にされることを覚悟して大きな溜息をひとつ零してから、大人しく兄に従った。
「苦しくないか? マッシュ」
「ん……、平気」
「お前がネクタイを締めている姿なんてなかなかお目にかかれないからな……、よし、出来た。いいぞ、男の色気が出てきたな」
「色気は変装に必要ないと思うんだけど」
「もう少し手を加えよう、この黒縁眼鏡をかけてみろ」
「俺視力悪くないけど」
「伊達眼鏡だ、気にするな」
 明らかに最初から装着させる気満々で準備していたと思われる眼鏡を手に、楽しさを隠し切れずに緩んだ口元とは裏腹の鋭い眼光で迫るエドガーは、有無を言わせずマッシュに眼鏡を掛けさせた。
 眼鏡のつるがこめかみを掠って思わず目を瞑ったマッシュが、その目を開いた時に見たのは真正面で夢見心地に目を細めるエドガーの笑みだった。
「い、いいじゃないか……、何だか知らない男のようだ……、そうだ、髪も少し変えよう」
 手に香油を塗してマッシュの髪を楽しげに撫で付けるエドガーに対し、マッシュは冴えない顔で眉を垂らす。
「なあ、これ試着なんだよな?」
「そうだとも。匂いも変えるか」
「うぶっ、俺香水苦手だって……!」
 不意に吹きつけられた濃厚な香りの霧に咽せて、咳き込んだマッシュが眼鏡の下から擦った涙目を開くと、うっとりと目を蕩かせたエドガーが珍しく媚びるような上目遣いでにじり寄って来ていた。
 思わず後退りしたマッシュの脚がソファの肘に当たり、バランスを崩して尻をつく。その上に伸し掛かるように、肘置きに膝を乗せたエドガーがマッシュの首に手を伸ばして来た。
「たまには、こういう趣向も悪くないだろう……?」
 うなじに腕を絡ませて耳元に唇を寄せ、吐息混じりに囁かれてはたまらない。マッシュは肩を竦めて奥歯を噛み締め、胸を合わせてくるエドガーを押し退けようとした。
「兄貴、ここ執務室だろ!」
「言ったろ、人払いはしてある」
「もう、これ変装じゃなくて兄貴の趣味だろっ……」
「変装するのは本当だぞ。折角化けるんだ、どうせなら、日々のマンネリ打開にだな……」
「マンネリって……言ったな、このっ」
 ソファに押し倒さん勢いでマッシュの上に預けられていたエドガーの身体を強く引き寄せ、抱き込んでから身を起こしたマッシュは今度はエドガーの背中をソファに沈めた。
 一度深めに唇を合わせて、首に齧り付くエドガーの腕から弱々しく力が抜けていくことを確認したマッシュは、邪魔な眼鏡を外そうとつるに手をかけた。
「あ、眼鏡は外すな」
「……」
 不意に真顔で指示されて、渋い顔になりながらも今度は首元に手を伸ばすと、
「ネクタイも抜くなよ。緩めるのは……構わん……」
 期待に満ちた眼差しを下から向けられて、狂った調子を取り戻せないマッシュはひとまずネクタイを緩めて小さく溜息を漏らす。
 せめてもの抵抗に頭をガリガリと掻いて撫で付けられた髪をぐしゃぐしゃに乱してから、マッシュはエドガーの喉に噛み付くように口付けた。

(2018.10.03)