10/4の天使の日によせて(一日遅刻)


「素晴らしい歌声ですわ、マシアス様」
 ピアノの椅子から立ち上がった音楽教師が両手を組み合わせて大袈裟に胸の前へ掲げ、気恥ずかしげに広げた譜面で顔を隠したマッシュを称賛した。
 そのマッシュの後方で、照れ臭そうに丸まる弟の背中を見つめながら、椅子に腰掛けて浮いた足をぶらぶらと揺らすエドガーの表情には若干の羨ましさが滲み出ている。
 が、すぐに自分の行動がはしたないものだと気がついたのだろう、エドガーはおもむろに姿勢を正して微笑み、柔らかな拍手をした。
「とても澄んだ美しいお声でした……心が洗われるようです」
 しきりに弟を褒めちぎる教師の言葉を聞き、先ほど自分が歌った時はここまで言われなかったなと多少は面白くない気分になるものの、エドガーもマッシュの歌が心から綺麗で素敵だと思っていたので悔しくはなかった。
 エドガーの歌だって及第点はもらっていたのだ。上手いか下手かで問えばとてもお上手ですね、と返ってくる程度には歌えていた。
 マッシュの歌は上手いだけではない。思わず目を閉じてうっとり聴き入ってしまいたくなるような、ノイズのない透き通る声質が聴く者に安らぎを与えてくれる。
 教師が目を蕩かせて口にした、「マシアス様のお声は天からの授かりものですね」との言葉はエドガーにとって妙に的を得ていて、成る程絵画で見た天使の歌声とはマッシュのような声かもしれないと納得できる、それだけの魅力が彼の歌にはあった。
 今もこうして眺めているマッシュの背中に、純白の羽が生えて来るのではとイメージしてしまうくらいに。
 勿論そんなはずはないと、大人顔負けで知恵が回る現実主義の少年エドガーは重々理解していたものの、穏やかな眼差しの心優しい弟が本当は天使であると言われても、恐らく驚きはしないだろうと確信する程度の夢見がちな性質は持ち合わせていた。
 教師のおべんちゃらは飽きたから、もう一度歌ってくれないかな──ひょっとしたら羽が生える瞬間が見られるかもしれない、エドガーはマッシュの背中を見つめたまま天使の歌声の再来を願っていた。



 *



 何の形ともつかないぼんやりした夢と現を行ったり来たり、暖かい毛布の中でふんわりした枕に頭を預け、気持ち良く微睡みながらじわじわ晴れる夢の霧に浸る、幸せな時間。
 何処からか聴こえてくる、朗らかでありながら優しく澄んだ声が、懐かしい歌のメロディを奏でている。
 震える睫毛の隙間から覗く陽射しは柔らかく、よく晴れた爽やかな朝にあまりに似合いの美声が、未だ寝顔のままのエドガーの口元に自然と笑みを乗せてくれた。
 ──そうか、休暇で別荘に来ていたのだったか。
 徐々に頭が覚醒し始め、ここが何処であるのかを思い出す。城の寝室では朝食の支度中に漂う美味しそうな匂いも、甘やかな歌声も堪能することができないだろう。
 声の主はナイフ片手に随分と機嫌良く歌っているようだ。鼻歌程度はしょっちゅうでも、ここまでしっかりと歌っているのを聴くのは久しぶりだった。
 幼い頃の透き通るような天使の声は、大人になって深みのあるバリトンに変化した。その低く艶のある声で囁かれるだけで身体から力が抜けてしまいそうなほど、色気を含んだあの愛しい声が今、耳触り良く愛の歌を紡いでいる。
 何と贅沢な目覚めだろう──エドガーは目を閉じたまま身をずらし、数時間前までは温もりがあったはずの場所に顔を埋めて息を吸い込む。心を落ち着かせてくれる慣れ親しんだ匂いに微笑んで、誰かの代わりに毛布を掻き寄せ抱き込んだ。
 優しい歌声が近づいてくる。どうやら迎えが来たようだ──大人になった天使の来訪に頬が緩み、寝たふりがなかなかうまくいかない。
 天からの授かりものを、独り占めできる特権に喜び震えずにいられようか。
 さて、彼の背中に羽は生えているだろうか? ──歌声に乗って響いてくる軽やかな靴音と、高鳴る胸の鼓動が重なった。

(2018.10.04)